血のにおい
「よかったな」
その言葉にうなずく。
まだ手が震えている。兄さんの血も付きっぱなしだ。
「落ち着いたら、帰ろう。ここからならば、歩いて帰れないことはない」
うなずいて、立ち上がると、先生も寄り添うように立ち上がって、二人で並んで歩いた。
「ねえ、先生」
「……なんだ?」
兄さんが見つかったんだから、先生ともお別れだろうかと、見上げると、先生は鋭い表情をして、歩みを止めた。そして、さっとあたりに目を滑らせて、後ろを肩越しに見る。
「先生?」
「……変化して、おまわりの車列を追えるか?」
「え? できますけど」
「じゃあ、ここまで、ロスを呼んできてくれ。ちょっと気になることができた」
そういって先生は踵を返して私に背を向けた。
「いいか? ここにおまわりを呼んでくるんだぞ」
「はい」
何かを感じて、私は、何も考えずに狼の姿になって鼻を頼りに警官の馬車を追って走っていた。
「おい、狼だぞ!」
「追っ払え!」
「待って」
馬車の前に回り込んで、人の姿に戻ると、御者が驚いて馬を止めた。
「君は……」
「先生が、先生が気になることができたから戻ってきてくれって、ヴェボルンに戻ってくれって」
「……どういうことだ?」
「ロスさんを呼んでいます」
そういうと、馬車から顔をのぞかせた、ハシバミ色の髪を短く刈り上げている若い男が顔をしかめて、御者にこの機だけ戻ってくれ、と指示を飛ばした。
「本当に、あいつが呼んだのか?」
「ええ。私に、警官を呼んできてくれって」
馬車の屋根に乗って、全速力でもと来た道を戻っていく。そして、公園へ着いた時、新しい血のにおいがするのに私は震えた。
なぜ、血のにおいが増えているの。
「……なんだっ!」
ロスさんは、異様な気配を漂わせる公園を見て眉を寄せ、そして、息をのんだ。
「まさかあいつ。おい、確保用の縄と、剣を!」
そういって、彼は何人かを引き連れて公園へ走っていく。私もそのあとを追いかける。
「……」
闇の中、火花が散っていた。火花の中心にいるのは両手に短剣を持って攻撃をしのいでいる血みどろの先生。
「先生っ!」
銀色の髪を振り乱して両手に持った、黒い柄の大振りのナイフをふるってせまりくる刃の攻撃をしのぎ、火花を散らしている。
瞳が紅く光っているように見えるのは気のせいだろうか。
「これは光栄だ。紅の死神と手を合わせられるなんざよぉ!」
楽しげな男の声。聞き覚えのある声。この声は――。
「お前っ!」
嗅ぎ覚えのあるせっけんと、かすかな地下の下水の混ざった匂いをさせている男に、毛が逆立つほどの怒りを感じていた。
近くの警官が持っていた剣を抜いて先生に襲っている男へ飛びつく。
「おい!」
先生の焦った声。
「おお? 獲物がこっちから来てくれるとは」
そういって、男が私に向かってくる。立ち止まって体勢を整え、剣を構える。
「残念だったな、お嬢さん。目の前に来るなんて愚なんざ、起こさねえよ?」
どう移動したのか。
においも、気配も感じさずに、後ろから声が聞こえて驚く。と思ったら、風を切る音。
ダメだ。
剣を取り落して目を閉じて身を固くすると、風を切る音とともに、がっ、と鈍い音が聞こえた。
「ヴィン!」
叫ぶようなロスさんの声。そして、一発の銃声、と同時に、私に重たいものがかぶさってきた。
「え……」
慣れたいいにおいと、鉄さびのにおいが混ざったにおいがした。
そして、覆いかぶさってきた重たいものと一緒に倒れこんで、それが温かくて、でも濡れてきて、驚いて目を開くと視界は黒かった。
「ヴィン! おい!」
黒いものがのけられて、焦ったようなロスさんが、黒いものに呼びかけている。
「え……」
ロスさんに抱き起こされていたのは、ぐったりと目をつぶった先生の姿だった。左胸の肩寄りのあたりにナイフが深々とつきこまれている。
「いやっ!」
「お嬢さん!」
ロスさんの仲間の警官が、先生に飛びつこうとする私を押さえにかかる。
「担架だ! ナイフ抜くな」
素早い動きで担架で馬車に乗せられ、運ばれていく先生を追いかけて、私は変化して馬車を追いかけていた。




