唾液剣士 vs 放屁師 - 日下部 雅(シリウス)⑤
「刀を抜くと良い。僕は、シリウスだ」
僕は疲労した様子の剣崎にそう告げた。
これより、“負けられない男と男の戦い”から“人間と神の戦い”に移行する。
……的な流れになっちゃうね、この発言は。
日下部の頭が陥没させられそうになったのを見て、うっかり出てきてしまった次第だけど。
バトンタッチだなんて言ってしまったけど、いま冷静に考えたら戦う以外の方法で終わらせられるじゃないか。
この白い円から出れば僕らの負けで勝負は終わる。勝ち負けに興味はない。僕は日下部の身体が五体満足ならそれで良いのさ。
あんな人間を辞めかけているスピーディー剣士に勝ちに行こうなんて思ったら、目立つのは当然だし無傷ではきっといられない。
「殺っちまぇ!! 負けたらヤキだぞ」
「あいつは1回お前を殺した! だから、殺してやれ!!」
橙色のハチマキを巻いた連中が、必死な顔で声を荒げている。
何もこんな脅迫じみた声援に乗せられることはない。
誰が何と言おうと、これは命を賭した決闘なんかじゃなく娯楽の競技に過ぎないんだ。
今すぐにでも外に出たいんだけど…。
ダッ…!
高速の剣士、剣崎怜。
刀を鞘に収めたまま、こちらに向かって走り出した。
悠長に後ろに向いて歩き出したりなんてしたら、頭をかち割られるね。
夏の風物詩、スイカ割りのように。
だけど、降参をしたいと口で説明できるほど彼の足は遅くない。
実質、降参はできない……させてくれないということさ。
最高速じゃないのか目視はできる。だけど、あと僅か1秒足らずで僕に迫る勢いだ。
僕は肛門から放出している赤い放屁を右手に集約させた。
自ら外に出ることが許されないのなら…。
「君に出てもらおう__臙脂蒙昧屁」
右手を前方に向けて払うと同時に、赤い放屁は真っ直ぐ剣崎へと向かう。
放屁に当たる直前、彼は足を止めずに刀を胸の前に持って行き受け止めるような構えをとった。
神憑や御門伊織のような特異な者以外に、放屁は視えないはずなんだけどね。
視覚以外の何らかの感性で、神の力を認知しているのだろうか。
だけど、残念無念。その放屁に触れた時点で、君の負けは確定した。
赤い放屁、臙脂蒙昧屁は、触れた物質に対して物理的な力を自在に加えられる放屁だ。
剣崎「…………!」
ザザザ…!
僕が手の平を向けると、剣崎の身体は後退し始めた。
刀の鞘に触れている赤い放屁が、刀を通じて彼の身体を押している。
剣崎「くっ…!」
その場に留まろうと踏ん張っているようだけど、押す力と速度は変わらない。
こちらは自在に力を加えられるんだ。君が踏ん張った所で、その分強く力を加えるだけさ。
触れてしまったらもう抗えない。どう踏ん張ろうと、赤い放屁は一定の速度で君を場外へ追いやるだろう。
僕が力の調整をミスしない限りはね。
でも、ミスは有り得ない。
何故なら、僕は力の神。どんな人間よりも“力”を知っている。
物理的な計算式無しでは何も導き出せない人間と違って、僕は直感と即興で力を操れるのさ。
前にも言ったかな?
“僕に物理基礎は必要ない”と。
何、大丈夫さ。君の身体を赤い放屁で引き裂こうなんてことはしないよ。
どちらかが場外に出れば、このやたらと目立つ勝負は終わる。
倫理や道徳とやらに背いて、命を奪う必要なんてない。ていうか、それこそ目立つ行為になるね。
上の神々どころか、人の世でも警察に追われる身になってしまう。
頭を陥没させることしか考えていない君とは違ってね、僕には余裕があるのさ。
顔をしかめる剣崎を見て、僕はそう思った。彼は為す術なく後退していく。
何なんだい、その表情は…。
そんなに負けたくないというのかい?
勝負というのは、よくわからないものだね。
「剣崎怜、このままだと君は円の外へ出て負ける。どうしても負けたくないのなら、僕が外へ出るよ。君が日下部を攻撃しないと約束するならね」
僕は剣崎の身体が場外へ出るすんでの所で後退を止め、彼に提案した。
押すのを止めたら彼が向かって来るんじゃないかって?
臙脂蒙昧屁を解除したわけじゃない。
加える力を調整して、彼がその場に留まれるようにしただけさ。前に進もうとすればさっきと同じく、その分の力を加えるだけ。
僕の提案に対し、剣崎の表情は変わらない。いや、むしろ険しくなっている?
そして…。
「ふざけんなぁ!! 今勝ってただろ!!」
「ぶっ殺すぞぉ!! ちゃんとやれえぇぇ!」
突然、僕に暴言を吐き始める橙色のハチマキを巻いた連中。
おかしいね、君たちは日下部の仲間じゃなかったのかい?
“ちゃんとやれ”…。
あぁ、そういうことか。
勝ち負けに拘っているのは、剣崎自身じゃないね。場外で騒いでいる彼の仲間たちが勝利を求めている。
円内に立たされた僕らは、彼らに脅迫されているんだ。“負けたらただじゃおかない”とね。
「君も日下部も難儀だね。負けたらどうなるかわかったもんじゃない。となると、さっきの提案は撤回するよ。僕も君に勝たないと、この身を守れないからね」
少しの罪悪感を抱きながらも、僕は赤い放屁を介して彼の刀に力を加える。
再び後ろに下がる剣崎の身体。
剣崎「違う…」
彼は俯き気味にぽつりとそう呟き…。
ブン……
重々しく刀を振り下ろした。
…………。
振り下ろした?
必死に踏ん張ろうとしている人間1人を押し出す力が刀に掛かっている。
その状態で、刀を動かすことってできるのかい?
剣崎が刀を振り下ろしたことで、鞘に触れていた赤い放屁が彼の前で左右に分かれている。
今、刀に放屁は触れていない。その状態では力を加えることが…。
まずい…!
余計な考察が判断を鈍らせていた。
ゆっくりと頭を上げて、こちらを見据える剣崎怜。
ダン…!
後退が止まっていることに気づいたと同時に、彼は地面を蹴り出し猛スピードでこちらに向かってきた。
早急に……追加の臙脂蒙昧屁を…!
日下部の肛門から放出される赤い放屁を全て操り、僕は無造作に彼に向かって投げつけた。
さっきと同様、的確に真っ直ぐ放つのはリスクになるからね。後退させられないように躱してくるか、当たっても力づくでぶった切ってくる可能性が高い。
そもそも、あの状態で刀を動かせるなんて思えないんだけど…。
無造作に彼に迫る赤い放屁。
スピードを落とすことなく、彼は軽々と躱していく。
視えていないクセに、よく避けられるね…!
だけど、こちらも多量に放出していた。いくらあの剣崎でも当たる時は来る。
刀や身体に触れて一時は後退するものの、彼はその度に刀で放屁を振り払った。
前進と後退の頻度、少しばかり前進の方が上回る。
何がどうなっているのかわからない。
臙脂蒙昧屁は、触れた物質に任意の力を自在に加えられるんだ。
力の神である僕が、加える力を完璧に調整している。
その理屈で行くなら、彼は触れた時点で振り払うなんてことできないはずなんだけど。
放屁と刀による一進一退の攻防を繰り返す中、僕は考える。
まさか、僕が力の調整をミスっているとでもいうのかい?
力の神が“力”をミスるなんて、そんな馬鹿げた話あるわけないじゃないか。これは神による直感と即興なんだ。
人間が計算を間違えて失敗するとかそういう次元の話じゃない。
だけど仮に僕がミスをしていたとしても、僕はそれに気づけない?
直感と即興でやっているから…。
剣崎がかなり近づいてきた。もうあまり考える時間はなさそうだね。
僕がミスをしていない前提で考えよう。
その前提なら1つだけ推測できるものがある。
それは、剣崎怜の身体能力。
彼の身体能力が僕の想定を上回っていて、力の調整が足りていないのではないだろうか?
いや、待った。
それこそ僕のミスじゃないか。
多量の赤い放屁を躱し……振り払い、眼前に迫る剣崎怜。
なら、感覚よりも少し加える力を強く調整する…? それこそ失敗したら、彼に致命傷を…。
「…………っ! まずい!」
ブン!
放屁を突破して僕の目の前に立った剣崎は、居合の構えから鞘に収めた刀を全力で振り抜いた。
その刀に纏わり付く赤い放屁。
彼の“人を確実に殺める一撃 (本人はただ気絶させようとしているだけ) ”は、日下部のこめかみに当たるすんでの所で静止する。
僕のミスがなければ振り抜かれた刀はピタリと止まって、微動だにしなくなるはすだ。
だけど、彼の刀は今にも動き出さんとする勢いでガクガクと震えている。
恐らくこのままでは、臙脂蒙昧屁による静止が効かなくなり、刀による一撃が僕を襲うだろう。
剣崎「私が負けたくないのは青組の衆を恐れているからではない。私は……君に……勝ちたいのだ!」
鋭い目つきでこちらを睨みつける剣崎に、僕は怒りらしき感情を抱いた。
条件反射的に操った放屁が間に合って良かったものの…。
「その威力は人を殺めると言ったはずだけど…。力の神による“威力”の話は信用たり得ないかい?」
直撃していたら日下部は致命傷を負っていた。
無知は罪だと言うのなら、知った上でのその攻撃は大罪に値するね。
剣崎「シリウス大明神、これは浮ついた貴方が私の攻撃を阻止すると踏んでの全力だ。貴方の言うとおりに2本の刀を抜けば、私は異能闘技で勝利を収め、殺人罪によって投獄されるであろう。本気を出すべきなのはそちらの方だ」
僕の問いに対し、剣崎は真剣な顔で長ったらしい言葉を並べた。
全く…、ただでさえさっきの攻撃に苛立っているというのにね…。
“火に油を注ぐ”とはよくできた言葉だよ。
僕は漂う臙脂蒙昧屁を再び右手に集約させた。
そして、右の手の平を強く彼の腹部に押し当てる。
ドン…!
剣崎「ぐっ…!」
腹部に触れた赤い放屁を介して、彼を軽く吹き飛ばす。
このまま場外へ持って行きたいけれど、そう簡単には行かないだろう。
だから、ここは敢えて身体を押し出すだけにした。
予測困難な身体能力を持つ唾液の剣士。そんな人間の動きを完全に抑えるのは簡単な話じゃない。
だけど、剣崎の対抗手段はあくまで力づく。まともに力を入れられない状態にすればこっちのものというわけさ。
彼の身体は宙に浮いて吹き飛んだ。
落ちるとき人間は必ず両足で着地する。その一瞬の隙を狙うんだ。
ダン!
足の裏全体で力強く着地する剣崎。
僕は漂う放屁に加え、新たな臙脂蒙昧屁を多量に放出した。
全ての赤い放屁は僕が思い描いた通りに、剣崎の足を覆う。
剣崎「…………!」
両足が全く動かなくなったことに動揺しているようだね。
そして、それに抗おうと彼は自身の足を見据えて刀を振り上げた。
君の考えと技量は理解した。
力強くで風を起こして薙ぎ払おうなんてこと、させると思うかい?
剣崎「何…! 身体が完全に…!」
彼の足に集めた放屁を両腕にも行き渡らせる。
今の剣崎が動かせるのは、胴体と顔の筋肉のみ。言い換えれば、四肢は完全に固定した。
お得意の力づくも五体満足があってのことさ。
「これは、君の安全に最も配慮した僕の本気だよ。あまり話しかけないでね。調整を見誤れば君を解体することになってしまう」
僕は剣崎に、皮肉を込めて忠告した。皮肉とは言ってもほとんど真剣な内容だ。
両手両足を封じた今でも僕は不安なんだ。彼が動き出すかもしれないってね。
だから、いつも以上に集中する必要がある。より確実に彼を固定するために。
少しでも間違えたら…、彼が動いてしまう。あるいは四肢を引き千切ってしまうかもしれないんだ。
剣崎や皆には、僕が余裕そうに見えるだろう。毅然とした態度で皮肉を言ったからね。
だけど、本気なのは本当さ。化け物みたいな君を殺めずに勝つなんて無理難題を、片手間でクリアできるほど僕は強くない…!
現状、剣崎は全く動けずにいる。
問題なさそうだね。では、次の段階…。
彼を墜とそうか。
気は抜けない。次の段階に移行した瞬間、動き出す可能性も否めない。
だけど、このままじゃ勝負は終わらない。
僕は僕の放屁を信じて進むしかないのさ!
大きく深呼吸した後、僕はこう呟いた。
「放屁解離」
現在放出している臙脂蒙昧屁を肛門から切り離す。
異なる放屁を同時に使用するために編み出した僕の御業。
切り離した放屁の効果は、留まっている間は継続される。
そう長くは残ってくれないけどね。
剣崎の四肢に纏わり付く臙脂蒙昧屁。
僕の肛門がフリーになったのにも関わらず、彼はビクとも動かない。
僕はすかさず、水色の放屁を放出し右手に集約させる。
「眠れ__昏睡屁」
僕は剣崎に向かって、野球のピッチャーのように水色の放屁を投げた。
勢いよく飛んでいった放屁は、彼の顔面を包み込む。
昏睡屁、吸った相手を眠らせる放屁。
眠った者は僕が臭い放屁を嗅がせて起こさない限り、永遠に眠り続ける。
日下部が使えば遅効性で眠るのに数分かかるけど、僕が使えば一瞬さ。
剣崎の瞼が重くなっているのを見る限り、ちゃんと効いてはいるみたいだけど…。
赤い放屁もまだ残留している。彼が瞼を完全に閉じれば、勝ったと思って良いだろうね。
だけど、こんなにあっさり終わるとは思えない。彼は勝利に執着しているから。
ヒューーー…。
夏の表現には似合わない冷たい風が僕の頬を撫でる。
嫌な風だね。まるで、この時を狙っているかのように吹いてくれる。
放屁解離によって肛門から切り離した臙脂蒙昧屁、剣崎の四肢を覆っていた赤い放屁が冷たい風に攫われた。
意識があれば彼は動ける状態になったわけだけど、もうほとんど瞼は閉じられている。
今さら動けるようになっても何もできないと考えるのが妥当なところ。
だけど…、あれはいつだっけ?
2柱に憑かれた人間、猿渡玖音と戦った時にもこの放屁を使った。
位の差もあって、彼はすんなり昏睡屁を吸引することとなった。
効果も今と同じく即効だったね。
だけど、彼はとても原始的な方法で昏睡屁に対応したんだ。
それは__
バキッ!
自身のこめかみを鞘で殴る剣崎。
__眠気を吹き飛ばすほどの激痛を自身に与えること。
そして、その方法は剣崎も知っている。あの場に居たからね。
バキッ! バキッ! バキッ!
彼は目を瞑ったまま、自身のこめかみに何度も刀を打ち付けた。
眠っている…? だとすれば、なぜ動いているんだい?
まさか、条件反射?
勝ちへの執念が眠った君を突き動かしているとでも言うのかい?
バキイィィ…!
これが最後の一撃だろうか。
剣崎は自身のこめかみを思い切り殴って項垂れた。
目を閉じた彼の額から血が流れて、地面に滴り落ちる。
その状態から僅か数秒後、彼はゆっくりと面を上げて目をかっぴらいた。
意図せず震える日下部の身体。僕が抱いた恐怖に彼の身体が呼応している。
「やはり君は……人間じゃない!」
神が恐れる人間なんて、どこの神話にも登場しなかったよ。少なくとも僕が読んだことのある神話にはね…。
ダン!
額の血を巻き散らしフラつきながらも、地面を蹴り飛ばす剣崎。
「アンノウンッ…! ファートッ!」
高速でやって来る悍ましい表情の彼に対し、僕はありったけの臙脂蒙昧屁を肛門から両手に集約させて地面に叩きつけた。
ビキッ!!
白い円の中、地面に入る数多の亀裂。
剣崎は突如入った亀裂に足を引っかけて躓いた。それでも体勢を立て直して、彼はこちらにやって来る。
ただヒビを入れただけじゃない。
君の苦手、僕の得意に持ち込む前準備さ。
「人の皮を被った鬼よ。空中戦と行こうじゃないか」
ドドドドド…!
円内の地面に隈無く行き渡る赤い放屁。
僕は地面に着けた両手を立ち上がりながら振り上げる。
ドオオォォォン!!
亀裂が入って粉々になった足場が剣崎諸共、上空へと巻き上がった。
僕自身も日下部の身体を赤い放屁で纏い上空へ。
これで少しは彼も鈍るだろう。
あぁ油断も過小評価もしてないさ。
空中でふわふわして身動きが取れないなんてこと、剣崎なら有り得ない。
彼は自身に纏わり付いた赤い放屁を空中で身体を回転させて振り払い、近くの浮遊している小さな地盤に足を着ける。
そして、間髪入れずにジャンプして、地盤から地盤へと飛び移り僕の元へやって来た。
空中でもこのスピードを出せるのは流石だね。だけど、走っているわけじゃない。
着地と跳躍の繰り返し。
地上での理不尽なスピードダッシュと比べたら、止まっているようなものさ。
思わず口元が緩んだ僕に対し、彼は空中で居合の構えをとってこう言った。
剣崎「尾蛇剣舞翔式・刀鞘乱打」
鞘に収めたまま繰り出されたのは、目にも留まらぬ僕への乱れ打ち。その打撃1つ1つが米神や鳩尾などの急所を捉えていた。
何回打たれたかわからないけど、彼は恐らく人体の有りと有らゆる急所を狙って打ち込んだのだろうね。
剣崎「はぁ……はぁ……」
攻撃を終えた剣崎に、僕はニコリと微笑んでみせた。
「終わりかい? 1つも届いてないよ」
穏やかに笑う僕とは対照的に、彼は眉間にしわを寄せて顔をしかめる。
日下部の全身を覆った赤い放屁が剣崎の攻撃の全てを相殺したってわけさ。
少し安心したよ。この全力で放出している状態なら、君の攻撃も例外なく無力化できるとね。
「今度はこっちの番だ」
僕は目の前にいる彼にそう告げて、右手に拳を作って後ろに引いた。
その拳には濃厚な臙脂蒙昧屁が集う。
「格闘型・臙脂蒙昧屁!!」
ドゴオォ…!
僕は剣崎の腹部に向かって拳を突き出した。
剣崎「がっ……はっ……!」
咄嗟に鞘で拳を受けたようだけど…。
鞘は砕け散り、剣崎の身体は後方に吹き飛んで浮遊していた地盤に叩きつけられた。
地盤にめり込む彼の身体、刀の刀身は剥き出しに。
全身は痣だらけ、出血も額のみには留まらない。まともに動けない状態だと窺える。
もっとも、彼が普通の範疇に収まるならね。
「降参してくれないかい? まだ戦えると言うのなら、もう命の保証はできないよ」
地盤にめり込んだ剣崎からの返事はない。意識はあるみたいだけど。
「人の世で十数年生きた君の方が詳しいと思うけど。数多くの神話に擬えるなら…、人間は神に勝てない。君は僕に勝てないのさ」
人間は神の格下なんて言う気はないし、思ってもいない。だけど、人間はそう思っている節がある。
そんな人間に対して、今の発言は心に来ると思うんだ。
これは降参してほしい、諦めてほしいという僕の切実な願い。
もしまだ彼が動くのなら、さっきの言葉通り身の安全を保証できない。
ガラ……
物事は期待通りに行かないものだね。
僕の想いとは裏腹に、剣崎はゆっくりと動き出し、今まで全く使わなかったもう1本の刀を鞘から抜いた。
剣崎「いざ、尋常に…!」
彼は2本の刀を持ち、こちらを鋭い目つきで見据える。
「死んでも勝ちたいってことかい? 日下部、君は可哀想なほどに嫌われているね」
剣崎「違う…。リスペクトしているからこそ、負けたくないのだ」
ぽつりと呟いた言葉を拾ったのか、彼は僕を見据えたままそう語った。
ほんと、人間の気持ちっていうのはよくわからないものだね。
2本の刀を抜いた剣崎は、恐らく全力で来るだろう。それも、リスペクト……敬意の心を持って僕を仕留めに来る。
“命の保証が”なんて遠慮は敬意に欠けるということか。
ならば僕も全力で迎え撃つとしよう。
漂う濃厚な赤い放屁、全開で放出し続けている臙脂蒙昧屁をフル稼働させてね…!
地盤を蹴り出した剣崎。
先ほどとは比べものにならない速度で跳躍を繰り返し、僕に迫る。
一部の赤い放屁で彼の身体を覆い動きを止めるものの、刀で薙ぎ払って動き出すまで1秒も持たない。
全ての放屁を集約させて挽き潰す手も考えたけど、刀で対応された時のリスクが大きい。
小出しにして何度も動きを止めて時間を作るんだ。2本の刀ではどうにもならない攻撃を…。
剣崎の接近を阻害することに半分の放屁を使う。
そして、もう半分は地上へ。
僕のインスピレーションではなく、他人の真似事だというのは少し頂けないけど。
全力の剣崎相手に四の五の言ってはいられない。
地上に向かった赤い放屁を、白い円の外……場外の地面に浸食させる。
問題ない。生徒たちの居ない所を厳選したからね。
剣崎との距離は徐々に縮まってはいるけれど、このペースなら余裕で間に合うね。
「さぁ、フィナーレと行こうか」
僕はそう呟き、両手を開いてゆっくりと上に動かした。
ゴゴゴゴゴ………
大きな地鳴りと微かに悲鳴のようなものが下から聞こえてくる。
10を超える無数の巨大な地盤が下から現れ、僕と剣崎を取り囲んだ。
グラウンドの一部を大きく削り取らせてもらったよ。
これでも、本家よりは控えていると思うけどね。
あまりのスケールに動揺したのか、剣崎は着地した地盤に留まり周りを見渡していた。
これくらいしないと、君は止まらないだろう? むしろ、これで終わってくれ。
僕らが一度喰らいかけた、とある神憑の大胆な技。これはそれのオマージュさ。
「臙脂蒙昧屁・再現“崩盤潰葬”」
僕は彼にそう言い放ち、広げた両腕を胸の前で交差させた。
赤い放屁によって浮遊した全ての巨大な地盤は、剣崎へ向かっていき…。
ドドドドオオォォォォン!!
彼を四方八方から押し潰す形となった。
まともに喰らえば原形を留めていないだろう。
剣崎を中心に、彼を押し潰す形で集約した地盤は互いに削り合い、大きな球になっている。
その球に無数の太刀筋のようなものが視えているのは、僕……いや日下部の目がおかしいのだろうか?
日下部の目が腐っていると信じたい。
地盤の球を切り刻むかのような無数の太刀筋が見えた直後、球は粉々に砕け散り中から元気な剣崎が現れた。
「君ってやつは…! いったいどうやったら止まるんだい!?」
取り乱して叫んだのが隙になった? それとも、彼があまりにも速すぎた?
一瞬にして僕の目の前に来る剣崎、これといった構えは取らず抜刀した2本の刀を持ちこちらを睨んでいる。
「尾蛇剣舞翔式・斬華繚乱!!」
「被覆型・臙脂蒙昧屁!!」
彼が口を開くと同時に、僕は咄嗟に防御態勢に入った。
身体の表面を隈無く覆う赤い放屁が、全ての攻撃をすんでの所で相殺する。僕の調整にミスがなければ…!
対して、君は何をしている?
大それた技の名前を発してから、君は1歩も動いていない。
だけど、この圧はいったい何なんだい?
“気を抜くと刻まれる”。
僕……あるいは日下部の身体の本能がそう言っている。
違う…、圧じゃない。全身を駆け巡っているこれは…。
視認不可能な超高速の連続的斬撃。
わからないなりにもよく止めているね、僕は…!
剣崎「うぅっ…!」
「うおぉ……!」
絶え間なく繰り出される超高速の斬撃と、それを受け続ける赤い放屁。
少しばかりの膠着状態を経て…。
バキッ!!
剣崎の2本の刀が砕け散った。
同時に、日下部の全身にも浅い切り傷がいくつか入る。
しめた…!
滲みるような痛みを感じながらも、僕は好機を迎えた。
もう彼に攻撃手段はない!
ただの防御態勢じゃない。僕はチャンスを窺っていたのさ。
無数の斬撃を繰り出す刀に対して、どこかで力を加えられないかを模索していた。
タイミングを見計らって、刀を砕くことに成功したんだ。
ふふっ、後はこちらが一方的に嬲るだけ。
身体に纏った赤い放屁を、右手の拳に集約させる。
防御態勢から攻撃態勢に。
「格闘型…!」
今度の一撃は一切の忖度をしない。五臓六腑を痛々しくぶちまけると良いさ。
勝ちを確信し、拳を突き出そうと思った瞬間だった。
剣崎が手を後ろに回し、刀の鞘を取り出した。
「…………!」
そして、それを僕のこめかみに向かって振り下ろしてくる。
ブン!
危ない…!
僕は、左手に放屁を移動させてギリギリ受け止めた。
鞘の存在を忘れていた…! 砕いた鞘は1つだけ。もう1つはいざという時に取っておいたということか…!
はははっ、だけど弱い。
随分と衰弱しているようだね。
もう力尽くで振り下ろすことは叶わないみたいだ。
剣崎「くっ……無念…!」
こんなにも簡単に押し返せるとは…。いや、それが普通なんだけどね。
では、仕切り直そうか。
左手で鞘を押さえたまま、右手にも漂う放屁を集約させて彼を殴る。
僕の意思通りに右手に集まる赤い放屁。
「僕の勝ちだ…!」
プ………プス…………。
ん? 何だい? 身体が下に引っ張られる。
放屁が……消えた?
「し、しまった! ガス欠…!」
ドゴッ!
こめかみに走る鈍痛。
暗転する視界。
やぁ久しぶり、連休の旅行以来だね。
日下部の痛覚。
そうだ、僕らは他の神憑とは違って力に限りがあるんだ。
忘れていたわけじゃないよ。
剣崎を相手に、ガス欠を気遣う余裕がなかっただけさ。
朦朧とする意識の中、彼を見つめる。
どうやら、相手も限界が来ているみたいだね。
僕と一緒に無防備な恰好で地面に向かっている。
このままだと僕らの負けか。
何だろう、負けたくないね。
あぁ、君たちはこういう気持ちだったのか。
僕はぼやける視界の中、剣崎の服を掴んだ。
剣崎「何を……」
力尽きたのか抵抗してこない彼の身体を、目いっぱいの力を込めて地面に向ける。
落下時、剣崎がクッションになれば僕は意識を保っていられるかもしれない。
そして、地面への衝撃を諸に受ける彼はきっと意識を失う。
最後に立つことができれば、恐らく僕の勝ちになるだろう。
弱々しく聞いてきた剣崎に、僕はこう答えた。
「僕も君には負けたくないってことさ」
ドサッ…




