すなわち、殺意
時は少し遡る。
深夜、宿を抜け出した彼──テオは、目的の場所に向かいながら短く息を吐いた。
はぁ、と吐いた息は白い。
秋も深まり、冬に片足突っ込んでいる今の季節。
アーロアはアルヴェールより北方に位置しているのもあり、アルヴェールより寒い。
自国のアルヴェールの秋は、ここまで寒くなかった。
八年。
(……あれからもう、八年も経つのか)
ふとした時に思い出すのは、やはりあの時の会話だ。
『ねえ、兄様。私の魔力、母様に移してあげることはできないのかな……?そうすれば、母様だって……!』
テオ──彼の妹は、エレインによく似ていた。
そして、彼の母は、エリザベスのように体が弱い女性だった。
内臓に疾患があるわけではない。
ただ、生存に足る魔力が不足しているのだ。
生きるために消費する魔力量と、生み出す魔力が釣り合っていない。
日に日に衰弱する彼女を見て、妹──エルゼは、決意したように言った。
『兄様、私ね。陛下から聞いたの。私のこの魔力に使い道がある、って』
エルゼの話に、最初テオは度肝を抜かれた。
自分たちを放置し、存在しないかのように扱う国王が、今になってなぜ。
エルゼに接触するのだろう。
怪訝に思ったのも束の間、続く妹の言葉に、さらに彼は驚かされた。
『陛下が教えてくださったの。魔力の譲渡を可能とする、不思議な石があるのですって。……ねえ、兄様。陛下が仰るにはね、私は古の寓話に出てくる【賢者】というものらしいの。兄様は信じる……?』
信じるも信じないも、行き詰まっていたのは事実だった。
このままでは遅かれ早かれ、母は死ぬ。
生きることすら難しい魔力量、なんて今まで聞いたことがない。
後年、生存すら危うくなる魔力量を【魔力欠乏症】と呼ぶようになるが──。
八年前の当時は生きることすら危うい魔力量、なんて聞いたことがなかった。加えて、病床に伏せるようになった母に飽きたのか、王は早々に彼女への興味を失った。
王の寵愛を失い、王妃に睨まれるだけの生活では、医者の手配もままならない。王妃の嫌がらせを受け、妨害されながらも何とか呼び寄せたものの、医師には『自分の手に余る』と匙を投げられた。
だけどそれも仕方ないというものだろう。
何せそれくらい、当時は【魔力欠乏症】という症例は珍しく、そもそも前例がなかった。
魔力欠乏症という病名も、各地で報告がされるようになったからつけられたに過ぎない。
しかし、このままでは打つ手がないのは事実。
母の実家である公爵家も一応は母を気にかけているが、母を持て余してもいるのが何となくわかった。
時間だけが無為にすぎる。もはやテオたちにできることはなかった。
母は日に日に言葉数が減り、眠る時間が増えていく。
このままでは、いずれ眠りから覚めなくなるだろう。彼も、彼の妹も同じようにそれを危惧していた。
毎朝、母の安否を確認するのが日常だった。
だからこそ、妹は王の言葉を受け、一縷の望みを抱いたのだ。
『賢者?』
テオは尋ね返した。
聞きなれた単語ではあるが、今、妹から聞いた話が信じられなかった。
王の言葉は、まるで賢者が本当に実在するかのようだ。
(……冗談か?)
いや、あの王がそんな言葉遊びのようなことを、わざわざ自分たちにするはずがない。
何せ自分たちは、忘れ去られた存在だ。呼び出してその話をしたからには、訳がある。
アルヴェールに住む人間なら、アルヴェールで生まれた人間なら、誰もが知る寓話。子供は、その寓話を寝物語に聞かされて育つのだ。
『大昔、賢者と呼ばれる人間がいた。賢者は、各地に生まれ、彼らは国を救う使命を背負わされた。やがて時期が来ると、彼らはその力を人々のために役立て、世界には平和が訪れた』
だけど、あくまで【賢者】というものは物語の中の存在にすぎない。
いきなり、架空の設定を持ち出した王の意図が読めなかった。
そして、エルゼに接触をはかったことも。
怪しい、と感じるのはとうぜんだった。
裏を疑ったテオは、母の実家である公爵家に相談しようと妹を説得したが、彼女は気が急いていたのだろう。何せ、母はいつ息を引き取ってもおかしくない状況だったのだから。
そしてそれは正しかった。
──現に、それから半年後に、母は夭折している。
結果的に、エルゼはテオに何の相談もなく王の元に行ってしまった。
……それから、彼女の行方は分からない。
当時、テオ──ロイ・テオドール・アレクシス・アルヴェールは十五歳だった。
妹が帰ってこなくなり、怪訝に思った彼が王に掛け合うと王はテオの謁見を許可した。
そして、そこで判明した事実は。
『賢者は国に奉仕する義務がある。我が王族から賢者が生まれたのは、とても喜ばしいことだ』
聞かされたのは、寓話として伝わっていたそれが、ただの作り話ではなく、実際に存在した史実を良いように言っていた、という事実。
賢者による献身。
千年の約定。
魂の誓い。
永遠の約束。
初めて聞いた単語に、頭が真っ白になった。
正直、そんな昔話はどうでもよかった。
彼にとってもっとも大事なのは、今、妹がどこにいるのか、ということだけ。
それを尋ねても、王は答えない。
ただ、にこやかに、満足気な笑みを──テオから見たら、下衆で傲慢で醜悪にしか見えない笑みを浮かべた。
『エルゼは賢者としての責を果たそうとしている。兄として褒めてやりなさい』
それから、思い出したように彼は言った。
『ああ、オフェーリアはどうしている?あれも良い仕事をしてくれた。原因不明の病というが、どうせ精神をこじらせたかなんかだろう。王族の名を汚す最悪の恥さらしだと思っていたが……最後の最後に役に立ってくれたな。褒めてつかわそう』
──この時、テオは王子として有るまじき、いや、アルヴェールの民として有るまじき感情を覚えた。




