夜明けまであと三時間
ファーレが、小声ながらも強く言った。
私は彼の言葉に一瞬呆気にとられて──。
「……へ?」
間の抜けた声をぽつり、こぼした。
ファーレの話によると、こうだ。
彼は職業柄、他人の気配や足音に敏感である。そのため、隣室であってもひとの出入りに気づけるのだという。
そしてつい先程、隣室で扉が開いた音。続いて廊下を歩く音が聞こえてきたのだという。ファーレは長い髪をさらりと肩から落としながら推理するように言った。
「足音からして成人男性、長身痩躯。ついでにここは角部屋で、隣にはあのひとしか泊まっていません。やけに慣れた足使いで、足音も気配も殺していましたが──こんな近くにいるんです。気づかないわけがない。暗部の人間、舐めてもらっちゃ困りますよ」
「……何でも屋じゃなかった?」
関係ないけど、このひと、自然乾燥のくせにえらい髪がサラサラである。
こちらは年頃の乙女だというのに配慮も気遣いもなく寝顔を見られた上、しかもベッドにまで入ってこられた。その恨みに腹立たしさが加算され、イラッとする。
よし、決めた。
明日の彼の化粧のテーマは【夜の蝶】だ。今日は初めてだったので控えめにしたが、明日はそうはいかない。化粧映えしそうな顔立ちをしているし、ノーズシャドウからシェーディングまで盛り盛りに化粧してやるんだから……!見てなさい、アパレル業界で働いていた人間のファッション知識の広さを……!!
私がそんな闘志に燃えているとは露知らず、ファーレは私の言葉に一瞬きょとんとした。
だけどすぐににっこり笑う。今にもウィンクしそうな勢いで。
「そんなこと言いましたっけ!それより、早く追わないと追いつけなくなっちゃいますよ。ほら、行きましょ!」
「え?あっ……はぁ!?」
備え付けのバスローブしか身につけていない私をシーツでぐるぐるに巻いて、ファーレが抱き上げた。突然の浮遊感と状況に頭が追い付かず、妙な声が出る。
「な、何すんのー!!」
「深夜なんだから静かにしてください。あの男、怪しくないですか?……もしかしたら、あの男こそ、王家と繋がっているかもしれませんよ?」
「──」
ファーレの言葉に一瞬、息を呑む。
想像もしていなかったことだった。動揺して、うまく言葉が出ない。
「で、でもテオはアルヴェールの人間で……」
「それ、本人の申告ですよね。それが事実かはわからない。なにか、証拠でもあるんですか?」
「……瞳」
「確かに滅多に見ない目ですけど、ド田舎なら可能性はぜろじゃない。とにかく、俺はあの人間の素性を知る必要があります。あの男が敵なのか味方なのか、今のうちにはっきりさせておきたい。……アーロアに忍び込んだネズミなら、駆除するのが俺の仕事なので」
「ちょっと、待っ……!」
話の展開が早くて頭が追いつかない。
制止する前に、ファーレは部屋の窓をガラリと開けて──その窓枠に足をかけた。ひゅぅ、と冷たい風が下から昇ってきて、固まった。
「いや?え?……嘘よね?」
まさか、そんなばかな。
さすがのファーレだって私を抱えたまま、二階から飛び降りるなんて真似は──。
「舌噛まないように、しっかり口閉じててくださいね!いきますよ!」
(う、嘘ーー!!)
ばか!このばか!!
ひとを抱えたまま二階から飛び降りるとか、映画のスタントマンみたいなことしてるんじゃないわよーー!!
止める間もなく、ファーレがひょいと床を蹴った。もうこうなったら彼にしがみつく他ない。二階から落下なんて、足首を怪我するどころの話ではない。着地に失敗したら骨折はもちろん、頭を打ちでもしたら目も当てられない。
(……私は!丸太が頭に直撃してもたんこぶができるくらいの石頭だけど!)
それでもだからといってほいほい怪我したいわけではない。
「──!!」
初秋の、冷たい風が頬にあたる。
宙を切る感覚。ファーレを掴む手を離したら文字通り、生命の危機。私は落とされてたまるものかと彼にラッコのようにしがみついた。
そのままファーレはくるりと身を翻して受け身を取ると、足から着地した。宿の裏手は、森に繋がっている。地面は土なので、着地音は吸収されたとはいえ、ちいさくない衝撃が体に伝わってきた。
ファーレが飛び降りてから着地まで息を止めていた私はようやくぷはっと息を吐いた。
「死ぬかと思った……!」
この状況を招いた張本人に抗議する。
ファーレは素早く、周囲に視線をさっと向けると、私に小声で言った。
「……いた。ご令嬢、ここからはお静かに。こんな感じで移動するんで、しっかり掴まっていてくださいね」
は、はーーーー!?
(嘘でしょ!?こんな感じって……今のみたいなのが何回もあるってこと!?)
「ちょっといくらなんでも乱暴すぎるわよ!確かにテオの行先は気になるけどこんなやり方じゃっ、うええ!」
私が言い終える前にファーレはタンッと地を飛び、跳躍していた。着の身着のまま、シーツ一枚巻かれただけの私はもう大人しくしているほかない。ここで置いていかれたら困る。そもそも私は足がこんなんだからひとりで動けないんだって……!
もう私は、彼の荷物役に徹するしかなかった。
あと、ファーレは絶対許さない。
明日の朝、覚えてろよ……!
私は深く誓った。
もっとも──夜明けまで、あと三時間もないけれど。




