緊急事態です
「……彼は、仕事だから、っていうんです。でも私、彼女に、『彼とは愛し合ってる』って言われたんですよ」
少し、文句のような口調になってしまう。
テオは生返事で「ふぅん」と返した。
「それを彼に伝えたら、なんて言ったと思いますか?」
「え?……『仕事だから』?」
尋ねられて目を瞬いた彼は、答えに気がついたようにその言葉を口にした。
私は頷いて答える。
「そうです。でも、彼がそう思っていても、おう……彼女は、そう思ってないんです。それを相談してるのに、彼は真剣に取り合ってくれなくて。私の気持ちを、感情を、一切理解しようともしない。私は彼が夫になるなんて、ぜっ……たいに嫌だったんです!」
思わず、王女殿下、と言いそうになって取り繕う。流石にここでそれを言うのはまずい。
私の出自が完全にバレてしまう。
しかし、話しているうちに怒りが再燃して、言葉に力がこもる。
突然力説した私に驚いたのか、彼がぱちぱちとふたたび瞬いた。
それから、ふ、と表情を緩ませる。
くすくすと笑って、テオが言った。
「エレインさ、大人しそうに見えて結構やるんだね。婚約関係があるのに、見切りをつけて亡命なんて、ふつうできないよ」
「全て手放したく……捨てたくなったんです。これは私の人生の分水嶺だったんです。これからの人生を考えた時、私の言葉を聞きもしないひとと生きるのは嫌だって思いました。我慢と妥協の日々が待っているなら、いっそ全て捨ててしまいたい、って」
怒涛の勢いで私は感情を吐き出した。
思えば、ひとにこんなに自分の感情を語るのは、初めてだった。
いつもどこか、私は【貴族の令嬢】として、ある程度感情を、言葉を制限していたから。
貴族の娘であることをやめた今、私を縛るものはない。
彼は、私を知らないのだから、私は好きに気持ちを吐き出すことが出来た。
濁流のように零れる感情をそのまま口にしていた私は、ぴたりと貝のように口を閉ざした。
テオが窺うように私を見てくる。
その視線に促されて、私はゆっくり、言葉を吐き出した。
「……身勝手だって、わかっているんです。私がやったことはたくさんのひとに迷惑をかけて、周囲を混乱させています。私は、とんでもないことをしでかした。……わかって、います」
ファルナー伯爵家と、トリアム侯爵家、そして王家、社交界の混乱と影響を考えると、ずんとこころが沈む。
……それでも、あの時、あの塔から飛び降りたことは、後悔していない。
私にとって、塔から身を投げたことは意味のあることだった。
エレイン・ファルナーという貴族の娘は死に、私はただのエレインになる。
塔から飛び降りたと同時に、エレイン・ファルナーは死んだのだ。それを、私自身が自覚するために必要なことだった。
ふと、テオが言った。
「……彼と婚約破棄して、新しい婚約者を見つけるとかは、考えなかったの?」
その声が、思った以上に優しいものだったから、私は少し戸惑った。さっきまでは隙さえあればこの場を去ろうとしていたのに。
もしかしたら、私の身の上話に同情したのかもしれない。
そうだとしたら、彼はやはり優しいひとだと思った。
成り行きで拾った娘の身の上話まで聞いてくれて、付き合ってくれるのだから。
私は、テオの言葉に首を横に振る。
まだ乾ききっていない金の髪はぺったりと体にまとわりついている。
貴族の娘であることをやめたなら、この長い髪も要らないかなぁ。
そんなことを考えながら私は答えを口にした。
「次の婚約なんて、絶対ろくなもんじゃないです」
「言い切る、ってことは確信があるんだ?」
「そうです。一回婚約破棄した人間がどんな目で見られるか知っていますか?私も実際に婚約破棄したひとを見たことがないから分かりませんけど……。それぐらい、とんでもないことなんです」
「塔から飛び降りるより?」
「…………同じくらいかもしれないですね」
私が答えると、テオはどんな感情なのか「そっかー」とやけに間の抜けた返事をした。
その緩い声に、体から力が抜ける。
このひとは、不思議だ。
なぜか、言わなくてもいいことまで話してしまう。
他人を否定するような気配を持っているのに、こうして話を交わしていると、そんな気配もシャボン玉のように消えてしまう。
(そうか……分かったわ)
テオは、現実味がないんだ。
こんな森の中で出会ったからか、いまいち実在する人間、という認識が薄い。
彼の不思議な気配が、その印象を持たせるのだろう。
私がじっと彼を見つめていると、彼が瞳を細めて私を見た。
猫のように瞳孔の細い、薄青の瞳。
「……なに?」
「…………テオ、寒くないですか?」
「いや、寒いけど」
そりゃそうだろう。
私に上着を取られて(強奪したわけではないけど)、シャツ一枚なのだから。実を言うと、私も背中側がかなり寒い。
なぜなら、彼の上着は体の前面にかけているだけであって、背中は薄っぺらいシュミーズ一枚だけだからだ!!
私は真っ直ぐにテオを見つめた。
いつになく真剣な目付きだったと思う。
「テオ、大変です。今あなたがいなくなったら、間違いなく私は凍死します。この上着一枚で森を抜けられる気がしません」
「…………日が昇ったら多少はあたたかくなると思うよ」
「森ですよ?ここ、森です」
大事なことなので二回言う。
私の言葉に、テオも一理あると考えたらしい。
顎に手をあてて考える素振りを見せてから、彼が顔を上げる。
「……この近くさ、なんっもないんだよね。そもそもアンタが流れ着いた川自体がすんごい辺鄙な場所でさ……村すらないんだよ、この辺」
なんてこった。




