第9話
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
学園長室には悠々とした母の姿があった。
「かっへにはいらなひ!」
木製のご立派な机に紅茶を置いて、口にクッキーを詰め込んだままで怒ってくる。
ノックもせずに部屋に飛び込んだから咎められるも当然だが、僕だって気が立っている。
「仕事場で、なに喰ってんだよ!」
「それが女の子の言葉?」
「職場でなにを召し上がっておられるのかしらん?」
「よろひい」
母は満足げに更なるクッキーを口に詰め込む。
「また食べた!」
「ひとへもほひいほ?」
「そうじゃなくって!」
もう、こんな会話をしにきたんじゃない。姉妹校が決定したのか、それを聞きたいのだ。イライラして思わず一歩二歩散歩と前に出る。別に停止線がある訳じゃないけれど、一線を越えて迫る。
ゴックンしながら僕を見た母は、やおらニコリ笑みを浮かべた。
「千歳がなにを聞きに来たのかくらい分かってるわよ。ねえ千歳、いい話と悪い話、どちらから聞きたい?」
泰然と自分のペースに持ち込もうとする母。普通に答えるのは癪に障るので、僕は少し考えて。
「じゃあ、姉妹校の話から」
「いい話か悪い話か、って聞いているのよ」
「だから、姉妹校の結果から」
「反抗期ってイヤねえ! まあいいわ。シートン校との姉妹校の話は成功したわよ」
「じゃあ!」
「ええ、年にひとりの留学も決まったわ。勿論、学力試験はあるけれど一定レベルを確認するだけだから」
「やったぜい!」
「男言葉に戻ってるわよ、千歳ちゃん」
拳を突き上げた僕をたしなめて、母は言葉を続ける。
「勿論、あなたの留学もOKよ。向こうの新学期になる10月からね」
よかった!
もう一度雄叫びたい気持ちをぐいと抑える。僕が言い出して、母に頼んで、そして自分に課したミッションは成功したってわけだ。
全てはあの日、そう、岳高の試験の日に始まった。
僕が岳高で見た掲示、それは英国の名門校への留学生募集のポスター。条件的なハードルは高かったけど、それを見た瞬間に思いついた。誰もひとりにしない方法を。
僕は男。この学校では女生徒で通しているけれどマナは元の鞘に戻るべきだと言う。岳高は男子校だ。当然、彼女とは離れ離れになる。
しかしもし、岳高に転校した僕が、10月からシートン校に留学して、そこへマナも剛勇から留学できたら。ちょっと回りくどい道だけど、「姉小路千歳」と言う女の子が男の子になって元の級友と一緒に学ぶには遠い遠い所がいいだろう。国内の高校に一緒に移動したりしたら、いつ何時バレるとも限らないし。
「なにをニヤニヤしているの? 学園一のクールビューティーが台無しよ」
そんなこと言われても嬉しいことは嬉しい。顔に出ても仕方ない。でも、何かを忘れている気がする――
「ところで理事長、さっき「いい話と悪い話」って仰いましたよね」
「ええ言ったわ。思い出した?」
いい話と悪い話。姉妹校の話は間違いなくいい話だ。とすれば、悪い話って何だろう? 他に母に聞かなければならないこと、そんなことってあっただろうか…… 暫く首を捻って考える。岳高の寮が狭いとか古いとか、そんなことはとっくに知っているし、4月からの小遣いも決まっている。もしかして、留学先での話だろうか? 寮が汚いとかエアコンが付いてないとか、門限が厳しいとかメシがまずいとか? まさか仕送りが少ないのかな? もしそうなら夜な夜なのカップ焼きそばも食べられないのか? って、そもそもイギリスにカップ焼きそばって売ってるのだろうか? 個人的にはカップラーメンよりも、やっぱ焼きそばだ。特にありきたりでもソース味。焼きそばはソースに限る。週に一度は食べないと禁断症状が出て、手とか足とかブルブル震えそうなくらい好きだ。愛してるんだ――
「まさか、イギリスにはカップ焼きそばがない、とか?」
「あるわよ」
「えっ?」
「普通にスーパーにあったわよ、千歳の大好物」
「よかったあ~っ!」
「まったく、幸せそうな顔して。で、あなたの心配事はそれだけ?」
「え? えっと……」
カップ焼きそばは売っている。そしたら他に悪い話って――
「カップ焼きそばがべらぼうに高いとか、小遣いが少ないとか?」
「お小遣いは約束通り増やしてあげるわよ」
「じゃあ、ポンドのレートが劇的に上がった?」
「千歳の頭は100%カップ焼きそばで出来てるのかしら?」
いや、他のことを考えようにもお腹がグウとなる放課後のこの時間、頭の中はカップ焼きそばでいっぱいなのだ。だから「悪い話」って考えると食い物のことしか思い浮かばない。けど。
あ、そうか!
もしかして――
「女子寮しか空きがないとか?」
「千歳はヘンタイなの?」
「じゃあ、手違いで女子として合格したとか?」
「あなたやっぱり、女装が好きなの?」
哀れみを帯びたジト目で僕を見る母。いやいや、こんな僕にしたのはあんただろ!
「じゃあ、悪い話って何なの?」
「遊里さんのことよ」
マナのこと?
クエスチョンマークいっぱいの僕に、母は姿勢を正した。
「さっき彼女が来たのよ。サリーちゃんから聞いたみたいね、姉妹校の話。彼女は賢いわ、きちんと理解していたわよ、剛勇が姉妹校提携を結ぶ意味も、そして、今回の期末試験の結果が持つ意味も」
姉妹校提携を結ぶメリット、それは剛勇からも留学生を受け入れて貰えること。何しろ相手は世界の名門校だ、剛勇の名声が上がることは間違いない。学校の宣伝にもなる。例えその枠がたったの1名であっても。
「それで?」
どこに「悪い話」が入り込む余地があると言うのだ。その1名の枠にマナが収まれば全て丸く収まる。彼女を一人残すこともない。場所は変わるけどまた同じ学校で学べるのだ。しかし、母は僕が想像すらしていなかった言葉を吐き出した。
「ちょっとフライングだけどいい機会だから打診したのよ。あのね。彼女、留学はしないそうよ」




