黒より喰らう暗いモノ
怪我とかはないよな」 「元気してたか?
「…………な、何。あれ」
椎乃は困惑している。後ろの扉はまだ明け放されたままだが身体が動かない。いや、それよりもまず逃げなければ。こいつは、こいつは駄目だ。声が出せない。息が詰まる。思考が纏まらない。
体調でも悪いのか?」 「お、どうした
行くか」 「病院でも
俺達の過ち。それはあの日あの時あの場所に居た事。壺を割ってしまった事。この影の様な怪物を自由にした事。
「…………ジン! ユージン!」
影は近づいてくる。足音もなく、質量もなく。無意識に退いた足が床を踏みしめ、朽ちた木材が叫び声にも似た軋みをあげる。入って直ぐに遭遇した関係で後ろに下がれば外に出られる。外に出ればこの頑固な金縛りも解けてくれる。
「ユージン! しっかりして!」
「……! し、椎! に、逃げろ! こいつは」
「に、逃げるってどこに!」
「外だよ! わわわ分かれ!」
「外なんかないわ!」
椎乃の慌てる様な声に意識を弾かれ、人影を前に振り返る。
扉の先には、夜とさえ言えない暗黒が広がっていた。
俺がそれを認識したと同時に、視界でほんのり感じていた明かりが完全に閉ざされる。では、あの明かりは何だった。俺はまだ逃げられる見込みがあると信じて……では彼女が教えてくれなかったら俺は誘蛾灯の様な暗闇に自ら身体を捧げていたのか。
「ちょ、やだ―――きゃあああああ!」
あの影から目を離すなんて自殺行為だったのかもしれないが、それは椎乃を身代わりにする事で回避された。彼女は背後を見て呆然とする俺を庇う様に前へ出た結果、陰に吸い込まれそうになっていた。
「椎!」
既に身体の半分が吸い込まれているのを、何とかもう半分の手を掴んで引き留める。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
「言ってる場合か! 早く……離れろ!」
こういう時、相手が人間なら蹴飛ばすなり攻撃を加えれば形勢有利を取れるのだが、この影にそれをしても身体が吸い込まれそうだ。椎乃も床を軋ませながら踏ん張っているが膠着状態は終わらない。
少しでも身体が抜けてくれたらいいと何度か影と椎乃の境目を確認していると、いつの間にか人影の身体に口が出来ていた。錯視として口に見えるとか、口みたいな大きさの穴だからではない。唇があって、歯があって、歯茎があって、それはそっくりそのまま人間の口。
ああああああああああああああああああああああ!」 「うああああああああああ
ああああああああああああああああああ!」 「ゔああああああああああああ
れえええええええええええええええ!」 「い゙だっぁああああああいいいいいいいいいいいたすけ
ぎいいいいいいいいあああやああああああ!」 「ぎゃあああああああああ
「…………!」
喉の肉を磨り潰している様なノイズに紛れて分かりにくいが、それらの声は『口なしさん』で死んだ同級生の声。 悶え苦しみ喘ぎそれでも絞られる。全身を締め付ける様なギチギチという音と共に口はどんどんと増えて、最終的には人影全体に現れるばかりか、吸い込まれた椎乃に向かって―――噛みついた。
「―――っァ。あああああがあああああああああああああ! いだあああああああぎゃああああああ!」
「椎! 」
「いだいだいだいだあああああああああぎゃああがあふぁあがあっはああああああああ!」
あまりの激痛に椎乃は泣き叫んでいる。早く助けないと腕が千切れるのではないかと……いや、大袈裟ではない。彼女の腕には二十以上の口が噛みついて、食らいつくそうとしている。手を出そうと考えてはいけない。俺の身体まで食われたらいよいよ助けられなくなる。
「椎を……離せ。離せよおぉぉぉ…………!」
「ユーあああああああああああ! ぐうぅぅぅぅはな……して」
視界がどんどん暗くなっていく。己の身体もぼんやりとしか認識出来なくなった頃、首筋を挟む強い痛みが神経を蝕んだ。
しいいいいいいいいいいいいん!」 「ゆうううううううううううううう
仁井原……!
万一にも首筋を噛み千切られたら命はない。椎乃から手を離し、この口に攻撃を擦れば生き残れる? 違うだろう。そうかもしれないが、俺にそれを選ぶ権利はない。勝手に生き返らせたのなら、せめて俺も命がけでそれを守る覚悟を持つべきだ。
そうはいっても、視界が暗くなる度に身体に噛みつく口は増えていく。痛みをこらえて歯を食いしばり、目を閉じて悍ましい視界を遮断し、身体全体に力を込めて椎乃の感触を掴む。
「離せぇ…………はな……ぐううううう!」
「ようやっと見つけたナ、蟲けらガ」
椎乃の声音が、くぐもってノイズが混じる。電子音の様な声からかけ離れた、雪のように冷たい声。
「儂の憑巫に手を出すとはいい度胸だナ。どれ、主の味を確かめさせてもらおうかナ」
気持ち悪い」 「変わった
また会おうね」 「帰る
視界を覆うぼんやりした暗さが嘘みたいに晴れていく。首筋を噛み千切らんとしていた口も気付けばそこから消えていた。まるで全てが白昼夢の様でもあったが、噛み痕だけは現実として残っている。椎乃に至っては右腕中に様々な口の噛み痕がついていた。ご丁寧に歯型が人によって違うので、やはりあの口は声の主と連動している可能性が……
「契者ヨ。長谷河喜平の首、大変美味であるナ」
「…………それは、あの日の夜にもう聞きました。もう食べ終わったんですか?」
「久方ぶりの食事は楽しまないとナ。それと……約束は約束ダ。ここの闇は丁度いい……あの井戸の底によく似ていル。お前は知りたがっていたナ」
「ほんの礼だナ。儂が知っている事を教えよウ」
廃墟の扉は閉ざして、完全な暗闇を作る。さっきの今で暗闇に閉じ籠るなど正気の沙汰ではないが、喜平の首を食べると言うのだ。それをわざわざ見たいとは思わない。暗闇の中に聞こえるバリバリという音は頭蓋骨でもかみ砕いているのだろう。想像するだけでも怖気が走るが、それだけで済むならまだマシな方だと思う。
「そもそも儂は、コドクの残骸を食ろうて生きながらえてきたのだナ」
「どういう事……ですか?」
「儂は夜に融ける魔。夜な夜な外で腐る死骸を集め、食べル。だが、あの妙な奴が解き放たれてからというもの、あらゆる死骸を横取りされ、食うに困っているナ。何処まで話したか……ヒトの子を蟲とするコドクこそこの町を囲む結界。そのコドクの憑巫こそ木ノ比良の巫女という話はしたかナ」
「ええっと……多分、しました。分かりやすく言うと……人間を材料にした蟲毒の宿主が澪雨って事ですよね。それと姫様の生態の関連はいまいち分かりませんけど」
「コドクに必要なのは幾らかの血と骨肉。頭を磨り潰せば概ね条件は揃ウ、残る死体は夜に放り出せば、それを儂が……今はあの蟲けらが食べておル」
「澪雨は知ってるんですか?」
「知らぬだろうナ。憑巫に選ばれた者は蟲毒の滾る入れ物に血を入れ、魂の繋がりを得る。便宜上、それを神としようナ。巫女は神と血で交わり、その祝福を振りまく。故に誰もが信仰すル」
「…………少し気になったんですけど、その蟲毒……始まりはどうしたんですか? 死刑になった人でも使ったとか?」
「子を産ム」
バリバリバリバリ。食べながら会話するのは行儀が悪いらしいが、姫様みたいな怪物にそんな道徳を求めても仕方ない。約束通り蟲毒について教えてくれているのだから、ここで俺が話を遮っても特にメリットはない。
「子をたくさん産むナ。三人、四人、五人、六人、同時に産ム。産んだ子供を一晩壺に閉じ込めるたらば、生き残った一人を助け出し残りはかき混ぜコドクの土台とすル」
「え……………え。ええ?」
現実離れしているのは―――手段もそうだが、その効率の悪さは群を抜いている。科学に喧嘩を売るような選別方法には開いた口が塞がらない。全員死んだらそこでお終いなのに、呪いを継がせる予定の子供だけ安全に隔離していればいいのに、何故そんな無茶苦茶な。
「それが蟲毒だからナ」
「え」
―――心を、読まれた。
「始めるのは難く、継ぐのは易いのだナ」
「……勝手に心は読まないで欲しいんですけど。でも待ってください。始まりは分かりました。でも蟲毒はいつか終わるでしょう。結局参加者を一回で殲滅させるんですから。それをどうやって続けてるんですか? そこまで長持ちするんですか?」
「お前は何を聞いていタ」
「へ?」
「コドクは終わらんナ。ヒトの死骸をつぎ足し、つぎ足し、つぎ足し、つぎ足し。いつまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでも続く。巫女の血は無数の死と繋がり、その命尽きるまで呪いを受ける。死の間際には巫女自身が殺され、壺の中へ。新たな巫女―――先代の娘が血の繋がりを交わす。そうして歴史は進んできたのダ」
―――それは、おかしくないか?
「惹姫様。澪雨はその……お父さんもお母さんも健在だったと思います。それについては……」
「死にたくなかったのだナ。健在の内に引き継がせたのであろうヨ。儂もここ数十年は巫女を食べてはおらぬナ…………長くは、なさそうダ」
「……どんな意味ですか?」
「先代巫女の死には呪いの性質を壺に返すという大きな意味があル。如何なる祝福とて呪いは呪い。死にまつわる力には負の性質があル。当代の巫女はこれまでの報いを纏めて受け継いでいるのだナ。それはコドクの終焉を意味すル。この町は終わりダ」
「………………?」
「お前はそれよりも自分の心配をするんだナ。あの蟲けらによって始まった怪異毒は、今も着々とお前を蝕んでいる」
分からないなりにその発言を聞き逃すには、あまりに無理があった。
「ちょ―――じゃあアイツを捕まえたら俺に刻まれたこの痕跡は―――!」
「捕まえル。それは無理ダ」
「儂に代わり、あの蟲けらは夜と同化している。この場を漂う闇さえ掴めぬなら、どうする事も出来まいヨ」




