繝阪お繝阪→縺ョ諤昴>蜃コ
『え? やだ。ちょっと。シン、どうして泣いてるの?』
『おとーさんとおかーさんに、怒られた。スン! だから……勉強、おしえて」
『どれどれ……算数か。うん、いいよ。でもその前に、おいで!』
『……?』
『泣いてる弟を放置して勉強は教えられないよ。ほらほら、そんな泣くのを我慢してるみたいな固い顔はやめなよ~。お姉ちゃんはシンの笑顔が一番好きだぞッ』
ネエネはいつも優しかった。
うちの両親はお世辞にも勉強を教えるのが得意ではない癖に、教えたがりだった。俺は特に算数が苦手で、その当時の先生にも両親にも怒鳴られて、そのたびに塞ぎ込んでいた。何で分からないんだと怒鳴られても、こんなの簡単だと言われても。分からない物は分からない。当時の同級生で同じ科目が苦手な奴は共感してくれたが、だからって先生に歯向かってくれる様な気概はないし、今思えば無理からぬ事だが、やはり昔の俺はそれを裏切りだと思っていた。
『……ネエネはどうしてやさしいの』
『ん~どうしてって。お姉ちゃんだからだよ。勉強が少し出来ないくらいで怒鳴るのもどうかと思うなあ。シンの為だって言うなら、もう少しシンと話し合おうって気にならないのかね。キミの為なのに自分の気持ちを伝えてばっかりじゃあ、伝わるものも伝わらないよね』
『……よくわかんない』
『分からなくてもいいよッ。大丈夫。シンがどんな風になっても、お姉ちゃんはキミの味方だ! そんな訳で、勉強のお礼はキミの愛だぜッ!』
『……………』
『あーごめん。笑う所……』
ネエネは両親からの干渉を避ける為に俺が部屋に来た時は決まって鍵を掛けてくれた。両親から引き取ってもらった身―――恩がある筈なのに、あの人は俺が怒鳴りで委縮している時にはいつも助けに来てくれて、守ってくれて、抱きしめてくれた。
『ぐす……スン……ずっ! あぅ……ねえ…………!』
『はーい大丈夫大丈夫。お姉ちゃんはここに居ますよーと。怖かったよねー。辛かったよねー。シンは何にも気にしなくていいんだ。誰だって最初出来ないもんだ、私だって出来なかったものね』
『あうううううあああ! ぐうがあああふふふぶぶぶぶ!』
『うんうん。そっかそっか。いいんだよ泣いても。泣いたら胸がスッとするから。それでもし怒られるならこう言えばいいよ。お姉ちゃんにキョーハクされてるって』
『ぶぶばあああ…………ぐっ……キョーハク?』
『そうそう。私の言う事を聞いてるだけって事。シンに責任はない。面倒な事はぜーんぶ私に任せちゃえ。辛かったら逃げていいんだ。私はもっと、シンの笑顔が見たいよッ。にひひ♪』
辛かったら、逃げていい。
ネエネと離れ離れになってから、誰一人そんな事は言ってくれない。まるでそれが悪だと言わんばかりに。環境までもが俺に牙を剥いた。
命が懸かっている。
俺の名誉が掛かっている。
全てが明るみに出たら迷惑をかけてしまう。
そんな全てを差し引いても、俺は逃げたい。逃げられるかどうかは別として、その選択肢が欲しい。一回でも。一瞬でも、一秒でも。
「おい、起きろ。悠心!」
目を覚ますと、父親が腕を組んで扉の前に立っていた。
「………………何」
「馬鹿遅刻するぞお前。早く準備しろ」
「…………ああ、うん」
枕が涙で濡れている。どんな夢を見ていたのだろう。極限状態ならいざ知らず、寝ていただけで泣くなど言語道断だ。俺はそこまで弱くなった覚えはない。きっと生活サイクルの乱れで体が不調を訴えているのだ……と。そう思ったが、ムシカゴとやらが健在ならそれも考えにくいか。
「行ってきます」
昨夜と言っていいかは分からないが、中々に重要な事が分かった。俺達を縛る呪いの名前は怪異毒。そして澪雨はそれとは別の人間を材料にした蟲毒を背負っている。その呪いがこの町を守る力の正体だ。
怪異毒の方はともかく、もう片方は少なくとも澪雨に伝える必要はない。事情を知る凛がひた隠しにしているくらいだ。多分その方が都合が良いのだと思う。澪雨は若干感情的な所があるので、親だからと子供にみょうちきりんな呪いを背負わせた事が分かれば抗議しに行ってしまうかも。
「おいっすー。悠心。朝から会うとか奇遇だなおい!」
「反金…………お前の家ってこっちだったのか」
カラオケで怠いノリは十分堪能した。せめて眠気の残る朝だけでも落ち着いた時間を過ごしたかったがそうも行かないようだ。たまたま出会ったのを機に二人で肩を並べて歩く。信号が赤になったので立ち止まった。
「いや、なんか味辺で通学路変えてみただけだぞ。まあお前に会えたからいいわな! 昨日は楽しかったよホント!」
「俺も楽しかったと思う……ああ、そうだ。なあ反金。ちょっと聞きたい事があるんだけど」
「おうおうおう。勉強はノーセンキューだ」
「誰も死なないデスゲームって知ってるか?」
「…………は?」
交通量の少ない横断歩道でわざわざ信号を守る事ほど馬鹿らしい見た目はない。左右を見ても車なんて通りっこないのに信号が赤だからという理由で二人して棒立ち。気のせいだとは思うが今回の赤信号は特別長い。
耳慣れないワードに反金は首を傾げて俺の視界に入り込んできた。
「何だそら」
「何だそらって事は、知らないんだな。なんか金が貰えるらしいんだけど」
「ほー。デスゲームは分かるぜ。映画で見たし。誰も死なないデスゲーム……金が貰える? ん? 最強じゃね? 本当にあんのかそれ?」
「俺も調べてる最中だよ。そっちでも調べてくれるか?」
「おう、別に構わねーよ。へへ、どんくらい金くれんのか知らねーけど、手に入ったらパーっと騒ぐか! クラスで海とか行っちゃったりして……お前も恋人くらい作れたらいいな!」
「欲しいなんて言ってない」
ようやく信号が青になったので歩き出すと、背中が勢いよく押された。
「え―ー―」
いや、それでも安全な筈だった。どんなに待っても車なんて見えなかったのにその瞬間だけ。正に今通過しようとしたと言わんばかりにトラックが信号を無視して突っ込んでくる所だった。
「うおおおおおおおおおおお!」
いっそ前転で受け身を取って駆け抜ける。鳴り響いたクラクションと共に重厚な車体が背中を通り過ぎる。慌てて振り返ると、そこには反金が不思議そうに俺を見つめている。
「な……何しやがる!」
「お? 何だ何だ? 何の話だよ」
「お前―――背中押しただろ! 死ぬところだったぞ!?」
「はあ!? 押してねーよ! お前が勝手に転んだんだろ!」
「俺は確かに押されたぞ! 後ろにはお前以外いないし……本当にやってないのか?」
「やってねえって!」
―――怪しい。
殺す理由はないのかと問われれば、今さっき生まれたという見方も出来る。デスゲームを彼は前から知っていて、俺がうっかり口を滑らせたから殺そうとしたのだ。何故知らんぷりするのかは分からないが…………距離を取った方がいい気がする。単純に命が危ない。
「……なんか怖いから前歩いてくれないか」
「はあ? 何だお前今日変だな。いいけどさ」
肩を並べて歩きたかったのかもしれないが、こんな奴を隣に置いているだけでも気が触れそうになる。反金の背中を視界に収めて安心した所で再び歩き出す―――
カンッ!
俺の首筋を、包丁が掠めた。からぶった刃物が地面を波打ち、その場に落ちる。
「…………………」
振り返る勇気はない。感じていた眠気の一切合切が吹き飛んで、心臓が猛烈に加速している。
「おはよう、日方~!」
「わああああああああああああ!」
物音一つで理性は爆発した。朝っぱらから奇声を上げて走る俺を周囲はどう思うだろう。
あれだけ恐ろしかった反金さえも通り過ぎて振り返ると。先程まで俺が立っていた位置には桜庭しか居なかった。遠目には怪訝な表情を浮かべているが、俺には分かる。
後ろ手に何かを隠しているのが。




