ハイドロウェーブな馬鹿騒ぎ
「うわあ広」
水だけは既に抜いてあるのが救いというべきか、水泳部が健在だったら恐らくもっと前段階から掃除しないといけなかっただろう。部活が休止中だからこその幸運である。水がないからこそ伽藍洞な感じが猶更げんなりさせるみたいな。一人でこれをやるなんて無謀な発言だったのかもしれない。晴がたまたまついてきたから良かったようなものを、一体何時間掛かったのだろう。
「うわあ……広いですね」
「今回は俺達がやるからいいけど、美化委員って基本的に貧乏くじだな」
「平常点がどれだけ貰えるかにもよりますよ! もしかしたらたくさん貰えるのかも!」
「…………いや、それでも旨味はないと思われてるだろうな」
「どうしてですか?」
「俺が先生に言い出された時、まだ美化委員の奴は教室に残ってた筈で、そんなに旨味があるなら一緒にやろうとしてくる筈だ。無かったから俺は一人でやる所だった……仮に点数を稼げたとしてもリターンが合ってないんだろうな。気持ちは分からないでもないけど。これやって十数点とかだったらやる気にならないし」
実際は俺の方から逃げる口実として言い出したが、やはりそれでも変わらない。美化委員の奴は平常点がそこまで高くなかった。少しでも稼げる機会としてこれを認識しているならわざわざ満点の奴に取られまいと声を掛けてくるだろう。
広いとは言いつつも晴は楽しそうにニコニコ笑っている。そこでふと、気になった。
「あ、もしかしてお前は平常点が欲しいのか?」
平常点は全生徒に向けて公開される。一年生にも公開されている筈で、それなら彼女が付いてきた理由にも納得出来る。打算的だとしても別に嫌いにはならない。点数欲しさに何かするのは学生なら自然である。
「へ? ああ……日方先輩、私が数字欲しさに来たと思ってるんですか?」
「違うのか?」
「貰えたとして、どれくらい貰えるかも分からないんですよ! そんなリスクの高い事しませんって。そんな事よりも―――着替えましょう!」
「あ?」
「制服が濡れたら乾かすのに時間かかっちゃいますよッ」
「ああ……ああ。そうだな。着替える……か」
この後輩、俺よりも乗り気だ。
プール掃除を心から楽しめる人間は希少種に違いない。こんな乗り気なら俺も晴に任せて帰ってしまおうか。いや、そんな事はしないのだが。炎天下の中にいつまでも棒立ちは暑くてしょうがない。後輩の言う通り、制服が濡れると迷惑が掛かりそうだ、主に両親に。
プールに併設された更衣室で一度別れると、制服を脱いで体操服に着替えようかという所で腕が止まった。
―――別に誰もいないなら脱いでよくね?
プール掃除は当たり前だが水を使う。体操服なら濡れても制服よりはマシだが、やはり乾かすのが面倒だ。俺は面倒くさがりなので乾かす以前に濡れたまままとめて持って帰るかもしれない。すると家では生乾きした体操服が地獄の様相を呈する事になる。
幸い、水着自体は学校に置いてあったので他の服を水着代わりにする必要はない。少し心配になって鏡を見たが、俺の左目に住み着いた気味の悪い奴は傍から見てもとりあえず正体がバレる事はなさそうだ。
「日方先輩! 着替え終わりましたか!」
「ん。今行くわ」
苦痛でしかない掃除をせめて楽しくできるのはこういうお喋りだ。着替えを済ませて外に出ると、全く奇遇にもスク水姿になった晴がプールの中からブラシを杖に手を振っていた。小麦色の肌とスクール水着がそれとなく強調する機能的な曲線美が、元気いっぱいなだけの晴に爽やかな色気を持たせる。
プールの内部に降りると、晴が近寄ってきて、背を逸らしながら上目遣いに俺を見た。
「学校で最初に水着を着たのって私達だと思いませんかッ?」
「まあ……そうだな?」
「一度やってみたかったんです! 先輩、似合ってますよ!」
澪雨や凛の影響で、起伏がなだらかな胸にかえって視線が寄ってしまう。これだけ肌に密着する服装だからこそようやく見えるような膨らみだ。ブラウスを着ていた時は男子とほぼ変わらない様な平たさ。それでもくびれを筆頭に手足のしなやかさから彼女が女性であるのは明白なのだが、それを踏まえた上で、水着は晴の女性っぽさを余す所なく発揮する最強の衣装ではなかろうか。
「似合ってるって言われてもな……上裸だぞ?」
「でも先輩がここでふんどしとか履いてきたら、流石にこんな事言いませんよ?」
「そりゃそうだろ!」
素直に受け取れない俺にも問題はあるが、晴の例えは極端すぎる。
「アホな事言ってないで早く掃除するぞ。普通に日が暮れる」
「日方先輩!」
目に見えるゴミを探していると、また声を掛けられた。振り返ると、晴は身体を側面に捻ってこれ見よがしにポーズを取っていた。
「何か言う事、ないですか?」
「…………………………可愛い」
「ふふふ♪ 満足しちゃいました! 掃除しましょうかッ ―――ふふふふふ♪」
目に見える程度のゴミを除去したら、洗剤とデッキブラシを使って擦っていく。やり方は指示されていないので自分達なりのやり方で掃除だ。文句があるなら専門業者を雇え。上部下部で手分けする考えもあったが広すぎるので戦力を集中させて終わらせる作戦に変更。その時々で役割を変えてデッキブラシを遣ったり、ホースに水を通して洗い流すのを繰り返す。
「いや、広すぎるんだが……」
「もう一人くらい欲しくなりますね!」
一息で済ませるのは厳しすぎたので、小休憩。授業であれば見学者が使うベンチに座り、水分補給をしていた。
「ま、やってればいつか終わるよ。頑張ろう」
「すみません先輩。それなんですけど、一旦下に降りませんか?」
「ん? ……まあ、いいけど」
プールの底に降りて、何となく中心まで移動する。晴の方へ振り返ると、顔全体が冷たくなった。
「うわっぷ! 何を……」
「プール掃除と言えば水遊びですよ! 先輩ッ」
水を回避したその先には、ホースを持って楽しそうに放水する晴の姿。暑さで煮えていた思考がダイレクトに冷やされ、冷静さを取り戻していく。
「―――お前、先輩をからかうのもいい加減にしろよ!」
もう一つのホースを上部から素早く引き寄せると、晴に向かって全力放射。
「きゃーーーーーーーー!」
「お前も水浸しにしてやる! 反省しろ!」
仁義なき水の掛け合いは熾烈を極めた。両者は殆どノーガード、水着である意義がこんな所で生まれるとは思わなかったし、多分晴はこれがしたくてスク水に着替えた。ただ暑くて疲れるだけの掃除が今やノリだけで構成された悪戯だ。散々乾かすのが手間だと言っていた割には、お互いにずぶ濡れになってまで本気で遊んでいる。
「楽しいですね!」
「こういうの、水張ってからは出来ないもんな! おっと、気をつけろよ」
「え―――きゃあ!」
晴の足が床で滑ると同時に、俺は両手で抱えるように後輩の身体を支えた。
「……まあ、どっちか一回は滑るなとは思ってたよ。大丈夫か?」
「あ、有難うございます……ちょっとはしゃぎ過ぎましたかね?」
「まあ水遊びなんてそんなもんだよ。涼しくなったからそれで良しだ」
「―――掃除、続けましょうか♪」
「見てられん」
悪ノリに水を差すような言動が一つ、二人で外を見上げると、風紀委員の腕輪をつけたサイドテールで右目を髪に隠した女子が鋭い目つきで俺達を見つめていた。
「…………あー。えっと。鮫島壱夏!」
「当てずっぽうなのね。ま、いいけど」
「お知合いですか?」
「同じクラスの……交流がない奴」
そして風紀委員の癖に平常点のランキングでは下から数えた方が早い変わり者だ。委員活動をサボっているとかではない。俺の印象も真面目でお堅い奴だ。クラスでも目つきは悪いわ、喋り方も淡泊わで、男子からの評判は悪い。美人なのは間違いないが、ツンツンしすぎるあまり近寄りがたい、澪雨とはまた別の圧力を感じる女子だ。
それはそれとして優秀なのも間違いない。だから実を言えば俺があのランキングで気になっていたのは―――そういう、点数算出の謎だったりする。
「プール掃除を手伝おうと思ったんだけど、来てみたらこれだ。日が暮れるよ」
「それまでには終わらせるつもりだ。夜は外出禁止だからな」
「その割にはふざけてたけど」
「私が誘ったんです! 日方先輩は悪くありませんッ」
「あー待て待て晴。ちょっと待て。庇わなくていい」
水が張っていないので梯子を上るのも面倒だ。上にのぼってコンクリートを踏むと、日差しを吸い込んだコンクリートが鉄板のように熱くなっていた。
「何の用だよ。嫌味を言いに来たって訳じゃないんだろ」
「どうやって満点を取った」
脅迫というか、俺を威圧するような敵意の視線。しかし俺にも原因が分からないので全く通じなかった。
「私が真面目なのは知ってるわね」
「おお。自分で言うのか」
「別にいいでしょ。平常点の事は前から知ってた、両親に聞かされていたの。なのに一年生の頃からずっと、私は不当な扱いを受けてる。平常点が低いままなんておかしいわ」
「………………だから俺に満点のコツを聞きに来たと?」
「木ノ比良に話しかけるのは目立つでしょ? だから貴方に聞こうと思った。貴方についていけば何か分かると思ったわ。でもこれは何? こんな事で満点が取れるの?」
「あー…………まあ、非公開の頃から平常点を知ってるなら今更かもしれないけど、何処で点数を決められてるのかが不明瞭だろ。だから俺も良く分かってない。ただ、点数欲しさでも来てくれたのは助かる。手伝ってくれよ」
「……私の助け、必要なのね」
「ああ、必要だ。後輩と二人でやったら帰る体力までなくなってるかもしれない。まあ点数が貰えるかも正直分からないけど」
壱夏は返答の代わりとしてブラウスをへその上で縛り、上に放置してあったデッキブラシを握った。
「……暫く貴方を観察させてもらうわ。視線を感じても気にしないで」
「別にいいぞ。点数の仕組みが分かったら教えてくれ」
「嫌」
「タダで教えないのは賢明だな。おーい晴! こいつも手伝ってくれるそうだ! 三人で頑張ろう!」
「本当ですか!? すっごい助かります! すみません、えーと鮫島先輩! 一緒に頑張りましょう!」
晴が間に居てくれるだけで険悪になりそうな雰囲気が中和されている。
本当、快晴みたいな女の子だ。




