救済九死救枢救世泣葬パラドックス
席に座らないという選択肢はなかったが、それとなく誘導するのが気にかかった。これを乗り切る方法は果たしてあるのかと悩んだ末に思い至った唯一の突破方法。それは同調圧力以上の力で抵抗する事。
「澪雨。席代わってくれよ」
「…………へ?」
昼の間は出来るだけ関わらない。それが俺達の繋がりを悟られない唯一の方法だが、この瞬間は例外だ。繋がりを隠す為に無理をしたら俺はこの圧力に抗えない。だから使った。この町全体を支配する権力―――即ち木ノ比良家の巫女の権威を。
それは教師や大人と言った枠組みを超える正体不明の威光。ただ生徒である理由から澪雨は従順であるだけで、その気にあるなら逆に支配する事も可能な筈だ。大人達は彼女を信仰している。それはこの学校の校長とて例外ではなかった筈だ。校長が影響かにあるならその下に居る並大抵の教師など、強要出来る道理もない。
「……構いませんけど」
澪雨が席を立つ。教師や生徒達は口を出そうとしてやはり気まずそうに顔を逸らした。『ヒキヒメサマ』が何だ、こっちは『澪雨様』だ。そんな良く分からない存在よりも確実に存在し、町の人々に信仰されている彼女の方が余程偉いに決まっている。
木ノ比良澪雨は敬わないといけない。これは夜に外出をしてはいけないのと同じくらい、『きまり』として根付いている。大人からすれば澪雨というより家全体なのかもしれないが、とにかくその権威に、この場で誰が抗えるのかという話だ。
「机の中の物移動するか?」
「お気遣いなく。それに、教科書等は鞄にまとめていますから」
夜更かし同盟のメンバーとは思えない事務的なやり取りで席を変わると、教師は暫く動かなかった。あのハイテンションで強気だった喜平でさえも微妙な顔で口を噤んでいる。しかし静寂はない。サクモが人目も憚らずにケラケラ笑っていたから。
これで一つ分かったのは、『ヒキヒメサマ』にそこまでの強制力はないという事だ。
もし澪雨にまで口を挟む程の強制力なら本当に厄介だったが、この町最強の権力に歯が立たないならばとにかく最低限は防げる。
「で、HRは始めないんですか?」
「あ、ああ…………その。何だ。何で澪雨なんだ?」
「何でって、目が合ったからですよ。そこまで気にする事ですか? 座る位置が少し変わっただけじゃないですか」
「………………」
変わっただけ、ではないのだろう。予言とやらを信じる人からすればその通りに事が運ばなかったのだから。しかし俺の今の反論は他ならぬ教師の口から出た言葉。それを否定するなら、彼は俺に嘘を吐いてまで座らせようとした証明になる。
「そういえば正しいって言いましたけど、それは澪雨にも求めないといけないくらい正しい事ですか? 決まりなんでしょうか?」
「それは………………うう、ううぐううううううう! それ。はああああああああああ!」
頭を抱えながら教師が教壇に突っ伏した。そして。
「うおあああああああああああああああああああああああ!」
己の頭を振りかぶるように、何度も何度も額を叩きつけ始めた。
「それは! それは! それは! 正しく! 正しい! ありえ! 守る! 破らない! 従う! 俺は! 幸せに! まもられ! ぬがああああああああああああああ3あああああああああああああああああああああああ!」
「ちょ、先生。あの―――」
「澪雨には関係ないと思うよ~」
教師の奇行を目前に、クラスの八割が落ち着いた様子で教科書の準備を始めていた。まだHRも終わっていない。この場で困惑しているのはサクモと俺と澪雨の三人だけだ。幸い、誰かがそれに気づいた様子はないが。
「……花岡さん。関係ないというのはどういう意味でしょうか。先生の今の音、聞き逃した訳ではありませんよね? 硬い物に罅が入ったみたいな音とか、血の……出血しています! これが関係ないんですかッ?」
「うーん。だってさ、そういう予言だから」
「……予言というのは、そもそも未来の出来事を言い当てる事と解釈していましたが」
「え、そだよ。先生はあれをしたら幸せになれるの。占いとかだと気運が上がるっていう風に言うよね。未来が良くなる行動を教えてくれるから予言。ほら、同じじゃん」
「それは……全く違うと思いますが」
澪雨に影響は及ぼせない、および木ノ比良の権力にも抗えないが、その理解を拒む事くらいは出来るようだ。彼女は誰が見ても明らかなくらい戸惑っている。神社で壁をたくさん叩かれた時と同じくらい、怖がってもいた。
「んーずり~なあ! 先生だけ一足早く予言貰うとか不公平じゃね?」
「確かに。僕たちにも何かないかな!」
そうして一斉に右を向く。
先生が自傷行為をやめるまでの三〇分。長すぎるHRが終わった。
そこで日常が帰ってくれば良かったが、そうはいかない。偶然か悪意か次々と俺に様々な要求が尽きつけられる。
「日方君。この式の答えは分かる? 書いてくれないか?」
「日方君。この部分を音読しましょうね」
「日方。俺のシャーペン使わせてやるよ」
「悠か。悪いがノートを見せてくれ……ちょっと、今日は全員変だ」
俺には誰が予言の影響かで誰が影響外なのかの判別がつかない。サクモは辛うじて信用出来るものの、万が一、伏兵という可能性を考慮し、その可能性について言及した上で断った。無条件に信じられる澪雨とは日常会話が出来ない。
今日一日の俺は最低な奴だ。人の厚意は無碍にする、授業は停滞させる。それでも従うのはいけない気がした。不審者の言葉を全面的に信じるのもどうかと思ったが、頼み方が全員引っかかるのだ。
答えが分からなくても書けと言うし。
全員での教科書読み合わせは席順なのに、なぜか俺にだけ前置きがあるし。
シャーペンに困ってもないのに押し付けようとしてくるし。
いちいち恩着せがましいではないが、無理やりその行動を達成しようとしている様にしか思えないのは『ヒキヒメサマ』について知ってしまったせいでバイアスがかかっているのだろうか。たとえそうだとしても何となく従いたくはならない。『口なしさん』と同じだ。噂通りの事が起きるかどうかは結局他の被害者を見るまで判断出来なかった。でも噂通りの対処法は貫いた。命が惜しいから。
「たまには二人で食べるか?」
昼休みにもなると大して交流のない奴らが一緒に弁当を食べようと迫ってくるが、これをモテ期とは捉えたくない。だからサクモが誘ってくれたのは嬉しかったし、乗らない理由がなかった。珍しく男二人きりで。高校生活では初めての屋上飯をする事になった。
「これ、誰か来たりしないか?」
「扉を封鎖してやった。先生がハンマーとか、後は単純に蝶番外せる工具とか持ってきたら別だけどな」
「………………」
「………………」
珍しく会話が続かない。サクモは大切な友達だが、だからこそどんな話題を出すべきか悩ましい。今日の異常さをたっぷり味わった上で呑気にゲームの話ができるならそれもありだが。お互いに無理がある。
「ああ、そうだ。先生の容態だが」
「病院に行ったのか?」
「行くかアホ。保健室で包帯巻いたらすぐに治ったってよ」
―――は?
「じょ、冗談だろ? あんなの手術とか……いや、仮にそれが大袈裟だとしても。病院に行くだろ普通」
「普通って何だ? この町は死亡事件も事故も少ないのが取り柄なんだよ。それも全部木ノ比良家の力ってな」
「……予言は信じてないのに、そういうのは信じてるのか。お前も」
「お前は転校生だから半信半疑って所か。だが俺を含めてこの町じゃずっとそういわれてきた。信じる信じないじゃなくて、当たり前なんだ。今は澪雨がそういう力を持ってるから、皆信仰してる訳だな―――これも信じられないだろうが、俺は生まれてこの方怪我とも病気とも無縁だ。転んでも怪我はしない。高い所から落ちても気絶が精々で、身体の何処にも怪我はなかったりする」
「…………冗談だろ?」
「俺がたまたま幸運だった可能性も、あるかもな。だったら他の奴に聞いてみろ。様子のおかしい奴らもその辺りくらいは普通に答えてくれるだろ。病気に罹っても軽い風邪とか、怪我でもちょっとした擦り傷とか。そんなものだと思うぞ」
怪我する事自体が目立つという話を、夜の保健室でもしたが、この回復力は聞いていない。しかもそれが澪雨または木ノ比良家の加護という話に関しては聞いた覚えがない。まさか自分でも自覚がないのか……?
「俺が信じないのは、別にトラウマがある訳じゃない。木ノ比良家とは年数が違うだけだ。予言なんて薄っぺらい物とは説得力が違いすぎる」
「俺が居ない時さ、お前は大丈夫なのか? 露骨に変な頼みされたり」
「あー……いや、あるぞ。ただお前みたいに集中攻撃はされない……まあ人気の少ない道を通ってるってのはあるけどな」
「あるのか……」
俺だけを狙っているつもりはないが、優先順位は俺の方が高い……? どういう状況だろう。だが嘘は吐いてない筈だ。でなければサクモの態度が柔らかすぎる。これだけ嫌悪していてもっと付き纏われているなら喜平に対してももっと辛辣であろう。
「あ、あの…………盗み聞き、してたんですけど!」
二人で情報収集も兼ねた話題を広げていると、屋上と校内を繋ぐ入り口の裏側からひょっこりとスレンダーな女子が顔を出した。日焼けした小麦色の肌といい、長い睫毛といい見覚えがある。
「……莱古晴」
「知り合いか?」
「知り合いって言うか…………」
後輩に向けてパスを出すと、彼女は普通に首を傾げた。
「あれ、どうして私の名前を?」
覚えていたのは、俺だけだったか。




