夜に愛される恐怖
『そろそろ時間だ。部屋抜けてくれ』
『えーもう? 残念。またいつかね』
『明日か明後日の間違いだろ。じゃあな』
『うん。楽しかったよ♪』
椎乃と通話しながら(今日のバイト終わりに渡されていた)ゲームをしていたら少しは落ち着いた。電話は最高だ。顔を見られないから泣いている事にも気づかれない。自分でも情緒がどうかしていると思う。家族団欒の時間において左目は目ヤニではどうする事も出来ない。さっきまで寝ていたとか何とか、自分でも言い訳が思い出せないが、とりあえず言えるのは物凄く怪しまれていた事だ。
だがどうにもならない。義眼は道端には転がっていないし、怪我を装うのはそれ自体が悪手だと前言った通り。ここには怪我という常識が薄い。本当に怪我でも軽傷ばかり。本当に怪我でも重傷ならそれだけで怪しい。そんな町内でどうやって誤魔化せばいいのか。俺には何も分からないから、誰か知恵を授けてくれと。
―――大っ嫌いだ。
良く分かった。嫌という程理解してしまった。夜は人間を憎んでいるのだ。顔も見たくない、生理的に無理なのだと。だから一度でも外に出た人間をこれでもかと痛めつける。もう限界だ。最悪だ。もう二度と外に出ない。神に誓っても良いから、お願いだからこれ以上俺を苦しめないでくれ。壁掛け時計を見ると十二時になろうとしている。そろそろ時間だ。ゲームは起動済みなので後は待機しておこう。
コンコン。
窓の方からノックが聞こえる。今日はカーテンを引いているのでその正体は分からない。カーテンを開けると、そこにはやつれた様子の澪雨を連れた凛が立っていた。普段ギャルっぽく振舞っているだけあって元気そうに見えるが、この至近距離だと顔に対する印象をかなり化粧で誤魔化している事が分かってしまった。
窓を開けると、二人は挨拶もなく部屋に踏み込んでくる。窓を開け放していても他に入ってくる人物はおろか夏の季節にも拘らず虫一匹来ないだろうが、闇が部屋の中を侵食するかもしれないと思うと恐ろしくなって。直ぐに窓を閉めてカーテンも引き直した。
「酷い顔だ」
「お互い様です……予定が?」
「ゲームをしなきゃいけない。まあ、俺が遅れるのはいつもの事だし、俺が来なくてもあいつらは二人で遊んでるよ。一回二回参加しなかった程度で仲が険悪にはならない。何の用だ?」
「もう無理なの」
流れに割り込むように言ったのは澪雨。一番元気がなさそうに見えただけに、その介入は意外だった。
「耐えられない」
そう言って、俺が大体床に落としている抱き枕を拾って。抱きしめて。
「耐えられないよ」
主語が大きく抜けているが、しかし俺にはよく分かる。俺だって耐えられない。精神的な面もそうだが、肉体的にもギリギリだ。
毎日のゲーム三昧は日常的に余裕があってこそ出来る所業だった。今の俺にはとてもじゃないが厳しい物がある。左目が使えなくて毎日罪悪感と焦燥に悩まされて、学校も通わないといけない。人はこれを詰みと呼ぶ。一体どうすれば正解なのか。誰も教えてくれない。誰も教えてくれないのにこれからも続けないといけない。墓場まで夜に外へ出た事実を隠し続ける。不可能だ。
その前に俺は確実に自殺する。
こんな重荷は耐えられない。俺も泣きそうだ。泣いている。泣いていた。澪雨もつられて、涙を流す。俺の傍までゆっくり近づいてきて、倒れ込むように寄りかかった。
「ねえ、日方…………うっ。う」
「…………凛。俺の手には負えないぞ」
「申し訳ございませんが……私も、自分の気持ちを抑えるだけで手一杯なのです。しかし澪雨様の心をこれ以上消耗させてしまうのは、得策ではない。そう思いまして。私は、貴方の所へ来ました。助けてという事でしたら、それはこちらが言いたいのです」
声を震わせながら、それでも平静であろうとする凛。聞いているだけで胸が苦しくなる。ここには辛い感情しかない。リフレッシュに来たと言うなら、まずはこの空気自体をどうにかしないといけないか。俺も、泣いている場合じゃない。椎乃から貰った元気を、何とか二人にも分配しなければ。お嬢様でも怠惰な護衛でも、女の子は女の子であり、頼られたなら男子としては期待に応えたい所だ。
身体に寄りかかる澪雨をそれとなく離して、俺は自分のベッドに座った。
「取り敢えず、さ。シャワーでも浴びて来いよ澪雨。夜は暑苦しかったろ」
「………………日方のご両親に気づかれたりしない?」
「今は大丈夫な筈だ。俺もそこまで騒いでないし。ほら、早く行って来いよ。暑苦しさから解放されたら少しはリフレッシュ出来るから」
「…………うん。そうする」
ここはエアコンが稼働しているものの、爽やかさとは無縁の涼しさだ。静かに階段を下りていく澪雨の背中を見送って、部屋には凛と二人きり。
「お前は行かなくていいのか?」
「お気遣いなく。傷心気味の澪雨様にいつまでも付き添っておりますが、付き添う側にも苦労はあるのです。この扇風機さえ貸していただければそれで」
そういって制服のボタンを緩めると、胸が全開になるギリギリまで前を開いて涼んでいる。巨乳だとやっぱり谷間は汗ばむのか、わざわざ指で谷に風穴を開けてまで風を送ろうとしていた。あんな状態でよく化粧なんてしようと思った物だ。俺は化粧の事などまるで素人だが、汗を掻く環境でもする物なのだろうか。そうでもしないと誤魔化せない、どうせなら崩れた化粧を嗤われる方がマシなくらい、素顔がやつれてしまっているのか。
―――以前はもっと、余裕があったんだけどな。
鼻の下を伸ばす、という言葉がある。早い話が欲情だが、今は本当にそういう気分にはなれない。凛の胸や殆ど剥き出しになった太腿をこれでもかと眺めているが、その感想は全くもって虚無だ。可愛いとかエロいとか、そういう感情に思考リソースを割けないくらい今の俺は追い詰められている。
「…………日方君。こちらに来てくれますか?」
「何だよ急に」
「二人だけで、話がしたい。澪雨様が居ない内に」
喜平とサクモは俺を待ちながら適当にゲームをしているだろう。俺は早急に合流すべきだと、そう分かっていても泣きそうな笑顔でこちらを見る彼女を放っておく事は出来ない。ベッドから滑るように降りて隣へ落下。凛は俺の左手を取って、指を重ねるように繋ぐ。
「澪雨様は、貴方を信頼してる。私も、何か秘密を打ち明けられるとしたら貴方しかいない。貴方はどう。私や澪雨様に秘密を打ち明けられる?」
「そんな選択権は俺にないだろ。だって脅迫されてるんだから」
「…………今だから言うけど。日方君。貴方を協力者に選んだのは、たまたまなんかじゃない。澪雨様は主導者でも、何も知らない。実行犯の私が提案した」
「は? …………え? 何で?」
単純に、疑問。
適任なら、もっと居る筈だと思った。それこそ死んでしまったが恵太とか。アイツなんて知識を持っていそうだったし、役に立つかどうかで言えば悩むとかではない状態で軍配が上がっている。俺が役立つかどうかは博打ではないか。安定を取るならむしろ一択。選択問題にすらならない。
「………………もしかして、俺が転校生だからか? 恵太は時代がちょっと前過ぎるから駄目みたいな」
「それも、勿論ある。出来ればこの町を信仰してない人が良いとは思ってた。澪雨様が出した条件の一つね。三つあるけど、残り二つは『頼れる人』『自由を与えてくれる人』。おかしいって思った? 日方君とは勿論初対面の私が、どうして選んだのか。条件を聞いても分からないって」
「まあ…………そうだな」
最初の理由は住んだ年数が浅いから分かるとしても、残り二つは判断がしにくい所だ。自分ではそうは思わないが、相手からしたらそう思えるのかもしれなくて、何にせよ悩む時点で条件は満たしていない事になる。凛は緊張を和らげるような深呼吸を挟んだ後、風を送り込む為にブラウスを軽く揺らした。黒い縞模様の入った下着が透けては消えてを繰り返している。
「平常点。分かる? 授業中の態度や提出物なんかで評価される点数」
「でもうちの学校は日常生活を加味してるんだろ。校内での活動や外での行いとか。知ってるよそれくらい。知らなかったけど聞いたって言った方が正しいけどな」
「原則としてその点数は計算方法はおろか得点も非公開。総得点は校長だけが知ってるって話なんだけどね。澪雨様に頼んで、新学期の日に聞いてもらったの。平常点、誰が一番高かったと思う?」
「まあ……普通に成績優秀な奴だろうな。授業中寝なくてボランティアとかにも励む奴。だからまあ風紀委員の奴とか、それこそ澪雨が一番高いんじゃないか?」
「そう。正解。澪雨様は同率一位だよ」
「まあそうだよな。なんてったってお嬢様だもん…………同率一位? もう一人の一位は誰だ?」
凛は俺の手を強く握りしめると、押し付けるように自身の胸へ指を食いこませた。
「日方君なんだよね」
「……………………………………………」
「そろそろ新しい脅迫材料が欲しかった所。これで契約更新。絶対、逃げたりしないで。信用してない訳じゃないけど、一応そういう関係だから」
「い、いや。待て。待て待て待て待て! 脅迫はまあその……信用担保としていいよ。それは別にいいんだけど! 俺が一位って嘘だろ!? 成績だって別に普通たまに悪いくらいで、ボランティアなんかしないし部活にも出てないし、ゲーム三昧の俺が一位!?」
「だから驚いたの。それで、平常点一位の人はどんな人なんだろうって興味もあって貴方に決めた。私も何でかは分からないな。ただ…………いずれにしても、私も澪雨様も今は貴方しか頼れない。予定があるのを知った上で、お願い。今日は私達と一緒に、遊んでほしい……」
「……………………!」
頭が真っ白だ。俺が一位なんて知らなかった。誰が? 何の為に? この口ぶりだとサクモや喜平は惜しくもなんともなさそうだ。生活をガチガチに縛られたお嬢様と俺に一体どんな共通点がある。相違点ばかりではないか。
「サッパリしたーッ」
内緒話をしている内に、澪雨が二階に戻ってきた。風呂上りなのに服装がそのままな事についてはツッコミ禁止だ。着替えなんて用意していなかったのだろう。ただ下着だけは再度つけるのに抵抗があったのか、後ろ手で隠すように持っていた。下の方はまだしも上はサイズが大きいので必ず持って帰ってもらいたい。これは流石に、言い訳が出来ない。無理に誤魔化そうとすると俺は女装趣味を持つ事になる。
「二人共、何か話してた?」
「いいえ、何も。日方君がゲームをしてくれるそうですよ」
「あ? あ、ああ。まあせっかく来てくれたし、リフレッシュと言えばゲームだよな。ちょっと前だけど、確かやりたがってたよな。やろうぜ」
「…………! やってやろうじゃん!」
澪雨は嬉々として俺の右隣に座り、悪意なく寄せてくる。左右を女子に挟まれて、俺は目の前のゲーム画面に向き合うしかなくなった。
「有難うございます。いつの日にか解放されましたら―――その時は脅迫ではなく、きちんとしたお礼をさせていただきます」
「………………じゃ、何やりたい?」
今の内にサクモ達への言い訳を考えておく必要はあるが、それでもこの時ばかりは全てを忘れて楽しもう。リフレッシュとはそういう物だ。明日の事は明日の俺に任せていれば何とかなる。何とかならなくても今日の俺は明日の俺には殴られない。
だから好きに、やるべきだ。この瞬間だけは。




