邪なりの人助け
学校に戻ってきたが、簡単に姿を把捉されては大変だ。ただ敷地内に入るだけでも妙な緊張、というか何となく入るのは自殺行為に近い。せっかく抜け出したのに、何のために俺は必死になって走ったのかと。これでは喜平にも顔が立たないし―――だから、入るだけでも慎重にならなければ。
「…………」
なんか、盗撮魔みたいな気分になってきた。学校の敷地内には入らず中だけを覗くなんてまあ不審者には違いあるまい。自分でもどうかと思うが、凛の為だ。人が居なさそうな瞬間を見計らって侵入。昇降口から入るのは部活動が始まった後と言えども目立つので、普通は駄目だが非常口を使わせてもらう。
「…………」
足音や吹奏楽の活動音は聞こえるが、それ以外は特筆するべき音もない。七愛は別のクラスと言っていたが、具体的に何処のクラスかというのは聞いていなかった。まだ教室に居る可能性は低そうだが、それでも一応向かう価値はある筈だ。林山との遭遇については考慮していない。そこは喜平が「もう帰った」とか言ってくれれば、俺を飛ばして次以降の人間の場所へ向かっているだろう。
階段を上って二学年の直線に身を乗り出す。既に多くの人間が部活に出向いて教室は何処も閑散としている。帰宅部は全学年を通してもそう多くない。喜平はともかく、サクモの方は出席回数こそ少ないが部活に所属しているそうだ(本人は幽霊部員だそうだから教えたがらない)。
「…………い。な。い?」
まあ、想定内だ。彼女が部活に所属しているかどうかも知らない為、一々見て回ろうとは思わない。女子バスケ部の方になんか行こうものならその時点で林山に見つかるだろうし、そもそも女子の部活を巡回する帰宅部という図がそもそも気まずい。もう少しだけ見て回って、それで見つからないなら俺も帰るとしようか。
「…………忘れ物でもなさいましたか?」
「えっ―――」
振り返ると同時に、頬が勢いよく突っ張る。指を構えていた凛が俺が振り向くのに合わせて軌道上に置いていたのだ。こんな時代に、この年齢で、物凄く古典的な手法に引っかかってしまった。しかし高校生にもなってこんなくだらない悪戯をする凛もどうかと思う。
さて、そんな風に考えるのは俺が引っかかってしまったからだろうか。
「―――」
「あれ、文句が出ませんね。ちょっと期待したのに、残念」
「何してんだお前」
「何してんだ、はそのままお返ししましょう。今日一日は関わらない方が良いと申した筈ですが、何の真似ですか?」
「いや、その―――」
閑散とした教室に、人の気配は感じられない。だが気配なんて物を頼りに秘密の話をするのはリスクが大きすぎる。俺は武道この身を捧げて四十数年の達人ではない。誰が聞いていてもおかしくない状況で危ない話は控えるべきだ。『夜』の事も、『林山』の事も。
―――え、じゃあ何を話せばいいんだ?
俺の用事は、大体そこに集結するし、終結している。とにかく無事を確認出来たなら離脱したいのだが、どうせなら凛と一緒に離脱した方が良いだろう。澪雨は林山の恐怖もなくとっくに離脱している。彼女が学校から消えれば、それで一先ず今日はやり過ごした事になる。
「い、一緒に帰らないか!?」
「……え」
多分だが、これ以上凛に会話させるのはまずい。彼女は学校用とプライベートで話し方を分けており、今は完全に油断していると考えられる。これはれこれで窮地だ。今は誰も聞いていなかったとしても、長々話し込んでいたらその内聞こえてしまう可能性がある。
俺の配慮など露知らず、凛は大きく目を開きながら胸の生地をぎゅっと掴んで困惑していた。こう見ると本当に胸がなくなっている。どんな努力だ。
「の、ノート借りパクとか認めないぞ! か、返せよ!」
「…………あ、あ~」
今朝吐いた嘘を引き合いに出すと、ようやく意図を理解してくれたようだ。物腰丁寧で淡泊だった喋り方が途端に明るく、砕けていく。
「そっか~! そうだったかー! んー。私もすっかり忘れてたよ~。んじゃ一緒にかえろっかー?」
「ぶ、部活は良いのか?」
「そんなもん入ってないよ~。ほら、行こ行こ。ノートのお礼に一緒に帰ったげるから」
手まで繋ぐといよいよ誤解が生まれるのでそこまではしない。二人で肩をならべながら、今度は昇降口を下りていく。敷地を出るまでの間、凛はわざわざ授業に関わる事を大声で質問してくれたので、俺達の関係を邪推する人間はいなくなったと信じたい。
何故成績優秀でもない俺に頼ったのか、という点も。たまたま見かけたからという言い訳は通る。凛がギャルっぽく居てくれるなら、そういう軽率な絡みもありだろうから。
学校から十分に離れて帰路についていると、彼女の方から口を開いた。
「本当に、どうして戻って来たんですか?」
「……こっちのクラスで林山がちょっと変な事してたから。つっても誰か分かんないか。まあクラスメイトがちょっと不審になったんだよ。澪雨はどうにかなったけど、お前の方はどうかなって心配になったんだ」
「私を、心配?」
「べ、別にいいだろ。お前も澪雨も女の子なんだからさ。ほら、あれだよ……人質は価値がなくなったらおしまいなんだ。死んでても生きててもどっちでも構わない奴なんて人質にする意味がない。生死はモノの例えとしても、お前が捕まって動けなくなったら困るだろ?」
外だからと言って安全とは限らないが、少なくとも校外で訳もなく怪しまれるくらいの問題児ではない。話しても問題ないとは思った。何より時間帯―――四時過ぎというのが丁度良い。夜が訪れれば当然人通りはぱったりと途絶える。昼と夜の中間である今は、人通りが多くなると同時に少なくなる時間帯だ。
俺の家までの道のりは丁度、ピークを通り越して減衰期に入っていた。
「日方君。私と澪雨様は十二時に、貴方の家で落ち合う約束をしています」
「……いつから俺の家が拠点になったんだ?」
「深夜に使える安全地帯はそこしかございませんので」
安全地帯呼ばわりされるほどセキュリティは備わっていないが。この町では『屋内』であるだけで安全が保障される。二人が無防備になったのはそれを知っているからだ。俺も嫌という程理解した。外は何故か、不気味なのだ。
「しかし……夜までにまだ時間は残っています。少しだけ……貴方のお家に寄らせてください。助けてくれたお礼をば…………嫌なら、いいけど」
元々下心ありで助けに行ったので、その誘いを断る理由はなかった。堂々と玄関を通す訳にはいかないので、また窓から入ってもらう事にする。大丈夫、夜間外出禁止のルールには抵触していないし、凛もすぐに帰ると言った。
時間は多くないが、これからの方針や気になる事を話すには十分な時間だ。
「…………お、お礼ってこれか!?」
急に「昨夜撮った写真が見たい」と言い出したかと思えば、これだ。俺は凛に肩を組まれている。わざわざ谷間を見せつけるように限界まで開けて、そういえばこれは俺のワイシャツだった。下着越しとはいえ、俺の服を女の子が着ていると思うと……深くは考えないでおきたい。そこまで行くと澪雨だってお嬢様が破廉恥にも俺のワイシャツを……という流れにもなってくるからだ。
「私の記憶が確かなら、日方君は澪雨様と私の胸をずっと見ていたように思います。この写真も、澪雨様の谷間にくぎ付けですね」
「何で俺が脅されてるんだ? なあ? 立場逆だろこれ? 逆であってくれよ」
「要求を出していないのでこれは脅迫ではありません。今は自由にご覧になっても構わない、という意味です。あんまり見られても……恥ずかしいけど」
「い、いや! やめろ! なんかこう本格的に変態みたいになってくるから! お礼とかいいって、そんな事よりお前に尋ねたい事があったんだってば!」
これ以上脅されてたまるかと、その場から逃げるように飛び跳ねる。話題を切り替えない事にはいつまでも追いつめられるので、俺はワイシャツの襟首を緩めて今朝発見された痕跡を彼女に見せつけた。
「これ、どう思う?」
この痣は、何時間経っても薄れる事はなかった。休み時間の間にトイレで度々確認を取っていたのだが、どうやっても消えない。水をかけても、マッサージしてみても。痕跡だけが深く残されている。
「――――――それは?」
「朝になったらついてた」
「…………そうですか。原因は分かりませんが、夜に外出しない限りは悪化する事もないでしょう」
「まあ、外出したら急についた傷だもんな。でも俺はまだやめる気はないぞ。怖いは怖いけど……澪雨のお婆ちゃんの発言が気になってる。俺が行かなくても、どうせアイツは動くだろうし」
「……澪雨様をお守りしたいと?」
「守れるかどうかも分かんないけどさ。せっかくお転婆な奴だって俺だけが知るラッキーに恵まれたのに知らない所で死なれるのは嫌だろ。だから目の届く所に居たいだけ。下心ありありな?」
「真意はどうあれ、澪雨様は少なからず日方君を当てにしていらっしゃいます。共に夜更かしをする―――この町では、ただそれだけでも信用に値するのですね。今朝渡した小袋は澪雨様からの贈り物です。つけてみてはいかがでしょう。お喜びになられますよ」
「あー。そんなのあったな。どれ」
すっかり忘れていた、とは言いにくい。貰った小袋をポケットから取り出して開いてみると、お世辞にも趣味が良いとは言えない、ムカデが丸まったような指輪が入っていた。
「………………俺さ、いつ蟲が好きだって言った?」
「澪雨様からの贈り物があれば皆々喜ばれるのですよ。それが澪雨様の名を借りただけの代物でも、大人、特にご高齢の方々は。しかし澪雨様はたった今、私を通して初めて誰かに贈り物をなさいました。理解がない事についてはどうかご容赦いただきたく思います」
「……なあ。何でそこまでアイツは崇拝されてるというか信仰されてるというか良く分からないんだけど。傍観してるから分からないだけか? アイツともっと仲良くなれば分かるのか? それとも本人に聞けばいいのか?」
「私には、何も。付き人はお父さんに申し付けられた事だから。澪雨様も分からないと思います。理由を知っていれば責任感が生まれ、この様な暴挙には及ばないでしょうから」
単なる夜遊びを暴挙とまで言われている事に苦笑する。分かり切っていたがこの二人は色々と訳ありのようだ。澪雨は親の言う通りに過ごしてきたとも言っていたし、特に矛盾はない。今までのアイツにとってはどんな疑問も『親が持つように言わなければ』存在さえ許されなかった概念だ。
分からないものは分からないし、敬われているものは敬われている。
分からない所が分からないとでも言うみたいに、彼女は抱いた疑念について少しも考えようとせずここまで生きてきたのだろう。
「…………大体事情は分かった。うん。今はそれだけ聞ければいいや。続きがあってもまた夜な」
凛の家が何処にあるか分からない以上、引き留める理由はない。さっさと帰れと指で指示を出すと、彼女は肩をすくめながら俺に近寄って来た。
「お礼の方がまだでしたので、手短に」
「は? いやだからお礼は―――」
俺は、覆い被さるように抱きしめられた。
ほんの二、三秒の出来事だったが、凛はわざと胸を動かして、その柔らかさがどれ程なのかを味わわせてくれたのだ。
「……心配してくれて、ありがとう。ちょっと嬉しかった」
「!」
距離を取って真正面に捉える凛は、相変わらずの無表情。
「それでは、夜にまた。澪雨様と」
もう一話出します。




