別人
休日の晴天を窓から見ていると掃除をしたい欲に駆られた僕は、音楽を再生し、掃除機を握った。大音量で流した歌手の歌声と共に熱唱しながら掃除機を掛けるのが、僕のストレス発散法だ。
リビングと寝室の絨毯を掛け、床に置いたベッドの上の布団を縦と横の二回ずつ掛ける。
それから、除菌スプレーを撒いてもう一度縦と横に掛け、反対側も同様に掛ける。
このルーティンは約一時間掛かるため、アルバムが一周するのとほぼ同時に終わるのだ。
昼頃。
前々から気になっていた近所のラーメン屋に入り、食券システムに思わず落胆しながらも、目当てのラーメンの名前と値段が書かれたボタンを押す。
だが、全く反応しない。
何度押しても結果は同じだ。
「あっ、それ何か、調子悪いみたいで」
店主が厨房から云った。
貼り紙でもしておけよ。
ボタンに触れ損じゃないか。
口頭で注文し、カウンター席に座る。
店の外壁に貼られたラーメンの写真を見掛ける度に覚えていた、これは絶対に美味いという確信は、やはり的中した。
帰路に就いていると、遠くの後ろ姿が目に留まった。
恐らくFILAの三色トレーナーを纏っているそれは、毘沙門天ではないだろうか。
白Tシャツとジーンズ姿の大柄な男の顔を擦れ違い様に凝視して二階建ての白い一軒家のある角に消えた後ろ姿を、走って追い掛ける。
「オンベイシラマンダヤソワカッ!」
一軒家のある角を曲がると、其処に毘沙門天らしき人物の後ろ姿はなく、何処からか野太い声がした。
それから、二つの一軒家の隙間から人が現れた。
「あっ! あぅっ、あっ……」
毘沙門天だ。
彼は僕と目が合うと、それを見開いてきょろきょろとさせながら狼狽えた。
「あの、毘沙門天さんですよね」
「あっ、い、や、あ、えっ、はい……」
本当に毘沙門天なのだろうか。
何やら様子がおかしい。
「毘沙門天さんですよね?」
「んぁ、は、あ、は、はい……」
毘沙門天ではない他の七福神のメンバーがこの男に化けているのではないだろうか。
いや、そんな事をする理由は恐らくない。
これが、この男のシラフのテンションなのだろうか。
「あの、毘沙門天さんに取材させて戴きたいんですけど、難しいですか」
「あっ、あの、まぁ、あの、難しい、というか」
「もしかして、体調でも悪いんですか」
「えっ、えっと、いや……」
やはり様子がおかしい。
それからフェードアウトしていく声と共にすたすたと去って行く背中を引き留めようとした時、軽快な音楽が鳴った。
この男のスマホらしい。
「うぃっすっ! どうした。ん? 明後日? おう、行く行く。おう。おう。七時な。おう。おう。はいぃ、はいぃ」
毘沙門天はスマホをジーンズのポケットに入れた。
テンションが全く違う。
嫌われているのだろうか。
だが、心当たりがない。
そう思いながら毘沙門天に近付く。
「あのっ!」
背後から声を掛けると、毘沙門天の肩はびくっと動いた。
「は、はい……」
「パトロール中なんですよね、今。同行してもいいですか」
「い、いや、あの、ちょっと、それは……」
「でしたら、真の姿を見せて戴けないでしょうか」
「は、はいぃ……」
「少しの時間でいいので」
毘沙門天は数秒間沈黙すると、「は、はいぃ……」と、引き攣った表情で云った。
「あ、あのー……」
毘沙門天はトイレの個室のドアを少しだけ開け、その隙間から声を出した。
臙脂色の甲冑。
右手に持った金色の槍。
左手に持ったお城の形の小さな置物。
厳つい顔。
口を覆う髭。
その後ろにある左右と上部に炎の模様が入った大きな輪。
そのインパクトに、思わず一歩引いた。
これが、毘沙門天の真の姿か。
「あっ、あの、も、いい、ですか……」
その見た目とは裏腹なか細い声だ。
「すみま、し、失礼、します……」
「うわぁっ! ちょっ!」
その場でジャンプした毘沙門天が着地した瞬間、その姿は、ぱっと消えた。
思わず振り返るが、いない。
急いでトイレを出て、公園を見渡すが、いない。
毘沙門天が消えた。これが、あの男の特殊能力か。
甲冑や槍ごと消えたという事は、透明になった訳ではない筈だ。
まさか、瞬間移動か……。
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