迷惑
福禄寿が僕の苗字を連呼している。
「あぁ、起きた起きた」
目が覚めて最初の光景が、僕を見下ろす福禄寿の顔だった驚きに因って、残りの眠気が一気に吹き飛ばされた。
「私、もう行きますね。仕事なので。ところで、モーツァルトお好きなんですか?」
「え?」
「何か、五回くらい鳴ってたんで。〝アイネ・クライネ・ナハトムジーク〟、でしたっけ」
「えっ……!」
慌ててスマホを手に取るとそれの画面は、時刻が七時十四分である事を知らせていた。
六時半から五分毎に五度も鳴っていた筈の最大音量のアラームに気付かなかったらしい。
すぐにソファーから起き上がった。
荷物を持った福禄寿は「では」と、軽く一礼すると、玄関を出た。
ラストチャンスのアラームが鳴る六時五十分に起きて駅まで普通の速度で歩いても、いつも乗っている七時四十六分の電車に間に合う事は立証済みだが、これ程の寝坊は前例がない。
トイレ。
歯磨き。
寝癖直し。
着替え。
脳内で次の行動をシミュレーションしながらそれ等をクリアしていく。
玄関で靴を履き、時刻を見ると、それは七時二十九分だった。
いつもの時間の電車に、間に合うだろうか。
テレビを点け、髭を剃った後、二枚のバタートーストとヨーグルトを食べて淹れたコーヒーを飲むという朝のルーティンを諦め、家を出て猛ダッシュする。
朝から上司の説教を喰らい、帰り道に宗教の勧誘を三十分以上受けた自分への励ましも兼ねて、先週、寿老人に取られて食べられなかったミルクレープを買い、帰宅した。
それから、ドアノブやテレビのリモコン等、福禄寿が触れた箇所を徹底的に除菌し、シャワーを浴びた僕は、何となくLINEのトーク画面を開いた。
親戚や同僚の名前と並んだ〝溜口圭吾〟の文字が、異彩を放っている。
あの男の連絡先を入手した事は、小説の完成へと導く重大な手掛かりになりそうだ。
改めて、そう思った。
福禄寿が今朝、このアパートを出た場面までを書いたデータを上書き保存した時刻は、二十一時になる頃だった。
小一時間忘れていたらしい空腹と疲労が一気に込み上げる。
パソコンを閉じ、伸びをしてキッチンに向かう。
ポン酢をかけた納豆チャーハンは、やはり美味い。
数年前、納豆チャーハンの作り方をクックパッドでマスターし、片手で数えられる程の僕の料理のレパートリーの一つに加わって間もなく、自ら編み出したこの組み合わせの相性の良さを改めて実感した。
テレビを点けると、〝ハリー・ポッター〟が放送されていた。
この映画は全く観た事がなく、主人公及び、彼と仲の良い少年と少女の顔と名前程度の知識しか持っていないが、主人公の少年の幼い姿と、これから髭面の大男に連れられて魔法学校に行くらしい状況からして、恐らく一作目だろう。
そう云えば、今週何度か〝三週連続ハリポタ祭り〟というテロップが表示されたCMを観たのを思い出した。
さて、ミルクレープに手をつけるか。先週は食べられなかったため、今週はずっと〝ミルクレープの口〟になっていたが、〝スイーツは毎週金曜日〟という自ら課したルールが欲望を制していた。
プラスチックの蓋を開け、フォークを袋から出した時、インターホンが鳴った。
魚眼レンズを覗くと、どうやら嫌な予感が的中したらしい。
「ちょっと、どうしたんですか」
「お邪魔しますねぇ」と、リュックを背負った福禄寿は、靴を脱いでリビングに向かった。
「いやぁ、ごめんなさいねぇ、遅くなっちゃってぇ。仕事終わった後パトロールして帰りに牛丼屋寄ったもんですから。連絡すれば良かったですねぇ。申し訳ない」
福禄寿はフローリングにリュックを置いた。
「あの、どうされたんですか」
「えっ、覚えてないんですか? 『今晩は此方で寝てもいいですか』って私云いましたよね? そして、了承してくれましたよね?」
「いや、昨日の話じゃないですか、それ」
「いえいえ、今日の話ですよ」
「えっ?」
「だって、今晩ですよ、今ばぁん。今晩って、今日の夜って事ですよ。『今晩は此方で寝てもいいですか』って私が訊いた時点で、十二時過ぎてましたからっ! つまり、日付が変わったので、あれは今日の話です」
どんな屁理屈だよ。大体、今日は此処で泊まる理由がないだろ。
一週間の仕事が終わった解放感と、小一時間の執筆作業で集中力を浪費した事に因って、完全なるOFFの状態である今、泊りに来るのは相当迷惑な話だが、小説の為だと、自分に云い聞かせる。
「あっ、ミルクレープ」
福禄寿はミルクレープを凝視している。
「一口戴いてもいいですか」
「えっ、あっ……」
何とかミルクレープを阻止しなければと思ったが、福禄寿の腕は止まる事なくフォークに伸びた。
そして、大きく開けた口の中に放り込まれた。
こいつ、マジか。
「あっ」
青髭に囲まれた口から天井に向かってぬーっと出たフォークの先端をミルクレープに刺す腕を止める事が出来なかった。
間に合わなかった。僕に渡すのならまだしも、何で刺すんだよ。もう食べられないじゃないか。
「あっ、あの、どうぞ。全部」
意気消沈しながら、菌の塊と化したミルクレープを福禄寿の方に押し、福禄寿は「あら、いいんですか。では、お言葉に甘えて」と云いながら、それを自分の方に引っ張り、引き続き頬張った。
二週連続で、神様にミルクレープを取られてしまった。
「最高ですねぇ、このミルクレープッ!」
顔をミルクレープに近付け、それをむしゃむしゃと口に放り込んでいった福禄寿は、それ途中でフォークの動きを止めた。
「あの、全部は申し訳ないんで、半分ずつって事でどうでしょう」
その段階で云われても、もう意味がない。それに、残っているミルクレープはもう既に二割程だ。断ると、福禄寿は「あらそうですか」と、引き続きミルクレープを頬張った。
福禄寿はミルクレープの皮が周りの数箇所に付いた口で、「いやぁ、美味しかったぁ」と再三再四繰り返す。
「浴室お借りしてもいいですか」
「あっ、はい、どうぞ」
せめて家で入ってから来いよ。福禄寿はリュックからタオルを出した。
「あっ、〝シャカシャカ〟ッ! 〝シャカシャカ〟忘れたっ! 〝シャカシャカ〟持って来るの忘れちゃったっ! いやぁ、すっかり忘れてたなぁ、〝シャカシャカ〟ッ!」
七福神はナイロンタオルの事を〝シャカシャカ〟と呼んでいるのか。
ピンクと白のボーダー柄のアクリルたわしを渡すと福禄寿は、「えっ、何ですか、これっ! 初めて見ましたぁ」と、目を丸くした。
「アクリルたわしっていうんです。これで躰洗って下さい」
「ワクリンたわしかぁー。これ、貰ってもいいですか」
「はい」
むしろ貰ってほしい。
「あっ、〝ハリー・ポッター〟じゃないですか」
緑のチェック柄のパジャマ姿で浴室から出て来た福禄寿は、テレビに映るダニエル・ラドクリフの顔を観て、目を丸くした。
「私これ、どハマりしてましたよー。も、何回も観ましたからね。ハリーとロンとエマ・ワトソンの三人の掛け合いがいいですよねぇ」
何故、エマ・ワトソンだけ役者名で呼んだのだろう。
「〝ハリー・ポッター2〟とかやんないんですかね。やってほしいなぁ」
一作目にどハマりして何回も観た上に、この映画のシリーズは何作もあるにも関わらず、どうすれば二作目以降を存在さえも知らずにいられるのだろう。
「あっ! ところで、アニマックスは契約しました?」
「いや、してないです」
すると福禄寿は、サザエさんの旦那さんであるマスオさんの様な声で驚いた。
「まだ契約してないんですかぁ!」
「は、はい」
「キッズステーションは?」
「してないです」
「えっ、カートゥーンネットワークはっ!」
「いえ」
福禄寿は再びマスオの様な声を出した。
「アニメ観放題ですよっ! 名作揃いやしっ! こないだはほんま――」
「あっ、今度観ますっ! 契約しようと思ったけど、都合が悪かったので」
「あら、そうだったんですか。失敬」
危なかった。若干関西弁になっていた。
プレゼンスイッチが入ったらしいこの男にブレーキを掛ける事が出来た僕は、安堵した。
「これこれっ! これですっ! このシーンですよっ!」などと、画面上のラストシーンに向かって指を差しながら興奮していた福禄寿は、映画が終わった後に流れた「三週連続ハリポタ祭り! 来週は秘密の部屋!」というテロップとナレーターの声に、絶句した。
驚きのあまり、マスオさんの様な声も出ないらしい。
「続編あったのかよっ! マジかぁ。しかも三つもあんのかよっ!」
実際は三つどころではないが、一応それは云わないでおこう。
福禄寿は、「いやぁ、知らなかったなぁ」、「続編あったのかぁ」、「いやぁ、ショックだなぁ」、「今まで損してたじゃん」、「いつの間にやってたんだろう」などと、何度も嘆く。
「ところで、〝進撃の巨人〟は好きですか?」
「いえ、観た事ないです」
すると、福禄寿は缶ビールを飲み干し、大袈裟な音を立ててそれをテーブルに置いた。
「あの名作を観てへんのかっ!」
マズい。スイッチを入れてしまった。
「ほんだらな、リヴァイはな……、ウォ……、ウォール・マル……、ウォリ……、ウォール・マリ……、ア、さ……、しゅ……、だ、か……」
一時間以上アニメを熱弁した福禄寿は、テーブルに勢い良く突っ伏していびきをかき始めた。
ぞっとする程、突然だった。
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