02 浮気者
「……ねえ、エルドラ」
「んん?! ん、な、なんだ」
ただ声をかけただけだ。
書斎である。扉がある面を除いた三面は本棚に囲まれ、ややほこりっぽい香りが漂う、エルドラのお気に入りの一室。
机に足を乗せて椅子を前後に揺らしながら――ちょっと行儀が悪いけど――ウンウン唸って本を開いていたところを見るに、ここ最近の秘密の考えごとに執心していたのだろう。私が入室したことにさえ気づいていなかった。
椅子ごと後ろにひっくり返りそうになるくらい動揺して、それからどうにか平静を装おうとして仰々しいほど厳めしい顔を作ってみせた。ほほえましい。
「んふ」思わず口元がほころぶが、あんまり笑うとエルドラの機嫌を損ねてしまう。咳き込んだフリをしてごまかす。
「もう夕食できちゃったから、一緒に食べよ? 冷めちゃうよ?」
「あ、ああ。そっか、もうそんな時間……」
まだ自分の世界から帰ってきていないのか、曖昧なままにそう呟いて本を閉じた。
一度没頭し始めたエルドラは周りの出来事にひどく無頓着だ。私のことさえ忘れているんじゃないかなって、少し寂しい……が、ひとりで眉間にしわを寄せたり、そうかと思えば何か閃いたように目を見開いたり、ころころ変わる愛らしい表情を眺めているのが最近の趣味だった。
「それで……何か思いついた?」
「いや、それがなぁ……いや、何がだ?! なにも考えてないが?!」
慌てた様子で椅子から立ちあがると「早くしないと冷めるんだろ」なんてぼやきながら逃げるように駆け足で階段をくだっていく。ぼんやりしてたから聞きだせるかと思ったけれど、詰めが甘かったようだった。
まあ、エルドラが言いたくないのならしょうがない。そのうち秘密を明かしてくれることを期待していようと思う。しかし、
(……隠し通せてるつもりなのかな?)
明らかに挙動不審で、隙だらけで、心ここに在らず。ここ数日はそういった様子である。
無防備すぎて、許可なく頭を撫でてみても気づかれなかった(そのあとバレて怒られた)。
うーんと考えてはみたものの、エルドラが何を企んでいるかは皆目見当もつかない。ので、行動を予想するのは諦めて、大人しく彼女が話してくれるのを待つこととする。
これは、たとえば……イタズラを画策する子どもを眺めるような心持ちかな? だから先みたいに、こっちにだって悪戯心が芽生えてしまうのもいたし方ない。
何でもない日常の一幕だ。
「んふっ、ふふふふ」
何でもないが、居ても立ってもいられないほどむずがゆい。抑えられないにやけ顔を手のひらでぐりぐりといじめ、エルドラの後を追う。
晩餐は当然、エルドラの好きなものをたくさん用意している。
◆
長く生活をともにしてみれば、必然わかることも増えてくる。
なにが好きで、なにが嫌いか。どういったときに笑って、どういったときに泣くか。あと仕草や表情の機微から読みとれる諸々。
「…………」
食卓に着き、呆けたまま器用にフォークを操って口元に食事を運ぶ。黙々ともぐもぐと咀嚼する彼女の視線の焦点は、いまだふらふら漂ったままだ。
しかめっ面だし口数も極端に少ないけど、これは怒ってるのではなく、ただ考え事に没頭しているだけだということを知っている。これで何を考えているのかまで当てられるようになったら、エルドラ検定一級くらいにはなるのかなと思う。
かちゃ、かちゃ、とカトラリーの奏でる音楽だけが静かに流れている。
沈黙。静寂。……事実だけを列挙すると、どうにも気まずい空気が感じられるかもしれないが、そうではないことを伝えたい。今の私たちは、例えるなら、そう――
「……ん、ユウリ」
「ん? はい、これ」
「おー、ありがと」
卓上調味料のひとつを手渡す。
言葉がなくとも、その語気、雰囲気……五感の全てを総動員して察することができる、長く連れ添った熟年夫婦のそれである。
違わず正解を掴み取った達成感に、心中でふふんと胸を張っていばる。少なくとも二級はあるな。
異世界転移なるハプニングに見舞われてから激動の日々だったが、ここしばらくは本当に、本当に穏やかな毎日だ。
エルドラが王様を脅迫した物騒な出来事からもうしばらく経つが、あれ以降はずっと平和だった、
願わくば、こんな暮らしがいつまでも永遠に続いてくれたならな、と思う。
ただ――
(不謹慎かな)
あのエルドラの勇姿をもう一度見たくもある。
私の嫁は、私の為に国にだって立ち向かってくれるぞ、なんて自惚れか。未だにあの日のことを思い出すと胸がむず痒くなる。
(望みすぎちゃってるか)
決して退屈しているわけじゃあないけど、ほんの少し。ただちょっとだけ、刺激が欲しいと願うのは仕方のないことだ。
だから秘されたエルドラの企みに、期待しすぎている自分がいたのだった。
きっと、きっと刺激的な何かを用意しているはず――
「――すみませえぇん!! ごめんくださあい!!」
まどろみのようなうっとりとした思考が空から墜落する。
「こんばんはぁ、夜分遅くに失礼しますう!!」
あまりにも快活すぎる挨拶がこだましていた。
ガンガンガン、と、玄関がひしゃげるんじゃないかと思うほど豪快なノック。
突然、頬を張られたような気分だ。求めているのはこういった刺激ではない。
「だ、誰だよ、こんな時間に……!」
んぐっ、と喉を詰まらせむせていたエルドラが恨みがましく呟いた。
我が家への訪問者といえばもっぱら、友人のモニカ、様子を見にきたシドー、作りすぎた料理を差し入れてくれる村のみんな、程度のものだ。日が沈みきってから、というのも珍しい。
それに、初めて聴いた声だ。舌足らずで幼さが残る声。そしてうるさい。
「ち、ちょっと覗いてくるね」
平穏を乱されたエルドラはひどく不機嫌になる。そもそも人付き合いを苦手とする彼女の気質は、お客さまの応対には不向きだ。
背から「早く追い返してくれよ」と、半分本気の冗談を投げられつつ出向く。廊下に出てみれば、玄関の戸はノックに併せてみしみしと軋み歪んでいる……本当にひしゃげてしまいそうだ。
その豪快さに気後れしつつ、ドアノブに手をかける。
「……どちら様ですか〜……?」
そっと開くと。
「――あっ、こんばんは!!」
素早く腰を折り、お辞儀をする姿。少女である。これまたばっと素早く上げた顔には満面の笑みが浮かんでいる。
礼の勢いで頭からずれ落ちそうになったベールのようなものを慌てて直して、それからまた笑顔をこちらに向ける。ここらでは見たことのない風変わりな服装は、現代で言うシスターさんが着る修道服によく似ている。純白を基調としたローブは清廉な印象を与えるが、エルドラと同じくらいに小柄でいたいけな姿とはアンマッチだ。シスターと聞いて想像する貞淑な雰囲気はなく、とにかく溌剌とした、明るさを振りまく少女だった。
肩の辺りまで伸びた波がかった金髪を揺らし、胸を張って声を張り上げた。
「こちらに住まわれているのは――っ!!」
が、途中で言葉を切り、こちらの顔をまじまじと見つめる。四方八方、周囲を回り込むようにじっくり観察して、再び正面から向き直る。
それから懐から何か紙の束を取り出して、見比べるように紙と私に視線を往復させた。
「あ、あの……?」
「やっぱり!!」
かなりの挙動不審。どう声を掛けたらいいか逡巡していた瞬間――修道服の少女はこちらに飛びかかり、
「――お慕いしておりましたあ!! "湖の賢者"様ぁ!!」
私の肩に手を回してぎゅぎゅっと熱烈なハグをした。
「……?! え?! ち、違っ……」
誤解だ。何が何だかわからないが、強烈な誤解が生まれようとしている。
幼い子ども特有の高い体温を前面に感じながらも、背面からはひどく冷ややかな空気を察知する。
「……わ」
怒気が。先程までの不機嫌とは比べものにならない程の怒りが。
「わたしの、嫁に」
これはまずいな、と考えながらも、もうどうすることもできない。
求めていたのは、本当に、こういう刺激ではないのだけれど。
「――なにしてくれとんじゃアッ!! ボケえェッ!!」
弓矢のごとき速さで飛んできたエルドラが来訪者に鉄拳を見舞ったのは、止める間もない出来事だった。……誤解、解けたらいいけど。




