むかしのはなし 名前のない怪物
あらゆる悪意が刻まれている。
爆炎と雷轟の跡。
剣戟と破砕の痕。
肉片、死骸。
城内には、あらゆる破壊の痕跡が刻まれている。
この世で最も悍ましき悪意に充ちている。"魔王城"と云う城の、最奥である。
武勇と統率に優れたひとつの魔族が王を名乗り、その邪悪で世界を滅ぼさんとしていた。
そして邪悪なる魔王は、現在――恐怖していた。
その永い生涯ではじめて己よりも悍ましい"何か"を見たのだ。
「――貴様」
震えて、掠れている。
地平全土に名を轟かせ、全てを恐怖に陥れた魔王が恐怖している。
「何者だ」
恐ろしい"何か"は、おびただしい死骸の渦のなかにいる。
盛る炎の如き赤髪。
捻じれた一つの角。
少女である。
選りすぐりの魔族の尽くが斃れている。
戦闘とも呼べぬ一方的な殺戮があった。
その殺戮者は一切の無傷である。
尽くを打ち倒した少女は、陰鬱に呟いた。
「知らない」
後の世にて魔王を名乗る。今は、名前のない怪物である。
◆
胸中を支配するのは、退屈と絶望だけだった。
――がっかりだ。
世界を滅ぼす魔なる王。
そのような者であれば、願いを叶えてくれると信じていた。
「わ、我は魔王だぞ。ふざけるな」
山羊の頭蓋を貌とする、巨躯の魔人。あらゆる魔族を力によって従えた、世界の敵。
それが怯えている。
「貴様――!」
ぎょろりとした双眸が妖しく煌めく。魔術が奔る。
魔王を魔王たらしめている、不可避の死の魔術なのだという。
その眼から、視認できる程の膨大な魔力が迸り、大気を伝播する。
少女はそれを見て、何もしない。
はなたれた呪いが躰に入り込む。
そして――呪いが何も為さずに消えたのがわかった。
「……――!」
「……"死の魔眼"」
そのような魔術だと、伝え聞いていた。
「死を誤認させ、心の臓をとめる瞳……結局のところ、ただの精神汚染の魔術に過ぎないか」
潜在する魔力の総量に圧倒的な差があれば、その効果が発揮されることは無い。
尋常の生命であれば即死の悍ましい魔術を受けてなお、陰鬱に呟く。
「魔王なんでしょ」
この世で最も恐ろしく、強大な存在だと聞いていた。
「もうお終いじゃ、ないよね」
このようなちんけな術で終わりなんて、あり得ない。
きっと、この身を殺す何かが存在するはずだった。
「き、貴様っ――我を、侮辱するか」
怒りと恐怖に震えながら、魔王は次なる詠唱を。
大地を焦土と化す獄炎。
天空さえ穿つ雷撃。
遍く死の呪術。
千を越える魔の術を操る、恐ろしい魔王であり。
そして、その全てが無為に終わった。
あらゆる破壊が通り過ぎ――その只中に立ちながら、傷ひとつすら。
「……あり得ん。わ、我は魔王、魔王だ。全ての魔族を統べる、恐怖の象徴――」
「もういいよ」
呆然自失の魔王。それに届く距離までただ歩く。
深い退屈と絶望だけが、胸の内を満たしている。
撫でるように、魔王に触れる。それが少女にとって攻撃ですらなくとも。
「じゃあね」
◆
「……退屈だ」
いまや魔王城に棲む者はいない。
あちこちに死体が転がる血の海に寝転び、ひとりごちる。
そしておもむろに、自らの舌を嚙み千切ろうと試みる。
がり、という不快な音とともに舌に痺れが奔るが、血の一滴さえ流れてはいない。
この肉体は、己が有する暴力に耐え得るように設計されていた。ひどく、はた迷惑な話だ。
百年を数えてから、どうすれば死ねるのかだけを考え続けていた。
時節の概念を知り、既に千余年が経過している。
永い刻を経ても衰えるどころか、むしろ力は増してゆく。
望まず魔力が漲り、生命活動の維持を強制されている。
百年を飲まず食わず餓えようとも、二百年を溶岩に身を焦がそうとも、三百年を昏い海底に沈もうとも――すべての試みは失敗に終わっている。
少女は何も知らない。
己の名。己の強靭の由来。何故、己だけが規格外なのか。
ただ一匹だけ、生物としてあるべき姿から逸脱している。孤高である。そして孤独で、孤立している。
それから退屈だ。
友も仲間も何も存在しなかった。かつて少女と関わりを持った者達は、全てが不幸のうちに終わっている。
撫でるだけで殺してしまう怪物である。その恐怖を知った者は、その恐怖を言い伝える前に全員が死んでしまう。
故に、未だ名すら与えられていない、ただの怪物であった。
「うわぁ……グロ」
ふと声を聞く。気だるげに首を向ける。怪物は見る。
人である。
十も半ばの頃の女、見慣れぬ服装――遠く異界にて、"パーカー"と呼ばれていることを怪物は知らない。
凄惨な血海には似つかわしくなく、小奇麗で、戦闘者の雰囲気を持ち合わせていない。
「これ、あんたがやったの?」
「…………」
「そこに転がってるの、魔王だよね。……その、そいつに用があったんだけど」
誰だろうと、どうでもよかった。しかし一つの可能性が頭をよぎる。
魔王を訪ねてきたのだ。人の国が寄越した、魔王を討つ者――勇者かもしれなかった。
つまりは呑気な外見に反して、魔王と並ぶか、それ以上の能力があるかもしれず、ならば、もしかすると、万が一にでも、この身を殺してくれるのではないか、と。
試してみようと、剥がれた床の破片をつまむ。
「あのー……無視?」
それを指で弾く。
「――!」それと同時に、女の腹に拳大の穴がひらく。
破片は弾丸の速度で空を切り、その通過点には何も存在できない。
断末の声さえ上がらない。そのまま血をこぼしながら膝を折って倒れる。
「――ああ」
こんな程度で死ぬならば、決して勇者ではない者だったか。
その行いが過ちだったとしても、罪悪の心の欠片すら浮かばない。
怪物の性根は、邪悪で恐ろしいものであるから。
落胆に息を吐き、それで興味を失う。
退屈が紛れることもなく、次なる自殺の計画を考える。
凡庸な魔族のように、闘争に血を沸き立たせることができれば。あるいは支配や搾取に悦楽を得ることができれば。
もしそうであったなら、地獄のような退屈を味わうこともなかった。
生まれながらにして最強で、この世で最も自由な怪物。
「殺したい」と願えば殺せる。「奪いたい」と願えば奪える。
何の困難も苦境もなく、願った全てを叶えられるが故に、真に欲するものは何一つ手に入らない。
血湧き肉躍る闘争も、暴力で他を支配する愉悦も、何一つ。
この世で最も自由な怪物は、この世で最も不自由である。
怪物はもはや、死ぬためだけに生きていた。
「――っ痛あ! くっそ痛い! 何、ふざけんな?!」
思いがけずに、再び声を聞く。
「…………」
僅かばかりの驚きがあった。
腹に穴が開き死なない人間を、今までに知らなかった。
見ると、時が逆向きに進むよう、穿たれた穴に血と肉が集まり蠢いている。苦痛に歪んだ顔で、怪物をにらみつけていた。
「『ハジメマシテ』の挨拶代わりか? オオん!? こちとら伊達で不死身やってんじゃねェのよ!」
「…………」
怒りが収まらないのか、そのままぎゃあぎゃあと騒ぎ立て続ける。
怪物はそれをまじまじと見つめる。
新鮮だった。怪物は、死なない人間や恐怖しない人間に逢ったことがなかった。
知らないことは、ほんの少しだけ退屈を紛らわせてくれる。大きく身振り手振りを交えて怒りを表明するその人間を、ヘンな生物だと思った。
ひとしきり文句を吐き終えると、女は打って変わって弱々しくため息を吐き、膝を抱えるようにうずくまる。
「……魔王の、"死の魔眼"なら……ワンチャンあると思ってたのに」
「…………」
「アンタの所為だよ、責任取って」
「…………」
「……何か喋りなよ」
「…………誰?」
興味が湧いた。
このヘンな生きものは何なのか。
もしかしたら、もう少しは退屈が紛れるかもしれなかった。そのような予感がある。
「……他人に名前を訊くときは、まず自分が名乗るものよ。クソガキ」
「知らない。それで、誰」
「……阿藤遊でぇぇす。よろしくクソガキちゃぁぁん」
おちょくるように言う。露骨な挑発だが、そのようなことは気にも留めない。
「あとうあそび」
人の命名の法則としては珍しい、と思う。怪物が人と関わった時間は短いが、このような奇妙な抑揚を持つ名を聞いたことがなかった。どこか見知らぬ土地からやってきたのかもしれない。
ならば――この者は知らないだろうか。
「一つ訊ねる」
「あァん?」
怪物が生きる目的を。
「不死身を殺す術を、知っているか」
女が押し黙る。
沈黙が流れ、ついには再び頭を抱えてうずくまった。
「そんなの、アタシが知りたいよ……」
後の世に"魔王"と呼ばれる怪物と、後の世に"湖の賢者"と呼ばれる少女の邂逅である。




