26 別離
シドーの営む診療所には滅多に怪我人は来ない。村が平和な証だろう。
だから今はユウリがただ一人の傷病人ということになる。
ちゃんと医療を学んだかも怪しいヤブ野郎にはふさわしい静けさだった。
やはり暇そうにコーヒーをすするシドーを無視して階段に足をかける。ユウリに用がある。
少しばかりご機嫌を取ってやる必要がある。
主人としての務めだ。仕方のないことだった。
「おい、開けるぞ」
扉の前で一声かける、が、返事はない。それを待つのも億劫で勝手にドアノブをひねる。
ユウリはベッドに寝ていて、上半身だけを起こして窓の外を眺めていた。ちょうど、その表情が窺えない角度だ。
いるのなら返事をしろよ、と口にしかけた文句を腹のうちに封じ込める。とりあえずは目的を果たすべきだ。
「あー……ユウリ。その、なんだ」
妙に本題を切り出すのが気恥ずかしくて、言葉を濁してしまう。
「その、……さっきは怒鳴って悪かったな。まあ、先の事件も不問に、とまではいかないが、許してやらないこともない……ぞ。うん」
「…………」
聞こえなかったか何の反応もない。返事もないし、こちらを向かない……いや、この距離で聞こえてないのはおかしい。故意の無視だ。
「……おい、聞こえてるだろ」
「…………ふーん」
「ふーん、って」
なんだ、こいつ。
わざわざ、わたしが謝りに来たんだぞ?
ユウリの態度に苛立ちながら隣まで歩みを進め、その顔を覗く。……ふくれっ面だ。わざとらしいほどの不機嫌を湛えている。
「……おい、何だその顔」
「…………ふーん」
こちらと視線を合わせようともしない。ずっと同じ不機嫌のままで固まっている。
まるで、「エルドラを助けようとして仕方なくキスしたのに何で私が怒られなくちゃいけないんだ!」とでも言いたげな顔。
初めて見る表情だけど、それが分かる程度にはユウリのことを理解していた。
「……いや、だから悪かったって言ってるだろ」
「ふーん」
「……まだ足りないのか、コノヤロー……すまんすまんすまんすまん! はい、これでいいか?!」
「ふーん」
もう「ふーん」としか言わない。会話をする気がゼロだ。
何が不服なのか、ユウリの眉間のしわはむしろ深まるばかり。逆にわたしも腹が立ってくる。
これだけ謝ったんだぞ? というか、仕方なくユウリの機嫌を取りに来ただけだぞ。ここまで謝るようなことをしたか、わたしは?
イライラし始めた胸中を、口にして吐き出そうとした瞬間だった。
「…………らい」
と、ぼそりとユウリが呟く。何を言ったかは聞き取れなかった、が、何か致命的な一言だったような気がする。
聞き返そうとして、その前にユウリがもう一度口を開いた。
「きらい。エルドラなんか、大嫌い。ほっといてよ」
「は」
何か聞こえた。
たぶん「大嫌い」って言われた気がする。
かなり、何故かかなり傷ついた。
ちょっと、いやだいぶ、生まれてから初めて経験するかもしれないぐらいに胸に悲壮が満ちた。
他の四天王に勝手に死亡認定されたときの比じゃない。ユウリに殺されかけたときよりも、もっとだ。
それで、溢れた分だけ勝手にかたちになって出てきた。つまり涙だ。
自分でも不思議だった。
「あ、あれ?」
目元をいくらすくってもばらばらと零れて、そでが点々と濡れる。
胸が痛い。
ユウリが私の様子にぎょっと目を見開く。私自身ですら驚くほどなのだから、別におかしくもない。
「ご、ごめん! いまの、嘘だよ。そんなに傷つくなんて思ってなくて――」
ユウリが何かを喋ってるけど、よく分からなかった。
とにかく悲しい。それから、涙を見せるのが惨めで恥ずかしい。
とりあえず何かを言わなければならない。わたしが健在であると示す必要がある。
何か、なんでもいい。反論せねばならない。
「――……わたっ、わたしの方が嫌いなんだが?! 調子に乗るなよ、バカユウリ!?」
震えた涙声で叫ぶ。愉快なほど情けなかった。
急に大声をあげたからユウリの肩が大きく跳ねる。傷に響いたか、少し顔を歪めた。
それに気づいて、謝ろうとした瞬間だった。
ぱき、と小さな破砕が二つ鳴る。
わたしとユウリの両方向からだ。
お互いの手指あたりから。
怪訝に思う。見る。
“誓いの指輪”――わたしとユウリを繋ぐそれに、ひとつ亀裂が奔っていた。
「……うそ」と呻いたのはユウリだ。わたしは呆然としたまま何も言えない。
ひとつだった亀裂から、ひびが枝分かれする。微細な傷が円形の全体に徐々に広がり、指輪を覆いつくす。
「なんで」とユウリが呟くと同時に、指輪は砂めいた粒子になって崩れ落ちた。
お互い、薬指を見つめたまま黙り込む。
とにかく、わたしは晴れて自由の身となった。
◆
「――どういうことか、説明してもらおうか。シドー?」
「は、はい」
診療所の一階は尋問室の様相を呈している。
私とエルドラが座る机の対面には、すこし申し訳なさそうなシドーがいる。
片側の頬が赤くなっているのは、私よりも先に一階へ駆け下りていったエルドラが殴りつけたようだった。さっき、そんな悲鳴を聞いた。
「ええと、指輪が壊れちゃったんですよね。ええ、仕様です」
「は、仕様だ?」
「離れたら死ぬ指輪なんて、危ないじゃないですか」
「お前がっ! つけろって、言ったんだろうがっ!」
「え、エルドラ。落ち着いて――!」
そのままシドーに噛みつきそうな勢いで、エルドラが立ち上がる。その腕を引いてなだめる、けど、その衝撃ですこし体が痛んだ。
でも、今はそれよりも、もっと精神的な痛みがある。
「“湖の賢者”の魔具は安心設計ですよ。最初にも言ったじゃないですか」
と、シドーが淡々と告げる。
「お互い面と向かって「嫌いだ」とか「別れる」とでも言ったのでしょう? それで、離婚成立です。指輪の効果はもう消えました」
離婚。え、私とエルドラ、離婚したの?
愕然と、そんな心境のまま固まる。
またエルドラがシドーに噛みつこうとして、
「ふっ……ざけ――」
「でも、エルドラ様が復讐に来るだなんて思っている村人は、もういませんよ。よかったじゃないですか、自由になれて」
――そうだ。これがなければ、エルドラはもうここにいる理由がなくなる。
私のせいで縛り付けられていた彼女が、やっと自由になれる。それは喜ばしいことだ。
なのに、全然うれしくない。
立ち上がったままのエルドラが、そのまま俯いて黙る。
「……わたし、は……もうユウリといる必要はないってことか?」
「まあ、そうなります」
「――っシドーさん!」
今度は私まで勢いよく立って、椅子を後方へ蹴っ飛ばしてしまった。
シドーが委縮するように身を縮める。
「ええ? ……でも、事実ですから……」
「…………」
しばしの間、気まずい沈黙が流れる。
それを最初に破ったのは、エルドラだった。
「……帰る」と、ただ一言だけ呟いて歩き始める。
それを引き留めるのは、どうしてかはばかられた。
それから、エルドラが診療所に顔を出すことは無かった。
やってしまった。
私があんなことを言わなければ指輪は壊れなかった――とまで考えて、自身の卑しさに吐き気がした。
結局のところ私は自分のことしか気にしていない。
指輪さえなければエルドラは自由になれる――と、ずっとそう思っていたのに、いざ実際になってみれば醜い執着が浮き彫りになってしまった。
エルドラと離れたくない。ずっと一緒にいたい。
私がちょっとしたことでへそを曲げてしまったから。こんな些細なことがきっかけで、日常が崩れ去り――違う、まただ。
エルドラにとっては、これは日常でもなんでもなかった。無理やり縛り付けられていただけに過ぎない。
それに――彼女を泣かせてしまった。
そんなつもりはなかった。ただ、私が不機嫌であることを知ってほしかっただけだ。そう誰に告げるでもなく心の中で言い訳しても、やはり自分がいかに愚かで考えなしなのかが分かるだけで、何の慰めにもならない。
「――はい、今日の処置でだいたい完治しましたね。もう、自由に動いても大丈夫ですよ」
シドーの手から治癒術の光が消えて、そう告げられる。エルトリリスから受けた傷は治り、私は退院できるそうだ。
エルドラと最後に会ってから一週間が経つ。
彼女に謝らなければいけない。
嫌いだなんて言ったのは、嘘だ。本当は、私がエルドラを大好きだということを告げなければいけない。
そして、好きだから離れたくない、と、そう伝えなければならない。
シドーへの感謝もそこそこに、診療所から飛び出す。
目指すのは、もちろん湖の屋敷だ。私と、エルドラの家だ。
駆けて、駆けて、なまった体が悲鳴を上げて、肺が焦げるように苦しいけど、進む足を緩めることはしなかった。
鬱蒼と茂る獣道を走る。草木に足を取られつんのめる。
それで、ようやくたどり着く。
久しぶりに帰ってきた気がする。
何も変わらない、荘厳な屋敷だ。ここに彼女がいるはず。
玄関口によろめく体を突っ込ませるように扉を開ける。
「――エルドラ、……ただいまっ!」
と、言ってみても返事はない。もしかしたら、まだ怒っているのかもしれない。
どうにか許してもらえないか――そう考えていたとき、それを発見した。
居間のテーブルの上、文鎮で押さえられた紙がある。私が扉を開けた勢いで、端がひらひらと舞っている。以前にはなかった。
何か、文字が書いてあるのが見えた。
ちらと見えた文面が、はっきり読めた訳じゃないのに、何か、致命的なもののように思える。
それを勘違いだと確かめるために、その紙を手に取る。
こう記されていた。
『魔族領へ行く』
と、だけ。




