25 理不尽
エルドラがいない。
目が覚めて、まずそれに気が付いた。寝たままに横を向くと、傍に座っていたはずなのに幽霊みたいに消えていた。
それから汗が噴き出る。嫌な予感が渦を巻く。
彼女が魔力を私から欲しがったのはゴーレムを作るため。それは来るであろう敵を迎え撃つため。
じゃあエルドラがいないのは何故か、と考えると、それは自明であるように感じた。
決めつけるのは早い。彼女には私が起きるまで付き添う義理もないし、ただ何か用事でもあったのかも。それでもやはり悪い妄想は止まらない。
身を起こす。きり、と臓腑が痛んで眉をひそめた。
軋む身体を無理やり駆動させて階段を降りる。診療所の一階にはシドーがいつもと変わらぬ様子で優雅にコーヒーをすすっていた。
「し、シドーさん、エルドラは?」
「ああ、もう戻って来ていますよ。心配いりません。それよりユウリ様は安静に……一杯どうです――」
「エルドラっ!」
呑気な制止を振り切って駆ける。
彼女の身に何かあれば、それは全部私のせいだ。エルドラは私の為に戦ってくれている。私は迷惑ばかりかけているのに、エルトリリスの襲撃も、今回だって、私がいなければ起こらなかったはずだ。情けなくなって目頭がつんとする。
本当に、本当にずっと彼女に迷惑をかけてばかりいる。
外に飛び出すとすぐに目についた。広場の隅、椅子代わりの切り株に座ってうつむく誰か――銀髪に、黒いローブ。エルドラだ。
安心に胸をなでおろす。それと同時に彼女が項垂れているのが気にかかった。
もしかすると、怪我でもしたのではないか。万全でないことは確かだった。
とにかく彼女と話をしたい。
「エルドラ」
と、ただ一言呼ぶ。すると彼女は酷く怯えたように肩を震わせた。ただ声をかけただけなのに。おや、と思う。
顔を上げてこちらに向けた表情はやはり何か様子がおかしくて、怒っているような恥ずかしがっているような怖がっているような、混乱が表層に現出した、ないまぜの気持ちが見える。
「ゆ、ユウリ――!」
「どこ行ってたの。大丈夫だった?」
「ちか、近づくなっ!」
「え」
拒絶。エルドラが、そのまま切り株から転げ落ちるんじゃないかってくらい身をのけぞらせて叫んだ。
……ちょっと驚くほど衝撃を受けた自分がいる。
「な、なんで?」
獣じみて鼻息を荒げていて、もはや敵意すら感じる。
「――わたしは、ぜ、全部思い出したぞ……」
「え、えっ何を?」
「とぼけるなっ! あの、わたしが溺れた夜のことだ!」
あ。
それだけでもう、彼女が何を言っているか分かった。
エルドラが溺れた夜か。酔って騒いで、色々と滅茶苦茶だった日だ。
そっかー思い出しちゃったかー。あれやこれやの恥ずかしいやり取りとか、私のファーストあれとか。
それから、思考が固まる。身も心もフリーズする。
できる限り封じていた記憶がどかんと爆発して、それと同期して心臓も爆発した。
不幸の予兆に噴き出た汗が、今度はある意味で健康的な発汗により洗い流される。いたって健全な心がもたらした生理的現象であった。
何か言おうとして、だけど舌が渇いていて何も言えなくなっていたから、エルドラが先に口を開いた。
「……けだもの」
かなり、心にクる、棘のある言い方だ。
「ユウリはけだもの。わたしが寝てたのをいいことに勝手に“きす”した最低」
「ちょ、ちょっと待って?!」
エルドラがまぶたを細くして糾弾する。じとっ、と責める視線に耐えかねる。
弁明の機会が必要だった。彼女は勘違いしている。
「あ、あれは人工呼吸って言って、溺れた人を救助するための……――シドーさーんっ! そうですよねっ?!」
診療所を振り向くと「痴話げんかに巻き込むのはやめていただきたい」と、戸が閉まる。
このような場面でシドーはあまり役に立たない。マイペースを極めている。少しだけ、ほんの少しだけイラっとした。
「とにかく、お前は最悪だ! わたしがちょ……――っとだけ心を許してやったら、このざまだっ!」
「ちがっ……ほんとに、違くてっ、私はエルドラを助けようとして――」
「言い訳すんなコノヤローっ! 変態! 性欲女!」
駄目だ。全然聞いてくれない。そして心が折れそうだ。
というか、前は「わたしはキスとか全然気にしないけど?」みたいな態度だったじゃん。
さっきとは別のベクトルで目頭が熱くなる。さっきとは別のもやもやが渦巻く。
「とにかく、しばらくわたしに近づくなよ、本当に!」
「ちょっと待ってってば」
そう言い終える前にエルドラが素早く立ち上がり、そしてどこかへ駆けて行った。
勇者の力を喪失した私に追いすがるすべはない。
ただ立つ。
また、孤独だけを感じる。
世界にひとり取り残されたような――あながち、その表現は間違いではない。だってここは本来私のいるべき世界ではない。
でも、いまは違うだろう。エルドラがいて、シドーがモニカが村のみんながいて、なのに彼女ひとりに拒絶されただけで、かなりの喪失感がある。
いつの間にか、エルドラが私を占める割合はすくすく成長していたようで、それを喪ってから気づく。
まあ、つまり、私はとんでもなくショックを受けたみたいだった。
それから、私は少しだけ怒っていたみたいだった。
◆
あそこまでキレ散らかす予定ではなかった。
別に、ただ、少し不機嫌であることを伝えたかっただけだ。
そう、ぜんぶユウリが悪い。
いつも勝手に行動してわたしを振り回すし、今回だってわたしに許可なく――
……でも、あんな顔をさせるつもりではなかった。本当だ。
つい逃げてきてしまったが、あの表情がちらついて苛立つ。捨てられた犬みたいな、そんな悲壮の顔だった。
でも、許してやる気は毛頭ない。
わたしは魔族で、“きす”なんかでは微塵も感情は動かない。が、勝手にしていいとも言ってない。
だから、しばらくユウリとは顔を合わせたくなかった。
「つまり、お姉ちゃんはユウリさんと早く仲直りしたいってこと?」
「ぜんぜん違う。話聞いてたかモニカ?」
湖の邸宅ではユウリと鉢合わせてしまうかもしれない。そこでわたしが避難場所に選んだのは、モニカの家だった。
彼女の部屋は少女趣味が強く、非常に居心地が悪い。特に本棚からはみ出た絵巻の数々は、ちらと見えた表紙だけでも甘ったるい恋愛模様が描かれていてうんざりする。
その一つを手に取って、モニカが言った。
「それにしてもキス、って。お姉ちゃんたち、やっぱり恋人同士だったんだね」
「ぜんぜん違う! 話聞いてたか?!」
それだけは否定しなければいけなかった。
わたしとユウリはやむを得ず結婚の真似事をしているだけで、そこには何の他意もない、はず。
あいつの言い訳――わたしを助けるために、そうしたのだったら。もし本当にそうなら仕方のないことだ。むしろ彼女に――渋々ではあるが――感謝しなければならない。
だけど、あの出来事を不問にできるか、と胸に問うてみれば、否、と応えた。
どんな理由があろうと、しばらくユウリとは会いたくない。そう思った。
……最近のわたしはユウリを中心に考えすぎている。
今回だって、わざわざあいつを助けるために勇者を相手取ってやったし、そのせいで死にかけたし。それを認めたくはないが、隠然たる事実だった。
ため息を吐く。顔を手のひらで覆う。ひどく情けない格好をしていると思う。
「なあ、モニカ。わたしはどうすればいい?」
なにも具体性のない質問。だけど返事はあった。
「だから、仲直りすればいいんじゃない?」
「……なんでだよ」
「だって、嫌でしょ。ずっとこのままだったら」
確かに、と思わなくもない。
このままだと一生はんばーぐは食えないし、もやもやを抱えたままになりそうだ。
「それに」と続ける。
「愛に障害は付き物だよ、お姉ちゃん!」
モニカが、手にしていた本をこちらに押し付けるようにして渡した。つい受け取ってしまう。
既にページが開かれている。
『俺は、お前のことがずっと……――』
『馬鹿野郎っ! 俺みたいな平民と、貴族のお前が釣りあうわけ
そっと閉じる。
筋骨隆々の男と細身長身の男が見つめ合っていた。
表紙には、『愛、それは突然 著:りりす☆えーる』と。
馬鹿げた本だ。
「なんだこれ」
「む、いま一番勢いのある作家『りりす☆えーる』さんを知らないの、お姉ちゃん?」
「知るか」
本はそれなりに高価なしろものである。なのに、何がモニカをそうさせたか、彼女は多くの絵物語を保有していた。
こんな辺鄙な村なんか行商などそうそう来ないだろうに。
「つまり私が言いたいのは、素直に謝ってもやもやを解消させちゃおう、ってことだよ!」
「は? わたしが悪いって言うのか?」
「ユウリさんはお姉ちゃんを助けようとしてたんでしょ? なのに、そんなに怒っちゃ可哀そうだよ」
「…………」
そうだけども。
そもそも“きす”された程度、怒るようなことでもないとすら思う。だって、別に、減るものでもないし。
もはや意地だった。
「ユウリさんは、お姉ちゃんのこと好きだと思うけどな。理不尽に怒られちゃって、可哀そうだなー」
わざとらしく呟く。
ユウリが私を好き、というのは何となく知ってるが。わたしがご主人様であるからな。尻尾を振るのがペットの務めだ。
だから、たまには機嫌を取るのもご主人様の役目かも、と思った。
もう一度深くため息を吐く。
「……しょうがないな」
本当に。まじで。
「頑張ってね、お姉ちゃんっ!」
「私は二人の恋路を応援してるよ!」と、結局誤解は解けないままだったが、とりあえず彼女の進言を受け入れることに決める。一応、帝国民でもあるわけだし。
まったく、世話のかかる奴だ。
左手の薬指。そこにはまる指輪をなでた。




