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初恋の魔法は危険を招く~お飾り侯爵令嬢にはなりません!~  作者: 日埜和なこ


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第35話 温泉ではしゃいじゃいけません!

 共同浴場に通じる扉を開けると、湯煙りで覆われた光景が目の前に広がった。


 薄暗い浴室は石造りの遺跡のようだ。まるで舞踏会が開かれるような大広間よりも大きい。いくつものカンテラが壁や柱にかけられ、揺らめく湯煙の中を行きかう人々の様相を幻想的に照らしていた。


「ミシェル、ほらこっち!」


 私の手を引っ張ったアニーは濡れた石畳をひたひたと歩んでいくと、階段を下りていった。その先は湯船というには大きすぎる場所で、豊富なお湯で満たされていた。


 足先がじんわりとしびれる。

 階段を降りきり、石畳を進むアニーを追っていく。


「夜風も気持ちいいね!」

「ここは、外に作られてるからね」

「温泉って初めてきたけど、お湯に入るだけじゃないんだね」


 お湯に身体を沈め、ちょうど段差になっているところに腰を下ろし、あたりを見回してみた。


 広い浴場の中央には噴水のようなものがあり、そこから滾々とお湯が噴出している。その周りが丁度良くベンチのようになっていて、何人もの男女が腰を下ろして談笑している。


 広い通路沿いには石造りのテーブルセットがあり、そこでカードゲームに興じたり、酒を飲んでいる人もいた。


「ちょっとした交流の場にもなってるのは、酒場と似てるかもね。昼間は、あそこに日よけが張られるんだよ」


 長い手足を伸ばしたアニーが指さした中央の天井は、すっぽりと抜けている。そこに広がるのは満天の星空だ。

 心地よい風が頬を撫でていく。


「……綺麗」

「ムード満点でしょ? 王都にもこれくらい大きな風呂屋があっても良いと思うんだけどな」

「洗浄の魔法があるし、あまりお風呂の需要がないんじゃない?」

「まぁ、あれは便利だけどね。味気ないんだよね」

「味気ない?」

「だってさ、つまみを弾けばぱぱっと汚れがとれちゃうんだよ」


 人差し指でぴしっとお湯を弾いたアニーは、タイル貼りの淵にもたれかかると、ふうっと息を吐いた。


「便利なのはありがたいけど、そのおかげでお風呂は、温泉を売りにしている観光地か贅沢品に金をいとわない貴族階級のお屋敷にしかないなんて、世も末よ」

「アニーは本当に温泉が好きなんだね」

「まあね。始めてきたのはミシェルくらいの頃だったかな。依頼のついでにね……あー、でも、わざわざ入りに来るから、ありがたみを感じるのかも」

「でも、こんな贅沢にお湯を使っていたら、随分お金もかかるよね。宿の女将さんも維持が大変っていってたし」

「……ミシェルってさ、時々庶民っぽいこと言うよね。お貴族様はそんなこと気にしないと思ってたわ」

「そうかな?」


 ざばんっとお湯を揺らして体を起こしたアニーは大きく背伸びをした。水着からこぼれそうな豊かな胸がたゆんと揺れ、小さな波が立つ。

 つい視線を奪われてしまったことに気付いて、恥ずかしさが込み上げてきた。

 やっぱり、大きい胸に憧れはあるわけで。


 肩までお湯に使ってぶくぶくと息を吐くと、アニーが「そうよ」と言って笑った。


「ミシェルって割引券とか好きじゃない。どこの世界にケーキの割引券をもらって喜ぶお貴族様がいるのよ。没落貴族ならまだしも、マザー家ってそこそこ有名な侯爵家なのに」

「お金って湯水のように沸くわけじゃないし、節約は大切だと思うけどな」

「食べ物だって、あたし達と同じように酒場で食べるし、果物の丸かじりだって平気でするし」

「果物はもぎたてが一番美味しいんだよ」


 当然のようにいうと、アニーは一瞬きょとんとした。そうして、吹き出したかと思うと、お湯を揺らしながらけらけらと笑いだす。


「そうだった、そう! 最初にあった時も同じこといってたわ」

「最初って、素材探索の?」

「そうよ。野宿したとき、見つけた果実をローブの裾で拭いてさ。こんな小綺麗な子が、あたしと同じような食べ方するから驚いたのよ」

「あのとき笑ってたのって、そんなことだったの?」

「だって、可笑しいじゃない! お貴族様が丸かじりなんて。でも……そういうとこ、ほんと好きよ!」

「へ?」


 突然、手首を掴まれて引っ張られ、バランスを崩した私は派手な水しぶきを上げながら、アニーの胸に顔を押し付ける羽目になった。


「ちょ、ね、アニー!」

「何恥ずかしがってんのよ。ハグくらい、いつもしてんじゃない」

「そう、そうだけど!」


 だけどいつもと状況が異なる。

 ふかふかで張りのある胸の膨らみが頬に押し付けられたら、きっと誰だって焦るわよ。いくら女同士っていったって、薄い水着しか隔てるものがない状態で、こんなに密着するなんて。


「ほんと、ミシェルったら可愛いんだから」


 からかうように笑うアニーから逃れようとあがいていた時だった。頭上から「お前ら、何してんの?」と聞きなれた声が降ってきた。


 アニーの手が緩み、そのすきに離れたてほっとしながら「もうアニーったらね」と、悪ふざけをどうにかしてもらおうとして顔をあげた。瞬間、目に入った光景に言葉は全て失われた。

 

 そこにいたのは、水着姿のキースとラルフだ。勿論、声で二人だと分かっていたはずなのに、その姿を目にした瞬間、頭が真っ白になった。


 湯煙の中、惜しげもなく晒される鍛え抜かれた筋肉美。日頃、衣服に隠れて見えない整った肢体が、否が応でも視界に入ってくる。

 目のやり場に困り、ずぶずぶと湯に顔半分くらいまで沈んでいく。出来ることなら今すぐこの場から立ち去りたいくらいだった。


「他にも客がいるんだから、あまり迷惑かけちゃダメでしょ」

「アニー、ミシェルを揶揄うんじゃない」

「はいはーい。まったく過保護共が。ちょっと可愛いミシェルをハグしてただけでしょ。ね、ミシェル」


 呆れるキースと少しばかり顔をしかめているラルフに、アニーは悪びれる様子が更々ない。同意を求めるように私へ声をかけるけど、返事をする余裕はなかった。

 どうしたと異口同音に尋ねる三人の視線が、私に集まる。


「おーい、ミシェルー? そんなに潜ったら、のぼせちゃうよ?」


 アニーに頭をつんっとつつかれ、もうどうしたらいいか思い付かず、いてもたってもいられなくなった。


「部屋に戻る!」


 ザパッと派手な音を立てて立ち上がると、驚いた顔をしたキースと目があった。その肩や腕に残る裂傷の痕を、汗が伝い落ちていった。

 心臓がばくばくいっていた。


「おい、大丈夫か? 顔が赤い──」


 キースの姿を見ることが出来ず視線をそらした。そうして、大丈夫と言いかけたけど、口から声がでることはなく、目の前がぐるりとひっくり返った。


 バシャっとお湯の弾かれる音が聞こえ、私を呼ぶ声が遠退いていった。



 どのくらい時間がすぎたのだろうか。

 そよそよとした風を頬に感じて目を覚ました。天井に下がるカンテラが視界に入る。それをしばし眺めながら、浴場で気を失ったことを思い出していた。


 首を巡らせて辺りを見ると、ぽてっと音を立てて濡れタオルが目の前に落ちた。それを手にしながらごそごそと体を起こすと「目、覚めたか?」と声がかけられた。


 横を向けば、すぐ傍の籐椅子にキースが座っていた。

 彼は生成りのチュニック姿で、捲られた袖から引き締まった二の腕をこれ見よがしに晒している。それを見た瞬間、湯場で見た逞しい姿が鮮明に浮かんできた。


「まだ赤い顔してんな。アニーとはしゃぎすぎだぞ」


 すぐ傍の小さなテーブルにある水差しを手にしたキースは、グラスに注いだ果実水を注いで差し出した。


 グラスを受け取り、俯く。

 気恥ずかしさでどうにかなりそうだった。


「ゆっくり飲めよ」


 果実水を喉に流し込むと、爽やかな柑橘と香草の香りが広がった。そのおかげか、上がりかけた心拍数が少しだけ落ち着いてきた。


「……ねぇ、ここは?」

「休憩室だよ。お前、風呂場でぶっ倒れたの覚えてる?」

「覚えてるけど……」


 思い出したくないと声を上げたい気持ちをぐっと飲みこむと、キースが「本当に大丈夫か?」と、少し心配そうにな顔をした。


「もう一杯飲む?」

「ううん、大丈夫……ねぇ、アニーは?」

「ん? あそこで絶賛説教タイム中。ラルフの説教とか珍しいよな」


 キースが指さした先では、椅子に座るラルフの前で直立不動のアニーが懇々と説き伏せられていた。只ならぬ空気が漂い、他の客は遠巻きに様子を伺っている程だ。


「マーヴィンほど時間はかからないだろうし、もう少ししたら終わるだろ」

「……アニーに謝らなきゃ」

「なんで?」

「だって、そんな説教されるようなこと、何もしてないし、それに──」


 せっかく楽しんでいたのを、自分が目を回して気を失ったばかりに、こんなことになったのだ。気分を害したのではないか。そう思うと、いてもたってもいられなかった。


 立ち上がると、膝にかけてあった大判のタオルがぱさりと落ちた。

 それを拾う余裕もなく、急いでアニーとラルフの傍に歩み寄ると、二人がこちらに気付いた。


「アニー、ラルフ、ごめんなさい」

「ミシェル! もう大丈夫なの?」

「もう少し横になっていろ。まだ顔が赤いぞ」


 二人はタイミングを見計らったように安堵の息を同時につく。すると、二人が放っていたた只ならぬ空気は一瞬で消え去った。


「ラルフ、アニーは何も悪くないからね! 私が勝手に倒れたんだから。それに私も暴れたから眩暈を起こしたんだろうし……騒いだのは同罪でしょ?」

「ううむ、それは……だがな、アニーはいい大人だ。年上としてだな」


 正論を言いかけたラルフは、キースに肩を叩かれると息を吐いて「分かった」と頷いた。


「とりあえず、ミシェル。まずは着替えてこいよ」

「はい?」


 肩に、キースがもっていたタオルがかけられた。

 ふと足元に視線を落とす。一拍置いて、自身が水着のままだということに気づいて、羞恥心で全身が熱くなった。

次回、本日12時頃の更新となります


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