第33話 精一杯背伸びをしても、大人のキスにはほど遠い
キースは何も言わない。
何を考えているんだろう。もしかして「レベッカさんの胸、おっきかった」といったの、聞こえてなかったのかな。でも、彼の視線を感じる。私をじっと観察しているようだ。
薄いワンピースの胸元に手を寄せ、小声で「どうせ、ちっちゃいもん」と呟けば、キースは納得したようにああって頷いた。
頷かれるくらい、ちっちゃいのかと思うと、ずんっと気持ちが沈んだ。だけど、キースは笑って「そんなこと気にしてたの?」と訊ね返してきた。
「だ、だって……」
「デカけりゃ良いってもんでもないでしょ?」
「……そう、なの?」
「何気にしてんの、充分あるでしょ?」
キースの手が私の胸に触れた。なんの前触れもなく、悪びれもなく、武骨な指がふにっと柔肉を掴む。
「え?」
「あ、いや、これはものの弾みというか」
ぱっと手を離したキースの顔がひきつる。
暗闇に目はすっかり慣れていたようで、あたふたするキースの様子がよく見えた。
「いやらしい気持ちは欠片もないからな!」
信じろとばかりに発せられた言葉にカチンときた。
両思いだとわかってから日も浅いし、キスもまだな関係ではある。でも、ちょっとくらい、そういう気持ちを持ってくれてもいいんじゃないの!?
感情に魔力が煽られる。
魔力の陽炎が立ち上がり、暗い部屋を照らす。次いで、赤い光が一つ二つ三つと浮かび上がった。
「ちょ、ミシェル、待て! 悪かった!」
慌てて手を振り制止を促しながらキースは後ずさる。
私の魔法弾の威力は、嫌というほど知っているだろう。下手すればこの部屋など木っ端みじんになる。
「いや、ほら、悪気はないんだ。ただ、丁度手に収まるサイズも良いってことの説明をだな……待て、部屋でそれをぶっ放すのは、まずいと思うぞ!」
落ち着けと言うキースの方が、ちったも落ち着いていないじゃない。
私が「バカ」と呟くと、彼の硬直した顔が暗がりに飲まれた。
赤い魔法の輝きが消えた暗闇の中、キースに手を伸ばす。彼の腕を引き寄せ、思いっきりつま先立ちになる。そうして、彼の頬に唇を寄せた。
どっちの鼓動か分からない心音が耳に響く。
ややあって、私は魔法の灯を浮かべ、キースから手を離した。そうして、何事もなかったように振る舞って、机の上にあるランタンに魔法の灯を納めた。
ぼんやりと明るく照らされた部屋の中、床に投げ出したままの鞄を開けて中を探っていると、キースが「なぁ」と声をかけてきた。
ちらりと見ると、自分の頬に触れるキースと目があった。
「店に行ったのは、探索の協力をお願いしたかったからなの」
あえて、さっきのことには触れず、ポーティア女史から頼まれた依頼の概要書を差し出した。
キースは髪をがしがしかき乱すと、諦めたように肩をすかしてそれを手に取る。それから、私が腰を下ろしたベッド端に座って、概要書に目を通し始めた。
「遊びに行くみたいなもんだな」
「でも、私一人じゃ無理よ」
「そりゃそうだ」
「ねぇ、店の護衛は今日まででしょ? 付き合ってくれる?」
「そりゃいいけど……」
「アニーも都合付くかな?」
「多分な。ラルフもしばらく予定はないって言ってたし、声かけてみるか」
「マーヴィンはお祭りの後だから、まだ忙しいよね」
「ヴェルヌ山ならそんな大層な害獣もいないし、日数にも余裕あるから、回復は魔法薬で事足りるんじゃないか?」
「じゃあ、明日、アニーとラルフにも声かけるね」
ほっと安堵するのもつかの間。キースは手に持っていた用紙をベッドに置くと、私の髪に触れてきた。
「さっきの、可愛かったんだけど」
にやっと笑う顔が近い。すごく嬉しそうで、もう一回って今にも言い出しそうだ。
思い出すと恥ずかしさに頬が熱くなる。
頬に寄せるだけなんて、子ども騙しのキスだろう。でも、それが私の精一杯で、キースの恋人は私なんだって分かってもらいたい一心だった。
もっと大人のキスを、彼は何度もしてきたんだろうけど。
視線をそらすと、大きな手が私の頭を撫でた。
「心配するなって」
「……何が?」
「レベッカは趣味じゃない。それに」
キースを仰ぎ見ると、彼は少しくすぐったそうな顔で笑った。今まで見たことのない、穏やかで優しい顔だった。
「それに?」
「あー、いや……何でもねぇ」
「何それ。途中でやめたら気になる!」
「大したことじゃないから気にすんな」
ぽんぽんっと頭を叩いて誤魔化すキースに、ぷうっと頬を膨らませると、少し困った顔をされた。
「気になる。教えて!」
内緒って言って笑うキースはベッドから立ち上がる。そうしてさっさとドアに向かって歩きだした。それを追って、私もベッドから降りる。
「それじゃ、また明日な」
「ねえ、教えて。気になって眠れない」
「またそういうことを……」
何度か食い下がると、ドアの前で立ち止まったキースは諦めたようにため息をつく。振り返り、もう一度私を抱き締めた。
──手放す気はないって言っただろう。お前しか見えてないの気付けよ。
耳元で発せられたのは、エルフ語だった。まって、何て言ったか分からないんだけど!?
「ちゃんと、共通語で言って!」
「やーだよ! じゃ、また明日な」
そういって、額にそっと唇を寄せたキースはさっさと部屋を出ていってしまった。
何が起きたのか分からず、しばらく硬直していた私が部屋を飛び出すと、玄関から話し声がきこえてきた。慌てておりると、マルヴィナ先生がいてキースと何か話している。
「ねえ、キース!」
「先生に、ちゃんと調査に行くこと話しとけよ。じゃ、また明日な」
そういって、何事もなかったような顔でキースは帰っていった。
◇
翌日、アニーとラルフも交えて、私は『竜のしっぽ亭』で探索課題の相談をしていた。
「ハーディ滞在期間も含めて、旅費も全額学院での支払いになるから、それほど悪い話じゃないと思うの。どうかな?」
「ねぇ、せっかくだから、温泉で一、二泊くらい羽根伸ばせないかな?」
「少しくらいなら大丈夫だと思うよ」
もとより、源泉だけでなく数ヵ所の宿でも採取をしておこうと考えていたし、その間、温泉を楽しむことに異論はなかった。なんなら、私も未体験の温泉に興味があったし。
「なら、特に予定もないし良いよ」
「くそ暑い日に温泉の何が良いんだ?」
「ラルフ、分かってないわね。ハーディは美肌の湯でもあるのよ。せっかくだから、たっぷり堪能しないと!」
「美肌なぁ……」
「ハーディーには美味い酒があったし、気楽に行こうぜ」
いまいち反応の悪いラルフを見て、キースも軽く誘ってくれる。
今回の調査はあまり危険度が高くなさそうだから、前衛職はキースだけでも事足りそうではある。だけど、回復役でもあるマーヴィンが合流できそうにもないから、念には念を入れたいのよね。
私が両手を組んで「お願い」といえば、ラルフは諦めたようにため息をついた。
「まぁ、俺も予定はないから構わないが……」
「本当!? ありがとう!」
ほっと胸を撫で下ろす私の横で、ラルフは探索課題の内容が書かれた用紙に再び視線を向けた。何か気になる点があるのか、その眉間に少ししわを寄せている。
「何か気になることがあるの?」
「この概要自体に問題はないが……噂だが、ハーディの温泉が近い内に枯れると聞いてな」
小さくため息交じりに言うラルフに、私たちは目を瞬かせて異口同音に「温泉が枯れる?」と聞き返した。
「根も葉もない噂でしょ」
真っ先にアニーが笑い飛ばし、ラルフはため息をついて「どうだろうな」と呟いた。
観光で成り立つ地方都市は、夏から秋にかけてがかき入れ時になる。特にグレンウェルド国北部は雪深い地方も多く、その前に蓄えが欲しいと考えるのも自然で、この時期は地方で観光客の取り合いが起こる。だから、どこかしらで悪い噂が流れることもしばしばあるのよね。
ハーディはさほど北部に位置していないとは言え、他の観光地からみれば商売敵に代わりない。
とどのつまり、ライバル観光地が流した悪い噂なんだろう。アニーはそう笑い飛ばしたわけだ。でも、ラルフは煮え切らな様子のままで小さく唸っている。
「あながちそうでもないぞ。ヴェルヌ山周辺でヒタキドリが異常繁殖したって話もあってな」
「ヒタキドリ?」
眉を顰めるラルフを見たアニーが尋ねるのとほぼ同時に、私とキースは「ヒタキドリの大繁殖」と声をそろえて呟いた。
「ちょっと、なんで二人とも納得した顔してるのよ。ヒタキドリって、あの無害そうなちっこい鳥でしょ?」
アニーは記憶にあるヒタキドリの姿を思い浮かべたのか、不思議そうに首を傾げつつ「害獣とは思えないけど?」といった。
「別に害獣ってほどじゃないじゃないけどな」
キースの言葉に、私とラルフも頷いた。
ヒタキドリは全身が黒い羽毛で覆われ、嘴と風切り羽、尾が赤い火のような色をしている小鳥だ。日中は街中でもよく見られる鳥で、夕暮れになると集団で飛び立ち山に帰る習性がある。
鳴き声も美しく一羽だけみれば愛らしいが、集団ともなれば多少の騒音になる。さらにフン害が時おり問題となっている。とは言え、その程度では害獣とは言い切れない。
「問題は、ヒタキドリの大繁殖が、ヒクイドリの現れる前兆って言われてることなの」
「そうなの?」
「うん。街で育った人はあまり知らないけど──」
私は、学院で学んだヒタキドリの大繁殖に纏わる伝承を思い浮かべた。
その集団が空を埋め尽くすと黒い巨鳥に見えることから、ヒタキドリが空を埋めるのは不吉の象徴だと、各地で伝えられている。特に、大きな山の麓にある集落で語られることが多い。
キースは幼い頃に森で過ごしていたから、森を守るエルフ族の伝承として聞いたことがあったのかもしれない。
次回、本日21時頃の更新となります
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