大議会は躍る 1(20170514. 一部改稿)
第十八代ハウヤ帝国皇帝サウルの葬儀の二日前。
皇宮のある小高い丘の、海神宮のやや下層にある「元老院議事堂」で、「大議会」の開会が、摂政皇太女であるオドザヤ皇女によって表明され、元老院院長であるフランコ公爵が開会を宣言することとなるだろう、その日がやって来ていた。
元老院議事堂は、円形劇場に似た作りだ。
真ん中に議長でもある元老院院長が座る席があり、その周りを大理石の階段状の席が円形に取り巻く。窓は丸いドーム型の天井に近いあたりをぐるりと囲んでいる。その向こうに青い六月の空が青々と広がっているのが見えた。
昔は、その大理石の上に敷物を敷いて、直に座っていたらしいが、今では大理石の階段の上に、木製の椅子が作り付けられ、議場を囲む作りに変わっていた。形は劇場に似ているが、集まる人数では桁が違うから、議事堂の中は小ぢんまりとしている。
大議会に出席できるのは、子爵以上の貴族家の当主だ。その数は二百家以上にもなる。男爵や准男爵までを入れれば、四百家から五百家にもなるのがハウヤ帝国の貴族階級だ。
常ならば、「皇位継承」という今回の議題のような厄介な議題を扱う議会への出席を避けたがる、事なかれ主義の貴族も多かった。だが、今回ばかりは皇帝サウルの葬儀の二日前という日程である。皇帝の葬儀に参列する以上、帝都ハーマポスタールにいないという欠席理由を行使することは出来なかった。
すでに子爵から侯爵家までの当主たちが、位階や婚姻などでの家と家との親密度に応じて下の方から座っていき、ほぼ席の埋まった階段席。見渡せば、全員が略式だがそれぞれの爵位に応じた伝統的な体裁の礼服に身を包んでいた。
そこへ、満を持して現れたのは、三人の公爵たちだった。西のハーマポスタールの大公を含め、東南北の三公爵家は貴族の中でも別格である。
皇帝の弟か妹がなる大公はもちろんだが、三公爵の始祖もすべて、臣下に下った皇子だったからだ。
まず、入ってきたのは、筆頭公爵のクリストラ公爵ヘクトル、続いてこの元老院の院長である、フランコ公爵テオドロだ。
フランコ公爵テオドロは、入ってくると議事堂の真ん中の円形の場所にある、元老院院長の大机の後ろの椅子にかけた。
そして、亡くなった皇帝サウルの妹、ミルドラの降嫁先であるクリストラ公爵家の当主、ヘクトルはオドザヤが座るであろう、最上段まで上がって行く。そして、彼は摂政皇太女のオドザヤの着くだろう、張り出した、そこだけ他よりも豪奢な椅子が設えられた、すぐ下座の席に着いた。
そして、今日、その後に続いた人物の姿にこそ、その場のすべての目が集まった。
それは、彼が父親の死後、公爵家を継いだ報告にこの帝都ハーマポスタールを訪れてより、実に二十年振りに見せる姿だった。
ナポレオン・バンデラス公爵。
その姿は、その場の雰囲気と期待を考慮しても余りある、印象的な姿であった。
彼は、その時、齢三十八。
まず、その姿で目立つのは、日に焼けたと言うだけでは説明のつかない、皮膚の黒さだ。
ハーマポスタールでも、大公軍団の帝都維持部隊にいる、南方出身のサンデュ隊員のように、ネグリア大陸系の皮膚の色の暗い民が見られる。彼らは港町であるハーマポスタールでは特に皮膚の色で差別されることもなく、普通に暮らしているはずだ。
それでも、バンデラス公爵の皮膚の色は、そこに集まった他の貴族たちにはない色味だった。
珈琲色、とでも形容すべきその顔色。だが、顔立ちの方は陽気な優しい南方系ではなく、北の血を思わせる厳しい直線で構成されていた。細い鼻梁は切り立った崖のようで、眉毛の真下から落ち窪んだ眼窩の中には、鋼鉄色の目玉が埋め込まれている。鼻の下と顎のあたりに品のいい髭を蓄えていたが、それが却って険しい顔立ちを緩めている感があった。
だが、全体としてみれば、皮膚の黒さと、その鋼鉄色の目の違和感がものすごい。
そして、肩のあたりまであるまっすぐな髪も、純粋な南方系にはないものだ。青みさえ感じる漆黒の髪は、ほとんど癖のない直毛だった。
そして、背が高い。
余分な肉などひとかけらも持ち合わせてはいない、と思えるしなやかな筋肉に覆われた体は、武人であるクリストラ公爵と同じくらいの長身だった。
彼はまったく表情のない顔のまま、議事堂へ入り、どうでも良さそうなそぶりで適当な場所に座ったように見えた。だが、その座った位置は、議長でもある元老院院長フランコ公爵の真正面の後方の椅子だった。
最後に、臣下としては最高位であり、今日の議事堂の中ではオドザヤの次に身分の高い、女大公のカイエンが現れたとき。
すでに議事堂狭しと寄り集まった子爵以上の貴族当主たちは、大きくざわめいた。
それは、大公家の当主カイエンが、一人ではなく、彼女の配偶者であるシイナドラドの皇子エルネストを伴って入場してきたからだった。
見て確かめるまでもなく、カイエンも大公の身分に定められた通りの、黒に近い濃い紫の地の礼服に身を包んでいた。エルネストの方は、これはシイナドラド人であることを周りに意識づけたかったこともあり、シイナドラド皇子の略式礼装姿だ。カイエンだけが知っていたが、その意匠はあの、陰鬱なシイナドラドの首都ホヤ・デ・セレンの陰気な皇王宮の、黒っぽい尖塔を思わせるものだった。
カイエンたち二人の様子を見て、顔色を曇らせ、舌打ちしたのは、モリーナ侯爵とモンドラゴン子爵の二人だった。
もっとも、彼ら二人の様子をはっきりと目にできたのは、彼らの周りを取り囲んだ、今度の「大議会」召集を署名を集めて請願した一党だけであっただろう。
「……しおらしい様子を作りおって。噂の火消しのためだろうが、小賢しいことですな」
モンドラゴン子爵は、モリーナ侯爵の耳元で言うなり、秀でた額に青筋を立てた。
彼らの目の前で、大公カイエンはエルネストの手を借りて、一番上のオドザヤがこれから座るであろう特別な場所の、そのすぐ横の、これまた公爵までの貴族のものとは違う豪奢な天鵞絨張りの席に着いた。エルネストも横の同じような椅子にかける。
続いて、この日最後の入場者が入り口から現れる。
摂政皇太女のオドザヤは、宰相サヴォナローラと大将軍エミリオ・ザラを後ろに、議事堂の階段状になった席の一番奥の、そこだけ区切られた席に座った。
もっとも、こうして彼女が現れたのは、摂政皇太女として大議会に臨席し、儀礼に基づいてその開会を表明する言葉を発するためで、議決権は臣下である大公のカイエン以下の貴族たちにしかない。
ザラ大将軍は子爵家の子息だが、彼自身は爵位を持たない。皇帝サウルからは何度も男爵の内示を受けたが、彼はそれを断り続けたのだ。
宰相のサヴォナローラに至っては平民である。だから、宰相と大将軍の二人は着席することなく、オドザヤの臨席する左右に立った。
ザラ大将軍の兄、ヴィクトル・ザラ子爵はクリストラ公爵のそばに座っていた。
クリストラ公爵のそばには、主に帝国の東側に領地を持つ貴族たちが多く陣取っている。ハウヤ帝国の東側は、ベアトリアとの国境紛争の矢面に立たされていたこともあり、連帯が強かった。その中には、元老院院長のフランコ公爵の妻、デボラ夫人の実家である、カレスティア侯爵家の当主の姿もあった。
つまりは、すでにして、座った場所からして議事堂の中にはっきりと二つの勢力があり、別れて位置取っていることが、オドザヤの席からははっきりと見て取れた。
彼女の女帝即位を支持する勢力の中心に座っておるのは、大公カイエンとクリストラ公爵で、その反対側に陣取っているのが、モリーナ侯爵たちだ。
サウルに、「オドザヤを支えるもの」の六人として選ばれた、フランコ公爵は院長だから、基本的には討議には加わらない。
そして、クリストラ公爵夫人のミルドラには、この場所に出てくる権利がなかった。
そうした中で、皆がその動向を注視していたのは、帝国南部の覇者、ナポレオン・バンデラス公爵だったが、彼は無表情のまま、二つの陣営の真ん中、議長の正面の上の方の席を選んで座っていた。
それは、身分を考えてもおかしくなく、どちらの陣営でもないと暗に主張しているような席の取り方だった。
「さすがですね」
オドザヤの後ろでサヴォナローラが呟く。その声は、オドザヤとカイエン、そしてザラ大将軍とエルネストにしか聞こえなかっただろう。
「バンデラス公爵。……お若い頃に公爵家を継承なさった時にお姿を拝見したが、お年を召されて、研ぎ澄まされた感じだな。まあ、今は中立だと主張なさっておられるのだろう。予想はしていたが、厄介なことにならなければよいが……」
サヴォナローラに答えたのは、ザラ大将軍だった。
「ええ。ご納得しないでは、お済ましにはなりますまいね」
サヴォナローラはそっとうなずくと、緊張した面持ちでそっと議事堂の中を見回す。
宰相や大将軍であるサヴォナローラとザラ将軍は、オドザヤの後見としてここにいるから、オドザヤの代弁者として意見を言うことは可能だった。だが、その身分が、貴族院であるこの元老院にそぐわない者たちであることは確かだ。
オドザヤは賢明にも、視線をあちこちにさ迷わせたりはせず、美しい顔に微笑みさえ浮かべて、静かに座っていた。
ところで。
オドザヤが後見として、サヴォナローラとザラ大将軍を連れてきたのを見ても分かるように、カイエンがエルネストを連れてきたのは、別に異例のことではなかった。
オドザヤがサヴォナローラとザラ大将軍を後見として、入場してきたのと、理由としては同じなのである。
貴族の当主には、数は非常に少ないが女性の当主もいないではないし、父親に死なれた成人前の子供が当主である場合もある。そうした場合には「後見人」として夫や年長の後見人を同伴することが許されているのである。
もっとも、成人前の子供はともかく、女性当主の場合のみ後見人の同伴を許可するとは、カイエンに言わせれば、
(前時代的な規則だよなあ)
と、言うことになる。
実は、エルネストを連れてくるまでには、大公宮でも一悶着あったのだ。
「どうしても、あの皇子を伴われるとおっしゃいますか」
カイエンが大議会にエルネストを連れていく、と言うと、思っていた通り、ヴァイロンは反対した。言葉には出さなかったが、ヴァイロンの後ろでアキノやサグラチカ、それに教授までもが心配そうに顔を並べていた。そんな中で、ガラ一人は、何も言わずにどこかへ出かけて行った。恐らくは兄のサヴォナローラに何か命じられたことでもあったのだろう。
「うん。これは賭けなのだが、シイナドラドはこちら側についていると、はっきり見せるのは効果的だと思うんだ」
エルネスト自体は、カイエンに命ぜられると、
「はいはい、わかりましたご主人様」
と、この頃カイエンを呼ぶ時の彼らしい皮肉を込めた言い方である、「ご主人様」までつけて快諾し、ヘルマンを引き連れ、後宮に下がって行ってしまった。
「それにしても……。あの皇子が殿下の意に沿わぬ発言でもしたらどうなさいますか。殿下はご結婚のおりの結婚契約書のことがあるから大丈夫だとおっしゃいますが」
ヴァイロンにとっては、エルネストはまったく信用できない存在なのだろう。カイエンにはヴァイロンの気持ちもよくわかった。彼女とて、エルネストのそばにはあまり寄りたくない。忌まわしい事実と記憶は、忘れようもなく彼らの中に沈殿したままなのだ。
それでも、もう大公として、そしてサウルに託された星の指輪を持つものとして、カイエンは公人として動かなければならなかった。
「モリーナ侯爵やモンドラゴン子爵たちが、女帝に反対しているのには、ハウヤ帝国の今までの歴史にはない、女系相続を恐れてのこともあるんだ。まあ、建前はそうなんだが、その下には『女の支配者を戴きたくない』って気持ちも、あるんじゃないかと思うんだよ」
カイエンがそう言うと、もうヴァイロンにはカイエンの言いたいことが分かったらしい。それでも、彼の中の男がカイエンの決定に逆らった。
「……それはそうでしょう。ですが、そのためにあの皇子を後見人のようにしてお連れになると言うのは……」
そこまで言うと、ヴァイロンはぐっと唇を噛み締めた。自分が代わりに行くと言いたくとも、彼の身分ではそれは無理なことなのだ。
「まあ、こんなことは茶番なんだが、『夫をたてる妻』を演じておけば、多少、奴らには『生意気』に見えることを言ったりしたりしても、噛みつかれにくいんじゃないかな」
カイエンがそう言うと、ヴァイロンの横からこの時初めてアキノが口を挟んできた。
「殿下、それは相手方にもすぐにわかってしまうのでは……?」
カイエンは椅子の上で、ぐいっと伸びをして見せた。
「分かってもいいさ。大議会では、奴らだけでなく、その他大勢のお貴族どもも観客なんだ。結婚式の後に変な噂をばらまかれただろう? あれの火消しも出来れば一石二鳥だと思うんだよ」
カイエンの結婚後にばらまかれた噂というのは、カイエンの後宮周りのことで、愛人にうつつを抜かしたカイエンは、結婚式も簡単に済ませてしまい、正式な夫であるシイナドラドの皇子をないがしろにしているらしい、というものだった。
カイエンにそこまで言われると、もう、ヴァイロンもアキノも黙っているしかなかった。確かに、今、そして、これからの大公カイエンの醜聞はよろしくなかった。オドザヤの妹であるリリを引き取ったことによって、明らかにオドザヤ摂政皇太女側と見なされているカイエンは盤石の態勢でいる必要があったのだ。
「それでは、摂政皇太女、オドザヤ第一皇女殿下に、大議会開会のお言葉をいただきます」
オドザヤが席に着いたのを見届けると、フランコ公爵は議事堂真ん中の大理石の床の上に立った。
途端に、それまでざわめいていた貴族たちは静まり返る。そして、最上段でオドザヤが立ち上がると、大公のカイエン以下、皆がオドザヤの方を向いて右手を胸元に掲げ、礼をとった。
「元老院院長から、定数を満たした署名と共に上申された議案を受けとったとの報告を受けた。それゆえ、即日、ここに元老院大議会を開会したいとのこと。聞き届けるものである」
オドザヤは、サウルの葬儀の準備で寝る暇もないほどの忙しさの中だっただろう。それでも、彼女の美しい顔には疲れの影さえも見えなかった。いや、実のところでは心労と激務でかなり痩せてしまっていたのだが、それさえもオドザヤほどの美貌にかかれば儚さが増し、憂いを帯びて見えるのだ。
彼女は、儀礼的な言葉を淀みなく言うと、静かに席につく。
それを見届けて、フランコ公爵はすっと息を吸い込んだ。
彼はこの元老院の世襲の院長として、それなりに弁舌を振るってきた。だが、それは今回のような国家の大事に関わることではなかった。皇帝サウルの御世では、元老院とは名ばかりの機関で、政治的な影響力は皆無に等しい中での議論だったからだ。
だが。
今日この日。皇帝サウルの死後、摂政皇太女オドザヤ皇女の言葉で開会される、これからの一幕は違う。これは、その結果如何ではこれ以降の元老院の立ち位置、そしてハウヤ帝国の国政を誰が中心となって担うのか、その力関係の綱引きの始まりなのだ。
「なんだあれ? 緊張してガチガチじゃねえか。大丈夫なのか、あの公爵様」
カイエンの横に、形だけは畏まって座っているエルネストが、そっとカイエンだけに聞こえる声で言う。その言い方はいかにも無責任で、カイエンを苛立たせた。
「……今日は真面目にやれ」
カイエンが、議事堂の中央に一人立つ、フランコ公爵を見下ろしながら呟くと、横から大げさなため息が聞こえてきた。
「はいはい。ご主人様」
カイエンは子供の頃、サグラチカによく、
「はい、は一回でございますよ。二回言うものではございません」
とたしなめられたものだが、シイナドラドの皇王家では違うらしい。
イラっとしたカイエンが、立ったまま、黙って左足でエルネストの足を踏んづけた時だ。
「摂政皇太女殿下の御臨席を賜り、ここにハウヤ帝国元老院、大議会を開会するものであります!」
フランコ公爵テオドロは短く、そう宣言すると、静かに足を運んで議長席に戻り、座り直した。同時に、大公のカイエン以下の貴族どもが席に着く。
二百あまりの子爵家以上の貴族家の当主たちもまた、静かに席に着いた。
それを確かめてから、フランコ公爵はモリーナ侯爵たちの出してきた「署名付きの皇位継承に関する大議会召集請願書」について説明し始めた。
フランコ公爵は、時折、クリストラ公爵やカイエンたちの方に目をやってきたが、庶兄であるモリーナ侯爵たちの方は一瞥さえしようとしない。
オドザヤを支える者としてサウルに指定された六人の中に、自分という者が入っていることを承知の上で、オドザヤの女帝即位に待ったをかけようとする腹違いの兄との間には、深い溝がありそうだった。
それは、普段穏やかなフランコ公爵らしくなかったが、どの家でも多かれ少なかれ、こういう軋轢は存在するのだろう。
フランコ公爵は、「大議会召集請願書」を読み進めていく。
その内容は、やはり、皇帝サウルの意志を受け、皇位継承の典範を改正して誕生した摂政皇太女とはいえ、皇女のオドザヤを女帝にするより、フロレンティーノ皇子が生まれたからには、いくら幼くとも皇子を皇帝として立てるべきだという内容だった。
周到なのは、フロレンティーノ皇子が成人するまでは、引き続きオドザヤを摂政に立ててもいい、と書いてあることだった。もちろん、それはフロレンティーノ皇子の母親が、ベアトリア王女のマグダレーナであることで起きてくる、ベアトリア王国からの干渉を心配する当然の声を黙らせるためだろう。
「ふうん」
カイエンは眉間にしわを寄せた。
オドザヤと共に、サウルの臨終の席で皇帝の証である、「星と太陽の指輪」を受け取った以上、カイエンはモリーナ侯爵たちの唱える未来を受け入れるわけにはいかないのだ。
「へぇえ」
横でエルネストが面白そうに呟くのが聞こえる。ここへ連れてくるに当たって、カイエンはエルネストにも、「星と太陽の指輪」のことを含め、一通りのことは話してあった。
カイエンが無意識に、鎖で首から胸元に下げている星の指輪を、礼服の上からそっと左手で掴んだ時だ。
「だめだよ。大事なものがそこにあるのがバレちまう」
カイエンはエルネストに左手を上から掴まれて、心底びっくりした。
結婚式の時にカイエンがエルネストの襟首を取って締め上げたことはあった。しかし、シイナドラドの国境で別れてから、エルネストが大公宮へやって来てからも、エルネストの方から手を伸ばしてくるようなことは無かったからだ。もっとも、それはカイエンの周囲が彼を近づけなかったからでもあったが。
カイエンは反射的に振り払おうとしたが、より強い力で上から押さえられてしまう。
そのエルネストの掌の熱は、まだ彼女を諦めていないと告げているようだった。
「仲良しのいい夫婦を演じるんだろう? 顔色を変えなかったのは上出来だが、帝国の重鎮様ならもっとどっしり構えてないとな」
「言ってろ!」
虫酸が走る思いを、必死で押さえつけ、カイエンはフランコ公爵の言葉に集中しようとした。
フランコ公爵は、モリーナたちの提出した「大議会召集請願書」を読み終わり、円形の議長席から立ち上がっていた。
彼はもう落ち着いた様子で、円形の議事堂を埋め尽くす貴族たちの中央を、ゆっくりと円形に回り始めた。
「……この請願書に添えられていた署名の数は、六十九です。……この元老院議員である、子爵以上の家の数の、ほぼ三分の一であります。それにより、本日の大議会の開催に至ったものであります」
六十九。
カイエンたちはもう、フランコ公爵から聞いて知っていたが、改めて聞いてみれば、その数は大きかった。
子爵家以上の貴族家の数が二百あまり。その中の六十九である。微妙ながらも、三分の一は満たしているのだ。
だが、一方でそれは子爵以上の貴族の社会の中での数だ。裕福な商人や、軍人から成り上がった男爵、准男爵、それに一般市民までを見てみれば、平民出身の皇后の娘である、オドザヤの人気は不動のものだった。
「本日は、この大議会にて、元老院としての見解を示すべく、お集まりいただきました」
フランコ公爵はそう言うと、はっしと自分の庶兄であるモリーナ侯爵の方を凝視した。
「もとより、サウル皇帝陛下のご遺志は、はっきりしております。皇帝陛下は第一皇女であられるオドザヤ様を立太子なさり、ご病気に倒れられてからは摂政皇太女となさいました。このご遺志に反対する、このような請願は本来、意味をなさないものであります」
ここまで言うと、フランコ公爵はちょっと間を置いた。
「ですが、ここにこの元老院の議会召集の規則があります。議員定員の三分の一以上の署名を集めた議会召集の請願には無条件で従う、と言うものです」
階段席に座った貴族たちからは、咳一つ聞こえてこない。皆が、固唾を飲んで待っているのだ。
「ですから、このように元老院大議会は召集されました。……皇帝陛下のご遺言に歯向かうような議論は、ありえないことです。それでも、こうして請願書の署名が六十九ある以上、元老院としては貴兄ら議員諸君のご意見だけは明らかにする義務があるでしょう」
カイエンは今まで、フランコ公爵テオドロが「弁舌の士」であると言う評判は眉唾ものだと思っていた。だが、この時、彼女は潔くその評価を改めた。
ここにも馬鹿正直がいたのである。
二人ともに、融通の利かない性格ではなかったが、基本的に貴族にあるまじき馬鹿正直、馬鹿真面目な性格であるだけに、カイエンには瞬時にテオドロの気持ちが、その公平さを貫こうとい姿勢が見えた。
「うわ。……この国、おかしいぞ。馬鹿正直があんた以外にも雄叫んでいやがら」
ここまできて、カイエンはやっと、エルネストのやろうとしている役割が見えてきた。傲慢不遜な変態野郎ではあるが、こうした公的な場所でのカイエンの心情の代弁者にはなり得るらしい。代わりに悪態を吐いてくれるから、カイエン自身は喚かずに済むわけだ。
「それでは、この請願書の求める議案に関して、ご意見のおありになる方は、挙手を願います」
そう言うと、フランコ公爵は顔を伏せた。しかし、議長の大机の向こうの自分の席には座らない。その様子には、「来るなら来やがれ」とでも言うべきクソ度胸が見えた。
しばらくの間、議事堂の中は静けさに包まれた。
明らかにモリーナ侯爵は請願書の筆頭として、そこにフロレンティーノ皇子派として立ち上がるのを迷っていたのである。この大議会で、フロレンティーノ皇子派として認知されてしまえば、もうその位置からは動けなくなる。今まで、政治的な立ち回りなどしたことのない侯爵家の当主としては勇気のいることだったのだろう。
だが、ぎらぎらとした目をオドザヤやカイエンの方へ向け、すっくと手を上げて立ち上がった時、モリーナ侯爵フィデルにもう迷いはなかった。
彼がハウヤ帝国の歴史に登場したのは、この瞬間のことである。
「フィデル・モリーナ侯爵、どうぞ」
元老院院長として、テオドロ・フランコ公爵の名前が歴史書に刻まれることになったのも、実は今、この瞬間の出来事ゆえであった。
それは、空色の目の色以外は、あまり似たところのなかったこの異母兄弟が、はっきりと対決した瞬間だったのだ。
「うむ。……私ももちろん、サウル皇帝陛下のご遺志に反対するなどありえないことだ。だが、ここに一つ、確認致さねばならぬことがある」
言い始めると、もうモリーナ侯爵は迷いを捨てた。その言葉は重々しく、落ち着き払って聞こえたのだ。
「諸君、サウル皇帝陛下が、そこにおられるオドザヤ皇女殿下を立太子なさったのは、フロレンティーノ皇子のご誕生の前のことだ。……そうですな、議長」
モリーナ侯爵はそれなりに狡猾だった。彼は元老院院長で、今の議論の議長である異母弟の意向を伺って来たのだ。
フランコ公爵は、議長としてあくまで公平にうなずいてみせた。
「と、なれば、この皇位継承の問題はフロレンティーノ皇子殿下のご誕生の後に変わっていると考えるべきではないのかな?」
「異議あり」
その声は低く、だが確実にそこに集まった人々の耳へ届いた。
そして、その声の主は、議長であるフランコ公爵の言葉を待たずに立ち上がっていた。
だが、その無礼を咎めるものはいない。この場所で、彼女よりも上位者なのは臨席しているオドザヤ摂政皇太女、ただ一人だったからだ。
「フランコ公爵、発言を許可願いたい」
カイエンは後付けではあったが、フランコ公爵に発言の許可を求めるのを忘れなかった。この場面で、身分を嵩にきた傲慢な女だと思われるのは非常に具合が悪い。
「はっ。ハーマポスタール大公殿下のお言葉を承ります」
フランコ公爵の言葉遣いは、先ほど、彼の異母兄の発言を許した時とはまったく違っている。
なるほど。
カイエンは心の中で自分を戒めた。
自分は、元老院院長で公爵であるフランコ公爵にそれほどの敬語を遣わせる身分なのだと。
「私は皇帝陛下のご臨終の枕頭で、しかとご遺言のお言葉を賜っておる。皇帝陛下のお考えはご臨終のその時まで、変わられなかった。……それをしかと確認した上で、私はハーマポスタール大公として、オドザヤ摂政皇太女殿下の御即位を支持するものである」
カイエンはなるべく簡潔な言葉で、一気に、しかしゆっくりとした無感情な口調で言ってのけた。
実のところ、今日この場所にやって来たカイエンの言うべきことはこの一言だけだった。これ以上の言葉は探しても存在しないのだ。
だが。
モリーナ侯爵は別の意味で狡猾だった。
彼は、カイエンの言うだろう言葉など、とっくに予想していた。実際には、この大議会の落とし所までも決めてきていたのだろう。その上でこの大議会で悶着を起こすことを意図して来たのだ。
それは、自分の名前を今後のハウヤ帝国の政治に関わるものとして、積極的に残してきたいという欲望の表れだったのだろう。
「大公殿下には、帝国に紛うことなき貴婦人であらせられながらも、本日もそのような男のような装い、お労しいことです。お体もお丈夫ではないと伺っております。……その上に女性の身で皇位継承にお関わりになるなど、誠に、おいたわしく、臣下として申し訳ない事ですな。このようなことは、あってはならん事でありましょう。女性であられる大公殿下のお心を煩わせずに済むよう、我ら上位貴族が力を傾けねばなりません」
モリーナ侯爵は、もう、遠慮などかなぐり捨てたようだった。その口から出て来た言葉は、カイエンの先ほどの発言自体を無視して、弱い女の出しゃばりである、と暗に馬鹿にするものだった。
その上で、自分たち上位貴族が、女の大公、平民宰相の宰相府、爵位のない元帥府の長、大将軍、の代わりとして、国を動かしてく基盤を作ろうとしているのだ。
カイエンが普段、大公軍団の制服に身を包んでいること、足が不自由なためもあって、裾を引く貴婦人のドレスを避けていることは有名だ。だから、モリーナ侯爵はそんなことは承知の上で言っているのだろう。つまりは、女の言うことなど、はなから聞く価値がないと言っているのと同じだ。
「……対して、摂政皇太女殿下はさすがであられる。地味なお召し物ながらも、女神のような美貌は女神も霞むほどです。その女神のようなお姿を持って、フロレンティーノ皇子殿下を優しい姉君として、後見なされることこそ、帝国の未来には必要であろうかと愚考いたします」
続けてモリーナの口から飛び出てきた言葉を聞くと、それまでうっすらと微笑みを浮かべて聞いていたオドザヤの顔が凍りついた。
(優しい姉として後見する)
これは、摂政としての政治的な権限など与えない、と言っているのだ。
オドザヤにとって、自分はともかく、大公として帝都の治安を預かってきたカイエンの発言全体を無視して繰り出された、モリーナの発言は捨て置くことのできないものだった。
「っッ!」
何か言おうと、腰を浮かしかけた彼女を、サヴォナローラがそっと抑えた。
その時だった。
すうっと。
公爵の略式礼装に包まれた腕が、議事堂のど真ん中。中立を体現したような場所からすっくと上がったのは。
フランコ公爵は、一瞬、戸惑ったようだったが、すぐにその挙手に応じた。
「……ナポレオン・バンデラス公爵、どうぞ」
円形に座った貴族たちの中。
どちらの陣営にも属さぬと、その座った位置で表明していた、ハウヤ帝国南方の覇者が立ち上がっていた。
「……私がこのハーマポスタールに来るのは、十数年振りになる。頻繁に上ってくるには、我が領地はあまりに遠い南方なのでね。しかし、偉大なるサウル皇帝陛下のご葬儀となれば、帝国の南を預かる臣下としてサウル皇帝陛下に、最後のお別れをしないわけにはいかぬ。それゆえに今度は遠い道を急いで参ったのだ」
バンデラス公爵の声は、低く、そして軋むような声音だったので、その言葉の意味が周知されるまでにはやや、時間がかかった。
「だが、来た早々、こうして大議会なんぞに引っ張り出されるとは思ってもいなかった」
バンデラス公爵はまるで愚痴るように言う。
「まあ、諸兄の言いたいことはわかった。だが……」
そして。
それに続いて飛び出して来た音葉は、そこにいた皆の度肝を抜いた。
「そこに御臨席の、オドザヤ皇女殿下はサウル皇帝の決めた皇太子で、摂政皇太女であられるのだな? 間違いないか。フロレンティーノ皇子とやらの誕生以降も、皇帝陛下はそれを公式に、お変えになることはなかったのだろう? それに、男だか女だか知らないが、そこの大公殿下は間違いなくハーマポスタールの大公殿下で、諸兄もそれは認めているのだろう。……そして、大公殿下はサウル皇帝陛下のご臨終の枕頭で、ご遺言をお聞きになっておられる……と。ならば、議論はいらんのではないかな」
バンデラス侯爵は面倒臭そうに、オドザヤの方を見上げた。
「我々は、ただ、そこの摂政皇太女殿下のご意志に従えばよろしいのではないか? それが帝国の秩序というものではないのかね」
カイエンの横で、エルネストが心底、面白そうに身をよじった。
「こりゃあ、たまげたぜ。……今度は馬鹿正直仮面のご登場だ。こいつは一筋縄じゃあいかねえわ。あんな顔であんな口調で話すような男が、単純な馬鹿真面目なものか。……真面目どころか、心の中じゃあ、何を目指してやって来たのか知れたもんじゃねえ」
エルネストの感想を聞くまでもなく。
カイエンはバンデラス公爵の珈琲色の顔を見ながら、胴震いする思いだった。
ここに、この元老院大議会で華々しく登場した、南方から来た男の意志は計り知れない。恐るるべきは、彼の欲するこのハウヤ帝国の未来の姿だ。
「すごいのが出て来たな」
カイエンはエルネストに向かって、うなずいた。
そうだ。議論などいらない。
今日からこの国は、誰や彼やの欲する未来がざわめく巷になるのだろう。
大議会はもうちょっと続きます。
バンデラス公爵、こんな人になりました。




