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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第四話 枯葉
106/220

皇帝サウルの遺言


 それは、「青い天空の塔」修道院での虐殺事件と、頼 國仁の自殺が発見された日のすぐ後。

 夜中に近い時刻。場所は、皇宮にもほど近い高台の広大な屋敷の一室でのこと。

 そこは、フィデル・モリーナ侯爵邸。

 現当主はフランコ公爵家の庶出の長子で、先代のモリーナ侯爵の娘と婚姻し、養子に入った。つまり、フィデルは現元老院長であるテオドロ・フランコ公爵の庶兄に当たる人物である。

 文人肌で線が細く、金茶色の髪に空色の優しい目をした弟のフランコ公爵と、この庶兄であるモリーナ侯爵はあまり似ていない。

 フィデル・モリーナはもう四十に近い年頃だろう。やや太り肉で、茶色の髪は少し後頭部が薄くなってきている。顔つきは尊大を絵に描いたようで、弟と似ているのは空色の目だけだが、その目も、落ちくぼんだ眼窩の中で、狡猾そうに眇められていることが多かった。

「……ガルダメス伯爵は怖気づいたのかも知れんな。シイナドラドでは鎖国の中、密かに行なっていた密貿易の責任者だったとかいう話だが、所詮はやり手の商人でしかなかったと言うことか……。皇子の方が大公宮へ取り込まれてしまっては、一人では判断がつかない男だったのだろう」

 モリーナ侯爵は、やってこないシイナドラドの大使、ニコラス・ガルダメスのことはひとまず諦めることにしたらしい。

 フィデル・モリーナ侯爵は手に取ったグラスの中身を一息に空けると、今は火の入っていない暖炉の前から、お客たちの座っているソファの方へゆっくりと歩み寄った。

 暖炉は黒大理石で囲まれ、壁紙も黒っぽい地に金色と銀色で獅子の文様が描かれたものだ。モリーナ侯爵を含めて四人の男たちが座ったソファとテーブルも、テーブルの天板は黒大理石、ソファの張り地は柔らかい牛革のようだった。そこは金のかかった部屋で、そして夜の会合に向いた部屋だったと言えるだろう。

「それでも、シイナドラドとの約定なしでは動きづらい……。ベアトリアの向こうには、カリスマ皇女が王太女に立てられ、今やこのハウヤ帝国の属国そのものに落ちたネファールがあるのですよ。シイナドラドが皇太女や大公の側に完全に付いてしまったら、厄介なことになります」

 顔つきはにこやかだが、皮肉な口ぶりで答えたのは、ベアトリア大使のナザリオ・モンテサント伯爵だった。彼は第三妾妃のマグダレーナの最初の婚姻での降嫁先であるサクラーティ公爵家の次男である。彼には、マグダレーナの産んだ息子が成人するまで、暫定的にサクラーティ公爵を継承する可能性もあった。

「それは難しいと思いますよ。モンテサント伯爵様。……シイナドラドでは今後、我が螺旋帝国が密かに助力しております『開国派』が決起いたしましょう。彼の国では、もともと庶民と、皇王一族を中心とした貴族階級で明らかに民族が違っておるとか。ガルダメス伯爵はお顔を見ても分かる通りの皇王一族に連なる『皇王派』。皇王バウティスタが、エルネスト皇子殿下をこのハウヤ帝国に婿入りさせたのは、もしも『開国派』が政権を揺るがせても、皇統を絶やさないためかと存じます。首尾よく『開国派』が政権を握れば、シイナドラドとベアトリアに挟まれたネファールなど、風前の灯のような存在です」

 恐ろしい内容を、静かな声でさらりと言ってのけたのは、一人だけ東洋風の衣装をまとった、髭のない男。

 それは螺旋帝国の新王朝、「青」から派遣されてきた外交大使のシュ 路陽ロヨウだった。

「その、『開国派』だの『皇王派』だのってのは、本当の話なんだろうね? 彼の国の内情はあなたの言っている言葉以外には何の証拠もない。だから、ガルダメス伯爵にはそのあたりの事情を遠回しにでも確かめたかったのだが……」

 疑り深げに言ったのは、冷たい白皙の親衛隊隊長のウリセス・モンドラゴン子爵。

 親衛隊隊長の職にある彼だが、さすがにこの夜は親衛隊員の臙脂色の制服姿ではない。地味だが貴族らしい、装飾された長い上着とシャツ、それに細身のズボンの姿である。

 この会合の主役である、この屋敷の主でもあるモリーナ侯爵はそこまで聞いていて、我慢ができなくなったらしい。

「ネファールのことは置いておいても、一日も早く、フロレンティーノ皇子殿下に御即位いただき、このハウヤ帝国に正しい皇帝陛下を戴かなくてはならない、と言うことではここに集まった我々の利害は一致しておる! そうであろう?」

 がしゃり、とモリーナ侯爵の持っていた酒のグラスがテーブルに乱暴に置かれると、モンドラゴン子爵はともかく、ベアトリアのモンテサント伯爵と、螺旋帝国の朱 路陽は顔を見合わせた。

「もちろんですよ、モリーナ侯爵。我らベアトリアは国境紛争に破れ、戦後処理の一環として、すでに降嫁して私の兄との間に二人の子まで生したマグダレーナ様を妾妃などに召し上げられたのです。だが、マグダレーナ様は立派な皇子殿下をお産みになりました。これは我が国にとりましても万々歳なことでございます。フロレンティーノ皇子殿下に御即位いただければ、我がベアトリアとこのハウヤ帝国はいわば兄弟。両国のの関係は安泰になるのですから」

 ベアトリアのモンテサントがそう言えば、螺旋帝国の朱 路陽も言う。

「恐れながら、故サウル皇帝陛下には、我が螺旋帝国の旧王朝「冬」から亡命して参った皇女を第四妾妃にと仰せになりました。幸い、子を孕むこともなく、哀れにも癲狂し、皇后暗殺を企てましたとか。まあ、このことはもうどうでもいいことになりました。……我が螺旋帝国といたしましては、もう十八にもおなりの、それも皇女殿下が女帝にお立ちになることなどよりも、新王朝「青」より皇女のお嫁入りも可能となる、フロレンティーノ皇子殿下の御即位を願っておりますこと、寸分の間違いもございません。東と西の大国が手を取り合ってこそ、このパナメリゴ大陸の安寧が築かれましょうぞ」

 朱 路陽は、かつて皇帝サウルの前に呼び出された時の殊勝な態度が嘘のように、わざとらしいほど大仰な言い回しで、大きな事を言ってのける。

「新王朝の皇帝には、まだ御子はおありでないと聞いておりましたが……」

 それへ、遠慮がちに親衛隊長のモンドラゴンが口を挟むと、朱 路陽はここぞとばかりに口元を綻ばせた。

「いえいえ、それは先年までのこと。我が皇帝陛下におかれましては、すでに皇子皇女がご誕生なされてございます」

「なるほど。それで螺旋帝国はこちら側に組したいと言うことですか。その上にシイナドラドの『開国派』に手を貸して……とは、悪どいことですな」

 ベアトリアのモンテサント伯爵は一応、納得したような顔をした。ベアトリアとしては、マグダレーナのフロレンティーノ皇子をハウヤ帝国の皇帝に即位させ、シイナドラドとの間にあるネファールを手中にできれば、遠い螺旋帝国のことなどは二の次だとでも思っているのだろう。

「まあよい。……そもそも、あなた方の腹のうちは見え透いておるわ。我らに組みするのも、所詮はおのれの国のためであろう」

 苦々しく、モリーナ侯爵は吐き捨てた。彼とても、ベアトリアや螺旋帝国に自分の国を自由にさせるつもりで、フロレンティーノの即位を推している訳ではなかった。彼にも彼なりの「愛国心」とでも言えるものは、あった。

 そのために、外国人どもの思惑を利用することも厭わないと言うだけだ。それは、死せるサウル皇帝に言わせれば、

「身内の争いごとに、新たな敵を外部から招き入れるなど、愚かな上にも愚か。歴史に学ぶことを知らぬ、世間知らずで自分勝手な振る舞い」

 でしかなかったが、本人は自分の愛国心を疑ってなどいなかった。彼としては、ベアトリアや螺旋帝国の大使などはおのれの駒として扱えると、たかをくくっているのかも知れない。

 モリーナ侯爵の傲慢な言い方を聞いても、ベアトリアの大使も、螺旋帝国の大使も、表情一つ変えはしなかった。この旧態依然とした貴族の考えは、今のところ、彼らにとってはとても都合のいい未来へ繋がっていたからだ。

「まったく。そもそも、サウル皇帝陛下はあまりにも元老院、いや、我ら貴族の意見をないがしろにしておいでだった」

 話を元に戻すように、モリーナ侯爵は言い、大仰にため息をついた。

「後継のいない家を取り潰して皇帝直轄領を増やし、その収益を戦争に回して領土を広げ、広げた領土は直轄領になさってしまわれた。その戦争には平民出身の軍人を取り立ててな。そして、ついには平民の神官風情を宰相になさった。それだけでも業腹であるのに、農民への税負担を減らして小作を減らし、豪農を細分化させ、地方領主の実入りを減らして勢力を削いだ。一方で商人への徴税は増やされたが、海軍の創設と増強で航路を拓き、南方との遠方貿易を活性化したこと、それに国境紛争での紛争景気で、商人どもは逆に潤ってしまった。……結局、損をしたのは我ら貴族だけではないか!」

 そこまで言うと、モリーナ侯爵は、一度、息をついだ。

「その上にだ! 皇位継承の典範を改正してまで、あの平民皇后腹のオドザヤ皇女を女帝に即位させることを勝手に決めておしまいになった。その補佐に指名したのは、これもまた、たった二十歳の女大公に、平民宰相、子爵家の妾腹の大将軍、それにご自分の妹夫婦だ!」

 そこまで言って、モリーナ侯爵はさすがに口をつぐんだ。

 オドザヤを助けるよう指名された六人目は、彼の腹違いの弟だったからだ。だが、すぐに額に青筋を立てて、彼は吼えた。

「それに、それにだ! 事もあろうに、あのテオドロのやつをご指名になった。兄である私を追い出して、フランコ公爵家を乗っ取った、あのテオドロめを!」

 これには、モンドラゴンも、モンテサントも朱 路陽も、なだめ顔にならざるを得なかった。

「まあまあ。皇帝陛下にしてみれば、貴族をまとめる元老院は抑えておきたかったのでございましょう。フランコ公爵は弁舌の士ではありますが、政治的には無害な方ですから」

「皇太女の立太子も、摂政のことも、皇帝陛下のご遺言に、どなたも真っ向からの意義は申し立てられませんでした。せいぜい、世論を刺激してはみましたが……それほどの効果はありませんでしたな」

 世論を操作とは、カイエンや、サウルとミルドラの醜聞を流したことなのだろう。

「それはそれとして、これからも出来うるすべは、試してみようではありませんか」

 三人がそれぞれに慰めるのを、モリーナ侯爵は手を上げて抑えた。彼とても、肉親のことゆえの激昂であることは意識していたのだ。

「もとより、女だてらに後宮に怪しい男どもを蓄えている、あの、見かけによらない男狂いの大公や、実の兄をたぶらかしたとかいうクリストラ公爵夫人はともかく、あの神官宰相や、オドザヤ皇女に関しては付け入る隙もない。忌々しいほど綺麗なものだ。でっち上げたとしても、すべてが嘘では真実味に欠けるわ。ザラ大将軍への将軍たちの信頼も今のところ、一名をのぞけば、揺るぎない。特に大公のシイナドラド行きに随行したフィエロアルマのコロンボ将軍は、完全に大公の陣営に組していると聞く」

 冷静に情勢を言葉にすると、モリーナ侯爵は自分の空っぽのグラスへ、琥珀色の蒸留酒を自分で注いだ。

「とにかく、元老院議員と、爵位のある貴族ども、それにザラのやり方に不満のある将軍なりを一人でも多く、こちら側につかせないとな」

 そして、やっと建設的な意見が彼から出ると、皆がぞろりとうなずいた。

「多数派工作ですな。……まあ、女帝即位は止められなくとも、それに反対する者がどれくらい出てくるかは、今後の為にも重要です」

 まとめるように言ったのは、親衛隊のモンドラゴンだった。

「……宰相の方はどうだ? 親衛隊の警護を受けられなくなり、神殿から武装神官を呼び寄せたとか聞いているが」

 モリーナ侯爵が聞くと、モンドラゴンはにやりと笑った。

「かなり参っていますよ。……毒殺を恐れて、びくびくしています。調理された料理も食べられず、飲み水もいちいち調べさせて、哀れなものですよ」

 確かに、サヴォナローラは飲み水の汲み上げから武装神官に確認させるようになっていたから、この言葉に間違いはなかった。

「それはいいな。気力体力を削られれば、あの悪魔のような頭の冴えにも曇りが出ようて」

 満足そうにモリーナ侯爵が言うと、他の三人はそれには異存ないようだった。

 やがて。

 それぞれに利害のある貴族に働きかけることを約して、会合はお開きとなった。


 外国人のモンテサント伯爵と、朱 路陽が去ったのち。

 モンドラゴン子爵だけは部屋に残った。彼には一つだけ確かめたいことがあったのだ。

「ところで、侯爵様」

「なんだ?」

 モリーナ侯爵はもう、グラスを傾けようとはせず、物憂げに返答した。すでに時刻は真夜中から明け方に差し掛かっている。

「バンデラス公爵様は、皇帝陛下のご葬儀にいらっしゃるのですか?」

 モンドラゴンの口から出た、意外な人物の名前に、モリーナ侯爵ははっとして即座に答えた。

「それは……もう、さすがにご出発にはなっておられよう。だが、あの方ばかりは、人を人とも思わんようなサウル皇帝陛下でも手出しが出来なんだ方だからな。海軍の創設も、モンテネグロより南、ネグリア大陸との交易も、あの方が帝国の南部を完全に掌握しておられねば成り立たなかったことだ。そして、あの方はもう二十年も皇帝陛下の召喚にも応じず、モンテネグロのご領地に留まっておられる」

 不思議なことに、同じ公爵を語っているのに、モリーナ侯爵はこのバンデラス公爵に対してだけは言葉遣いが改まっているようだ。

「他の筋からも、今度の皇帝陛下のご葬儀には間違いなく、いらっしゃるだろうと聞いておりますが……」

「ああ。それは間違いない。さすがに皇帝陛下の葬儀と、皇位継承についてはあの方でも無視できないと言うことだ。もう後、半月だ。そろそろ、ハーマポスタールに入られるだろう。あの方がどう出られるか、それも我らのはかりごとには影響しような。だが、今考えても仕方がない。あの方は……誰の思惑にも左右されない方だ」

 さすがのモリーナ侯爵の声にも、先ほどまでの勢いはなかった。

「……ナポレオン・バンデラス公爵。家柄としては、皇子を始祖に持つクリストラ公爵家とフランコ公爵家、二大公爵家の下だが、実質的な領地の広さ、そこから上がる収益を考えれば、大公をもしのぐ実力をお持ちの方だからな」

 ナポレオン・バンデラス公爵。

 その名前を口にした時ばかりは、それまで不遜な態度に終始していたモリーナ侯爵の声がやや震えていた。

「サウル皇帝陛下も、あの方を意のままに動かすことはほとんどお出来にならなかった。恐ろしい方だよ。あの方がどちらにつくかで、今度の皇位継承も違ってくる。これだけは間違いないことだな」

 だが、同じ名前を、カイエンもまた、これからの情勢を左右するものとして、サウルから聞いていたとは、彼らには思い至りもしないことだった。








 話は少し戻る。

 カイエンたちは、頼 國仁の自殺した現場にいた。

 頼 國仁の遺体は、士官学校の研究室の床に敷かれた毛布の上に寝かされ、穏やかに眠りについていた。

 カイエンはそのそばに、マテオ・ソーサとともに床に膝をついて、その死に顔を眺めた。

 恐らくは、彼の後半生はアルウィンによって引き摺り回されたものだった。だが、今、ここで死んでいる彼の顔には無念の表情はない。

 そう、思いたいだけなのかもしれない。カイエンはそうも思った。

 今、カイエンの手には頼 國仁が残した、鮮やかな青緑色の螺旋帝国渡りの翡翠を彫刻して作られ、銀で縁取りされたペンダントがある。事件性はないと判断されたので、このハウヤ帝国に家族もいなければ、弟子であった 子昂シゴウもいなくなった頼 國仁の遺品として、持って帰ることになったのだ。

 そして、マテオ・ソーサの腕の中には、あの本があった。

 失われた水平線。

 この本は、カイエンもマテオ・ソーサも、この頼 國仁先生にもらって読み、そして今も大公宮の自分の書棚に持っている。

 だから、この部屋に遺された本は、三冊目だ。

 そして、カイエンもマテオ・ソーサも意見は同じだったが、この本が一番読み古されていた。頼 國仁が最初に手に入れて読んだのは、カイエンや教授に与えた本ではなく、この本なのであろう。

「おんなじ本が三冊もあるってえの? それも、この螺旋帝国の先生が殿下やせんせーに、わざわざ読めってくれたんだって? それは変だねえ。これもカンなんだけど、なんかあるよ、その本に。……でもそれさあ、俺たちじゃ調べられないから、持って帰って、殿下とせんせーで調べてみてよ」

 イリヤはそう言って、本を教授に渡したのだ。確かに、螺旋文字で書かれた本だから、イリヤたちには調査できない。

「まー、なんで馬 子昂が持って行っちゃわなかったのかはわかんないけど、遺書とか遺言書とかのない自殺だからね。机の正確にど真ん中に置いてあったし、それが遺書の代わりなんじゃないかなぁ」

 遺書か。

 カイエンはその言葉から、自然に、皇帝サウルが彼女宛に残した遺言書を思い出していた。 

 カイエンが、あの日、サヴォナローラから受け取ったサウルの遺言書は分厚い紙の束だった。

 その中には、事細かに様々な事柄についての言及があったのだが、カイエンが特に印象深く読んだのは、もちろん、サウルとアルウィン、それにアイーシャの過去のくだりだった。




「……カイエン。

 私はお前の父親が嫌いだった。それはもう、あれが生まれて来てすぐに持った感情と言ってもいいだろう。

 子供の頃は、アルウィンの方が何事もよく出来て、家庭教師や侍従たちの受けもよかったからでもある。それでも、母のファナはいくらあいつが優秀でも、侍従や女官たちの受けが良くとも、そんなことは眼中になかった。子供の頃の私にとっては、それだけが救いとなっていた。だからあの母の言いなりになっていたのだろう。

 私の父のレアンドロ皇帝という方は、自分が妾妃に産ませた子供たちが、一人残らずファナによって殺されても、眉毛一つ動かさなかった男だ。そもそも、あの方は自分の子などに興味はなかった。

 レアンドロにとって、シイナドラドの血の濃い、私たち三人だけが自分の子として認知されうるに足る存在だった。そして、その中では長子の私が無事に次の皇帝になれればそれでよかったのだ。

 少年時代になると、私とアルウィンの仲はもう完全にいけなかった。

 あいつは私の名前を呼ばなくなった。ミルドラのことは馴れ馴れしく、「ミルドラ姉さん」などと下々のような呼び方で呼んでいたが、私に対しては主語抜きで話すようになった。

 まあ、これに関してはあれにも少しだけだが、同情する。その頃、前述の通り、私とミルドラはファナにそそのかされて兄妹にあるまじき状態に陥っていたからだ。

 あいつが下町で遊ぶようになり、皇宮であまり姿を見なくなった頃、皇帝レアンドロに先立って叔父のグラシアノ大公が亡くなった。

 今になって思えば、グラシアノ叔父の死にも不審な面があるのかもしれぬ。そしてその後、数年にして、父も母も相次いで亡くなったのだ。すべてがアルウィンの仕業だとしても、私は驚かない。

 大公になってもあいつの下町遊びは治らず、二十歳をいくつか過ぎた時には、とうとう、下町の貧乏官吏の娘と結婚したいと言い出した。

 これには、父よりもファナが反対した。これまで無視してきた末っ子とはいえ、シイナドラドの皇女だったファナには、平民の嫁など考えることも出来なかったのだろう。

 だが。

 いきり立つファナを抑えたのは、以外にも父の皇帝レアンドロだった。おそらくはアルウィンが巧妙に手を回したのだろう。

 アルウィンとアイーシャの結婚式は、地味だが正式に行われ、彼らは傍目には幸福の絶頂にある若夫婦に見えた。

 それが、一瞬で崩壊したのは、カイエン、お前がこの世に生まれてきたときだ。

 難産の末。月足らずでもないのに、小さく痩せて。産声さえあげることなく、半分死んで生まれてきたお前の腰には、醜い「瘤」があった。蟲というものは宿主の体内で成長するものではないそうだから、今では目立たなくなっていることだろう。だが、小さな赤子の体のそれはいかにも醜く、そしてなんとも不気味だったことだろう。

 これを見て、アイーシャは錯乱したが、アルウィンは狂喜した。

 今になって思えば、カイエン、お前の髪の色や目の色の持つ意味にも、あいつは気がついていたのだろう。

 この瞬間から、アルウィンの心はアイーシャから永遠に離れてしまった。カイエン、お前だけを独善的に愛するようになったのだ。

 そして、アイーシャは一人、使用人や世間の陰口に晒されて心が壊れ始めた。そしてその壊れた心に、あの醜い侍女、ジョランダが強い酒を注ぎ込んだのだ。


 しばらくして、大公夫婦は皇宮へ挨拶に来た。そして、あれは月明かりの明るい、晩餐会のあとのことだった。まだ庭に椿カメリアの真っ赤な花が見えた頃だ。

 私は、皇宮の中庭の隅で、真っ赤なドレスにほつれた黄金の髪をまとわせて、踊り狂うアイーシャを「見た」。

 子供を一人、産んだとはいえ、まだ十六、七の娘だ。それが狂女のように、満月の下をゆらりゆらりと揺れながら舞い踊っていた。

 もしかしたら、あれを「演出」したのもアルウィンのやつだったのかも知れない。

 真っ赤な椿カメリアの落ちた花々を、真っ赤なドレスの裾で踏みつけながら、アイーシャは意識を飛ばすほどの酒に溺れて歌っていたよ。

 その歌は知らない。きっと、下町で流行っていた歌だったのだろう。 

 ふらふらと、よく見れば片手に青い酒壜を振り下げたまま、アイーシャは踊るような足取りで私に近づき……。

 そして、真っ赤な椿カメリアの絨毯の上に倒れた。

 その後のことはもう、聞かなくても知っているだろう。

 

 カイエンよ。それからずっと、私はあの大嫌いな弟の掌の上にいた皇帝だった。

 この国を富ませるため、領土を広げるため、文化を栄させるために行った政策は全部、私のした仕事だ。それだけは、あいつにやらされたことではない。だから、今、そしてこれからも、あいつは私のやった仕事の結果には迷惑し続けるだろう。ざまをみろだ。

 カイエン、お前はあまりにもアルウィンに似ていた。だから、十五で大公になって顔を見せた時、私はお前はアルウィンの傀儡だと信じ込んでしまった。お前のやることの裏にはすべてアルウィンの意思があるのだと、そう思い込んでしまったのだ。

 だが、そうではないということは、一年もしないうちに気がついた。

 お前はアルウィンとは中身がまるで違っていた。生真面目でまっすぐだが、実は感情の激しいお前の性格は、アイーシャの方に似ていたのだろう。そしてお前もまた、アルウィンの被害者だったのだ。アイーシャのように。

 アイーシャはもう、救えない。あれはもう十年以上も前に壊れたままだ。だが、お前は違う。

 それに気がついた頃には、もう、私には後継の皇子が生まれないだろう、生まれたとしても、私の生きているうちには成人できないだろうこともわかっていた。皇女であるオドザヤを立てるしかないであろうことが。

 だから、私はお前を「形だけの大公」にしておくことは出来なかった。母親を同じくする、オドザヤの姉のお前にしか、後の事を託すことはできないと知ったからだ。

 幸運にも、私はアルウィンの桔梗館の子供達の中から引っ張り上げて来た、内閣大学士のサヴォナローラが使えることに気がついた。アルウィンの呪いの力とはいえ、お前に忠誠を誓うことになるだろうあいつを、宰相として縛っておけば、あれはお前たちのために働くだろう。

 それでも、あれは身内ではない。オドザヤに従う理由もない。あれが従うとしたら、それはお前にだけだ。

 だから。サヴォナローラを使うにも、カイエン、お前に早く一人前になってもらうしかなかったのだ。

 

 カイエンよ。

 オドザヤはお前の妹だ。そして、リリエンスールもそうだ。

 お前がリリエンスールを引き取ると言ってくれた時、私は電撃に、脳天から足の先までを撃ち抜かれたような気がしたものだ。

 嗚呼、お前たちには見えるのだ。感じられるのだ。本能的に守るべきものがわかるのだと、その時、私は初めて心の底から理解出来たのだ。

 生真面目で薄汚れたところのないお前に、攻撃は似合わない。だが、しなければならない時が来たら、迷ってはいけない。迷わずに相手を粉砕せよ。これは、オドザヤへの遺言にも書いた。あの娘もまた、生真面目でまっすぐなところはお前にそっくりだからな。

 お前たちが守るべきものが危うくなったら、その時に考えねばならないのは、お前たちの中にいる、守り、守られる者たちのことだぞ。

 お前たちは女だ。だから、きっと私の死後には、あの、旧態依然としたやつら。身内の争いごとに、新たな敵を外部から招き入れる、愚かな上にも愚かで歴史に学ぶことを知らぬ、世間知らずで自分勝手な振る舞いを平然としてしまう輩から攻撃されるだろう。だが、三人なら強い風に押されても、簡単に転ぶことはない。

 私が皇帝として行って来たことは、すべてお前たちの時代には潰えるのかもしれない。それでもいい。それでも、お前たちを女帝に、そして大公、次代大公の地位に据えたからには、賢明なるこの国の人々はお前たちを正面に立てて、自分たちの守るべきものを守ろうとするだろう。

 それにはお前たちが女である方がいいのだ。体の内側に、いくらでも世界を抱き、守ることができる国の母たる存在となれ。

 星と太陽の指輪が、もとより二つに別れるようになっていたこと。それは恐らく、この私の死後の混乱の時代のためなのだろう。では、何世代も前にもう、このことは予測されていたのかもしれぬ。

 恐れるな。

 怯むな。 

 人々と時代の声を聞け。

 そうすれば、お前たちは最後まで歩いていける。敵からお前たちの大切な人々を、街を、守れるだろう。

 人々の生きる場所を守り、山河を街を美しいままに残していくことができるだろう……」

 

 だが。


 カイエンはそこまで思い出して、その後に続いていた、サウルの言葉を脳裏に浮かべてから、そっと身震いした。

 そこまでのサウルの文面は、病を押して書いたものにしては流麗な筆運びだったのだ。

 だが。

 そこから先は、休み休み、考え考え書いたと思しき、インクの滲んだ重たい筆跡だった。



「お前たちの敵に回る者共が誰かは、もう、死にゆく私にはわかっている。だが、ここには書くまい。書かずともすぐに明らかになるであろうから。それは、直接的にはあのアルウィンではない。

 そうなのだ。アルウィンではないのだ。

 あやつは触媒でしかない。あれ自体は変化しないのだ。

 だが、あいつに操られた者たちが、お前たちの前に立ちふさがるだろう。だが、それとても私はお前たちなら打ち倒して行けると信じている。

 だが。

 ここに、アルウィンとはなんの関係もない、アルウィンには操れなかった者たちもいる。

 彼らはどっちに組みするかわからない。

 一人は、螺旋帝国の新しい皇帝だ。

 ヒョウ 革偉カクイ

 あれの即位までの過程、革命とやらにはアルウィンも関わっているのだろう。だが、彼には間違いなく彼だけの意志がある。これは、同じ帝王としての私の勘だ。彼の意志は誰にも左右することはできない。

 同じように、我が帝国の中にも、私にもアルウィンにもその意志を左右できなかった存在がいる。

 この名前は、オドザヤにもカイエン、お前にも伝えておくことにする。

 その名は、ナポレオン・バンデラス公爵。ハウヤ帝国の南方を支配する男の名だ。

 お前もオドザヤも、会ったことはない。あやつはもう二十年もハーマポスタールには登ってこなかったからだ。

 だが、私の葬儀には顔を出すだろう。これだけは間違いない。あいつは見にくる。オドザヤとお前と、そしてそれに対峙する勢力の者共の顔を見物しに来るはずだ。

 あいつはこのハーマポスタールや、他の土地など欲しいとは思っていまい。おそらくはな。

 あいつに関しては、私は何もお前たちに伝えることが出来ない。それは、あいつとはほとんど会ったこともなく、あいつの求める物もわからなかったからだ。

 あいつは、ハウヤ帝国皇帝の私には手を出さなかった。だが、これからは、わからない。

 注意せよ。これは、サヴォナローラにもザラにも、オドザヤにも、ヘクトルにも、そしてテオドロにも書き記した。

 ああ。もう時間がない。私は去らねばならない……」

 

 そこから先は、繰言のように何度も同じことが書かれており、カイエンはサウルの心を思うと、堪らなくなったものだ。





 その日、頼 國仁の研究室から大公宮へ戻ると、すぐにカイエンはエルネストとイリヤを通じて、シイナドラドのガルダメス伯爵へ接触を図った。イリヤは元スライゴ公爵邸、今はシイナドラド公邸の執事に化けている親衛隊員の弱みを握っており、それを通じて「盾」の頭としてエルネストにも接触していた。その人脈を使ったのだ。

「そいつの弱みってなんだ?」

 カイエンはとりあえず、イリヤに聞いてはみたが、イリヤの答えを聞くと、露骨に顔をしかめずにはいられなかった。

 それでも、そうして接触してみると、ガルダメスはいくつかの条件を提示してきた。顔はシイナドラド皇王家に連なる顔立ちだが、性情は自分の利に聡い商人のものだった。シイナドラドの親や親戚のことよりも、自分の利益を優先する男だったわけだ。

 ニコラス・ガルダメスは、自分の求めた報酬が認められると、あっけなくオドザヤの即位に反対する勢力として集まっている有力な人々の名前を、簡単に吐いた。こちら側につく条件の中には、シイナドラド公邸から親衛隊員を取り除くことも入っていた。だから、イリヤの息のかかった親衛隊員の執事によって、シイナドラド公邸の親衛隊員が化けていた召使いたちは解雇され、屋敷を追い出された。くだんの執事自身も、親衛隊に辞表を出し、改めてシイナドラド大使公邸に直接に雇われることとなった。

 カイエンは早速に、この事をサヴォナローラに報告したが、その頃には「青い天空の塔」修道院の虐殺事件も周知のこととなっており、彼らの日常は多忙を極めた。

 

 ナポレオン・バンデラス公爵が、帝都ハーマポスタールの、もう十年以上も放置されていた、彼の屋敷に入ったのは、それから一週間ほど後のことだった。

 

 

 どどっと話が進んで来ました。

 ハウヤ帝国の東西南北を領地にしている、最後の一人、南のバンデラス公爵が、名前のみですが出て来ました。

 ナポレオンという名前は、多分伝統的なスペイン語圏の名前ではないですが、前にスペイン語圏で知り合った人に、ナポレオンさんがいたので、使いました。どんな人かは……今後、ゆっくりと。


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