青い空の虐殺
今日
あなたは死んだ
あなたは消えた
命がこの青い世界から
切り離されて飛び去って
だから
青よ
青
真実あおいものよ
ここを永遠に去るこの魂を
暗黒に任すことなく
清め給え
真っ青に……
青一色に塗り込めたまえ
ただの一つ色に
染め上げて
空と海と川と湖と
これから先も
隔てられることがないように
アル・アアシャー 「青よ青く青に」
「嫌だねえ、こんな断崖絶壁の崖っぷち。こんなところじゃなくても修行くらいできそうなもんだよねえ。こんなところじゃなきゃあ、できないってところでもう、そんな修行はダメな修行だと、僕は思うなあ」
アルウィンは、例の、もう顔に貼りついたような微笑の浮かんだ口元を歪めて言い放った。
それは、カイエンの馬車と街道で衝突しそうになった、あの夜の翌日の早朝だった。
西の大海はまだ暗いが、背後の丘の上の空には紫色から暗い臙脂、そしてオレンジの光が見えてきている。もっとも、五月とはいえ、この日の朝は冷え込んだため、あたりは薄い霧に包まれていた。
そこまで来るには、ハーマポスタールから馬車なら半日近くかかるであろう。アルウィン達のいるのは、港や砂浜の途切れた断崖絶壁の真上に建設された、アストロナータ神教の修道院の前だった。
修道院の後ろはすぐ海だから、叩き寄せる波の音と、潮の香りが濃い。潮の香りはハーマポスタールの港とは違って、磯臭かった。
そこは、「青い天空の塔」修道院と呼ばれている場所の前だった。
「青い天空の塔」修道院の奥にある修道場は、海へ突き出した断崖の岩の中に作られたもので、入るのも出るのも崖に沿った獣道のような岩道しかない、という世間からは全く隔離された場所にある。
修道院の主たる建物は、田舎の神殿と同じような規模の正面部分の、石造りの素朴な建物だ。それでも民家三階建てくらいの高さはあるだろう。それは、いかにも修道院という名前に相応しい、飾り気も素っ気もない建物だった。
修道院の前の広場からも、入口の奥、おそらくは建物の中央にそびえているのであろう、修道院の名の由来である、青い、四角い側面を持った塔が見える。その高さはかなりのもので、「天空の塔」と呼ぶに相応しいものだった。これほどの高さの塔は、帝都ハーマポスタールにもそうそうはないだろう。
だが、それゆえに石造りの素朴な修道院の中では、そこだけが周りと浮いた印象を受ける。
帝都ハーマポスタールから続く街道を、ひたすらに逃走してきたアルウィン一味。実質的な指揮官のグスマンは、街道沿いの番所にはすでに大公軍団からの連絡が行っていることを予想していた。
だから、アルウィン達はかなり早い段階で街道から外れ、乗っていた黒い小型の馬車を捨てて、民家の厩に隠していた馬に乗り換えていた。
元大公殿下とはいっても、カイエンと違ってアルウィンはちゃんと馬にも乗れたから、いつまでも馬車にこだわる必要もなかったのである。
途中で他の仲間も合流し、彼らは早くも国から国へと商品を運ぶ、隊商のような体に装っていた。
どうして、そんな彼ら一党が、この「青い天空の塔」修道院へなどやってきたのか。
「なるほどね。確かに青い塔が建ってるね。きれいなモザイクだ。昔の修行僧どもが焼いたっていうタイルが貼られているんだそうだね……。でも、修行場はあっちの断崖絶壁に貼りついてるみたいな、うねうねした建物の方なんだろう?」
修道院の正面、やや広い広場を形成している、灰色の石畳の上に立っているアルウィンが聞くと、自分とアルウィンの馬を部下に預けて戻ってきたグスマンは無表情のまま、暁の色に染まりつつある空を見上げた。二人とも、旅行用の革の地味なコートを身にまとい、同じ革のつばのある帽子を被っている。その姿はもう、旅の商人としか見えなかった。
「そうですよ。陶器の色タイルの方は、この修道院の収入源としてずっと作られて来たそうですが。……これからはわかりませんね」
グスマンの言い方はちょっと変だった。
これからはわかりませんね。それはまるで、これからは出来なくなることを知っているかのような言葉だ。
そして。
修道院もまた、変だった。
そこはアストロナータ神官たちの修行場だ。いつもなら、夜明けとともに動き出すはずの場所なのに。
それが、静まり返っていた。
「静かだねえ」
アルウィンたちが、かつかつと靴音を立てて近づいても、修道院の中からはなんの反応もなかった。
「チェマリ」
東の丘の上から射してくる朝日を背中に、黙って修道院の入り口に佇むアルウィンへ、グスマンは中へ入るように促した。だが、アルウィンは慎重だった。
「待って。星辰を連れてきて」
グスマンはアルウィンの言葉を聞くと、すぐに部下に合図した。
やがて、一人の螺旋帝国人らしい男に連れられて、暗い色の生地だけは上等そうな衣服をまとった女が引き連れられてきた。
それは、皇帝サウルの崩御のどざくさに紛れて後宮から逃された、螺旋帝国の先の王朝、「冬」の皇女で、第四妾妃の星辰だった。彼女はアルウィンやグスマンがハーマポスタールにいる間、あのアイリス館に匿われていたのだ。
そして、星辰を連れて出てきたのは、あの、カイエンの元家庭教師だった、頼 國仁の門人の、馬 子昂だった。宰相サヴォナローラによって頼 國仁と共に、士官学校の教官として留め置かれていたはずの男だった。
と、言うことは、皇帝サウルの死で混乱する後宮から、星辰を逃したのは馬 子昂たちだったということだろう。
「アルウィンさまぁ」
星辰はグスマンの手から飛び出すと、子供のような仕草でアルウィンの腕にしがみつく。その姿は、さすがに半年以上もの後宮での軟禁生活で、やつれ果てて見えた。
「ああ、ああ。君にも世話をかけたねえ」
アルウィンの星辰への言葉は、昨夜のカイエンとの会話の時と比べれば、投げやりな、どうでもいいような口調だったが、そんなことは星辰にはわからない。
「ひどいわ。ずっと放りっぱなしで。もうあのままあの後宮から出られないと思っていたのよ!」
「そうだね。でも、何しろ君は失敗しちゃったからねえ」
グスマンはアルウィンの言いように、苦笑を漏らした。失敗せずにアイーシャを殺していたとしたら、彼女はもう生きてはいなかっただろうから。
「怒ってるのぅ?」
星辰は舌ったらずに聞いてきたが、アルウィンはもう相手にしなかった。
「いいんだ、いいんだよ。君にはどうせ無理なことだった。アイーシャを殺せるとは期待してなかったよ。ベアトリアも巻き込んでやろうと思って、カンタレラも仕込んでみたけれど、第三妾妃様は、上手くいなしてしまったようだし」
「ひどぉい」
「ちょっとでも面白い化学反応があるかと思って、君をサウルの後宮に入れてみたんだけど、無駄だったね。まあ、しょうがないよ。サウルは君にきっちり三ヶ月の間、手をつけなかったんだろ? そのまま君はマグダレーナとは違って、身籠もることもないまま、あの暗殺未遂事件になったんだからねえ」
そこまで言って、アルウィンは急に厳しい顔になった。
「何より、あの事件で、君が僕の大切なカイエンを傷付けなくてよかったと、僕は思っているよ」
「えっ?」
星辰は首をかしげた。彼女には、アルウィンとカイエンの関係も知らされていないのだろう。
「あの娘も、あそこまでいくと気違い沙汰だけどね。あんな母親をかばうなんて! ま、結果的には、あのややっこしい従姉妹で妹の命を、体を張って守ったんだけど。どこまでわかっててやったのか!」
彼の冷たい怒りを隠さない口調を聞いて、震えだした星辰の腕を、アルウィンは乱暴に引っ張った。
「もういいよ。……さあ、お前の弟をお呼び! 天磊はお前の言葉じゃなきゃあ、動かないんだから。一昨日も、天磊への手紙を、わざわざお前に書かせただろう?」
「天磊はここにいるの?」
何も知らされてはいないのだろう、星辰は不安げにアルウィンを振り返る。彼女がアルウィンの道具の一つでしかないことは、もう明白だった。
「星辰様、天磊様はしっかりとここでのお役目を果たされました。まあ、このハウヤ帝国に来た早々、あんな事件を起こされたんじゃあ、サヴォナローラのしたいように、この修道院に幽閉させるしかなかったのですがね」
アルウィンの手から、星辰を受け取ったグスマンが苦々しい顔でそう言うのを、馬 子昂が無表情のままに聞いていた。今の言い方からすれば、あの連続男娼殺人事件の犯人は天磊だと言うことになるが……。
「アルウィン様がどうしてもハーマポスタールにお戻りになると言われるので、ついでに天磊様の腕が鈍っていないか、確かめてみたのです。さあ、お呼びなさい!」
グスマンにせかされて、星辰は迷うように周りを見回しながら、口を開いた。さすがにこの早朝の静けさの中で、弟の名前を叫ぶのは憚られたのだろう。
「天磊! 天磊! いるの?」
そして、やっとのことで星辰の喉から音が出ると、すぐに早朝の薄い霧の中、締め切られていた修道院の正面の扉が内側から不気味な木音をたてて開かれた。
「うるさいなあ。いるよ。さっき、やっと一人になれたんだ。だからうるさくしないでよ」
そう言いながら。
「青い天空の塔」修道院を出て来た若い男。
天磊は彼を呼んだ姉の星辰など目の端にも入れず、まっすぐにアルウィンの方へ進んで来た。その右手には大剣が握られている。それは柄まで血にまみれていた。
血まみれの剣を持っているだけではなく、その姿も異様だった。
褐色の飾り気のないアストロナータ神官の僧服を、べったりと、上から下まで真っ黒に濡れた滲みが覆っていた。彼がそばに来ると、アルウィンは露骨に顔をしかめた。
「天磊、お前は臭いね」
「ええ?」
天磊は無邪気な笑みを浮かべ、やっと気がついたように右手の剣を放り捨てて、アルウィンに抱きつこうとしたが、アルウィンは嫌そうに身をひねって避けた。
「グスマン、いいや、子昂! ……天磊を連れて行って。まずはその僧服を引っぺがして着替えさせて!」
「アルウィン様ぁ? わたし、私は頑張ったんだよ。ねえ、中に入って見てよ。武装神官が派遣されて来たんだよ! あいつらも私は……」
アルウィンはちょっとだけ天磊の方を見ると、嫌そうに手を伸ばし、ちょっとだけ天磊の、修道僧らしく短く刈られた頭を撫でてやった。さすがに脳天ばかりは汚れてはいなかった。
「ああ、ああ。そうかい。サヴォナローラも馬鹿じゃないから武装神官をよこしたんだろうね」
「そうだよ、あいつらもみんなやっつけたんだ! 二人、崖から落ちちゃったけど……」
そこまで聞くと、グスマンの金属のような目が一瞬、嫌な感じに光った。彼は崖っぷちの方をちらりと見たが、あえて確認しに行こうとはしなかった。
「言いたいことはわかったよ、天磊。とにかく、服を替えておいで」
グスマンの視線を追いながら、アルウィンは首を振る。一人、二人くらい、目撃者がいても構わないと言うのだろう。
「いやあ! アルウィン様、どうして!? 話を聞いてよ!」
自分の様子など気にもしていなかったらしい天磊が、不満げに暴れるのを、渋い顔つきになったグスマンが鳩尾に拳を叩き込んで黙らせた。その一連の動作にはなんの迷いもなく、拳の代わりにナイフが叩き込まれたとしても大した違いはなかっただろう。
「ひぃっ」
石畳の上へ倒れこむ天磊を支えたのは、馬 子昂だったが、その脇で姉の星辰が引きつった悲鳴をあげる。
アルウィンとグスマンは、もう星辰と天磊の方は見もせず、待たせていた手下と共に馬上の人となった。彼らが天磊を呼び出している間に裏へ回った手下達が、修道院の馬屋から馬を引っ張って来ていた。馬は多ければ多いほどいいからだ。
どうやら、彼ら一行はここで天磊を取り戻すつもりはあったが、共に連れて行く心算ではないようだった。
「ああ、そうだ」
アルウィンは馬上から、一度だけ、馬 子昂の方を振り向いた。その時になってやっと気がついた、とでも言うように。
「頼 國仁はどうしたの? 一緒に来なかったってことは?」
馬 子昂は、無言のままうなずいた。頼 國仁はもう、アルウィンのそばで働く気持ちはないのだと、黙ったままその表情で伝えていた。
「そうなの。ふうん」
アルウィンはつまらなそうに呟いた。
「先生も、最後はカイエンに忠義立てするんだ。先生にはシイナドラドの方に働きかけて欲しかったんだけど……あの子の馬鹿正直な性格も、こうなると馬鹿に出来なくなってきたね」
「アルウィン様……」
何か言おうとする、馬 子昂を、アルウィンは片手を伸ばして遮った。
「もういいよ。お前はこの星辰と天磊を上手く使って、この国の世情を操りなさい。他にも便利な奴らを揃えてあるだろう? ……社会不安が広がれば、民衆どもは勝手に動き出すだろうからね。サウル兄さんが頑張って国情を安定させてくれちゃったから、皇位を巡った上の方の争いだけじゃあ、国は動かないだろうからさ。下の方からも揺さぶりをかけないとねえ。西の端のこの国が崩れれば、子昂君、君の大切な螺旋帝国も動き始めるだろうからね! ああ、螺旋帝国への揺さぶりは僕に任せておきたまえ。あっちにはもう、革命の前からの人脈があるんだからね」
その後、一回、口を噤んでからアルウィンが繋げた言葉は、すぐそばにいたグスマンにしか聞こえなかった。
「……カイエン、サウルはお前に帝都防衛部隊を与えたけど、果たして、君はそれを上手く使えるかなぁ?」
アルウィン達の一党が、馬で左右に別れて立ち去ったのち。
「あぶない、あぶない」
声が聞こえ、修道院の奥のテラス状になった場所に近い崖の下にあった、小さな窪みから崖をよじ登って現れたのは、一人のフード姿の長身の男の姿だった。よく見れば、その衣服がアストロナータ神殿の武装神官のものだということがわかっただろう。
普通の神官よりも丈の短い膝までの褐色の僧衣の上に、アストロナータ神殿の五芒星の紋章を胸に縫い取った白いアルバと呼ばれるガウンを着た、お決まりの姿だ。だが、その服はあちこち泥やらなにやらに汚れていた。
崖を登るために外して、ポケットに入れていた革の手袋を出して両手にはめると、男はふう、とため息をついた。
「さあて。どうやってハーマポスタールまで行くかなあ。修道院の馬はみんなあいつらが持って行っちまったし。ロバは残ってるかな? ロバもいなかったら、村まで歩くしかないか……」
そう、一人呟いた声はまだ若い。
もうとっくに東側の丘の上へ昇ってきた、朝日に照らされた顔は浅黒く、フードの中の顔はまだ、二十代の前半だろう。胡桃色の明るい透き通った瞳が印象的で、顔立ちはかっきりと強い。うっとおしそうにフードを取った下の亜麻色の髪の毛は地肌が見えるほどに短かかった。
彼はアルウィンたち一党の気配を探るように、しばらく耳をそばだてていたが、やがてうなずくと中庭から修道院の中へ入って行った。中にはランプがつけっぱなしになっていたので、彼にはその場のすべてがはっきりと見えた。
入るなり、その顔の中の、太めの眉毛がぎりっとしかめられる。
その足元には、物言わぬ死骸があちこちに転がっていた。
中庭に近い高僧たちの食堂からまろび出たまま死んでいる死骸を見るに、彼らが死んだのは昨日の夕飯時だったらしい。
その証拠に、そこの死骸たちには血の跡はなく、皆が喉のあたりや胸に手を当て、掻きむしっているような姿で倒れている。かすかに食べ物の匂いと、それに別の臭気が混じっていた。
「最初は毒から始めたんだな。皇子様に手懐けられた神官が何人もいたんだろうな」
彼が他の数人の武装神官とともに、ここへ派遣されてきたのは、もう真夜中をかなり過ぎた時刻だった。宰相サヴォナローラはこの修道院がアルウィンたちの移動先にあること、天磊がいることにすぐに気がつき、手配をしたのだが、結果的にそれは間に合わなかった。
彼らがここについた時、それは天磊がもう、奥の修行場で暴れ始めていた時だった。
奥の方から聞こえて来る、断末魔の叫び声を聞いて突入した彼らは、もう倒れ伏している修行僧たちに構っている余裕などなかった。だから、天磊がどうやって修行僧全てを血祭りにあげたのか、じっくり調べてはいなかったのだ。
だから、今さらではあるが、武装神官はいちいち、検分しながら奥へと進んだ。生き残った彼は後で、サヴォナローラに報告しなければならなかったから。
「毒が効いて表の方が静かになったところで、大暴れ、ね」
中庭から、青い塔の周りを巡り、海に面してテラス状に張り出した場所を伝って海に面した崖をたどる。
海へ向き合った岩道に出た途端に、強い潮の香りが吹き付ける。そして違う臭いも。まだ薄暗い時間だったのは彼にとっては幸いだっただろう。足元の岩に溜まった液体の色を見ないで済んだのだから。
生臭い臭いに辟易しながら岩道に出ると、断崖にへばりつくように建てられた修行場へ続く道の途中には、海水がくり抜いた狭い洞穴があり、修行場へはそこを通らなければ行くことはできない。その手前と出口には、頑丈な鉄の扉がある。門番もいて、それが修行場への出入りを監視する役割を果たしていた。
この修行場へ入った修行僧は基本的にもう、外の世界とは縁を絶たれているからだ。
だが。
今、その鉄の扉は、洞穴の両側ともに開け放たれていた。そして、生臭さの元凶がいくつも岩場に伏していた。
血にまみれて、そこに倒れている死骸は、多くが武装神官たちのもので、それは皆、一撃で急所をやられていた。
最初に誰か、表にいる神官が他の神官たちに毒を盛り、それが効いて静かになってから、ここの扉を開いたのだろう。そして、その頃には崖に張り付いた修行場の狭さと構造を利用して、一人ずつ獲物を屠ってきた殺人鬼が、その向こうから出てきたのだろう。
彼らがここに到達した時、開け放たれた鉄扉を潜り、何人かが修行場へ入って行ったが、彼らはすぐに天磊にやられた。天磊は狭い修道場の廊下を利用して、人質を取り、一人ずつ武装神官を倒していったのだ。
「えげつない野郎だ……それに馬鹿みたいに強い」
彼自身ももちろん、危なかったのだ。
最初の一人二人がやられた時点で、彼ら武装神官たちは地の利の不利を悟り、人質を捨てて洞穴の外まで後退したのだが、その時にはあのバケモノは大剣を手にして飛び出してきた。
生々しい血の匂いと、その場の異様な空気に、半数以上の武装神官が恐慌を来してしまった。
中の一人はただ、叫びながら剣を振り回し始めてしまい、彼はそれを抑えようとしてもつれ合うようにして崖の端から落ちてしまったのだった。
恐慌を来した仲間は、叫びながら高い崖から岩にぶつかりながら、海の方へ墜ちてしまったが、彼はなんとか足場を見つけて踏みとどまることができた。
「とにかく、兄弟子様の杞憂は現実になっちまったってわけだなあ。まあ、さすがの宰相様もあの螺旋帝国のひょろひょろ皇子様が、こんだけのことをやらかすとまでは思ってなかったのかね。それも、お仲間のお迎えの来る日にちに合わせてなんてさ。イかれてるよ、もう」
俺も、びっくりしたよ、と最後に付け足して。
彼はもう修行場の方へは入ろうともぜずに、踵を返した。
馬屋の中を覗くと、思っていた通り、そこにはロバだけが残されていた。神官たちは基本的に馬には乗らないから、荷運びのためのロバが多く飼われていたのが幸いした。
彼はそのうちの若くて体の頑丈な二頭を引き出し、荷運び用の鞍を乗せて一頭の背中に乗った。
やがて、彼はハーマポスタールへの街道に出た。その時、ロバに乗った武装神官の口から、沈痛な響きで聞こえて来たのは、アストロナータ神教の死者への詠唱ではなかった。
それはなぜか、古い古い時代から彼の先祖たちが伝えて来た、古い古い星の神の歌ったとされる永訣の歌だった。
今日
あなたは死んだ
あなたは消えた
命がこの青い世界から
切り離されて飛び去って
だから
青よ
青
真実あおいものよ
ここを永遠に去るこの魂を
暗黒に任すことなく
清め給え
真っ青に……
「リカルド、よく、よく生きて戻ったな。……やはり、『青い天空の塔』修道院はやられていたか」
同じ日の昼すぎ。
生き残りの武装神官は近くの村までロバで走り、そこからは馬を借りて一気にハーマポスタールまで駆け抜けて来たのだ。
宰相サヴォナローラの執務室にたどり着いた、彼の話を聞いたサヴォナローラの声は震えていた。彼はアルウィンが戻ってきたと聞くなり、天磊の幽閉されている「青い天空の塔」修道院のことが頭に浮かんだのだ。だから、最近宰相府に呼び寄せた、自分の弟弟子を含む武装神官を派遣したのだが、間に合わなかった。
「いやあ、本当。あの血まみれの殺人鬼とまともに戦ってたら俺でも危なかったですよ。今、あなたの弟分だったってこと、ちょっと後悔してます」
リカルドと呼ばれた生き残りは、腕には自信があったらしい。だが、全身血まみれの天磊と対峙した恐怖を思い出して、身を震わせた。
サヴォナローラは真っ青な瞳を、一瞬だけ見開いたが、すぐにその顔は平静を取り戻した。
「口が減らないな、お前は。そんなお前だから、悪運が避けて通るのだろう。ありがたいことだったな。去年、とうとう武装神官になったと聞いた時には驚いたが」
そう言うと、サヴォナローラは同じ師父の弟子だった弟弟子のリカルドを、自分の執務机の前の椅子に座らせた。そこはいつもカイエンがこの部屋に呼びつけられた時に座る、同じ椅子だった。
「俺はあなたみたいに頭は回んないからさ。その代わりに腕っ節の方はなんとかなりそうだったから、武装神官に志願したんだけど。それにしたって、あなたの命令であの修道院へ行かされたと思ったら、これだもんな」
リカルドは、サヴォナローラの真っ青な目を、ジロリと睨んだ。その目は「言いたいことがある」とはっきりと告げていた。
「サヴォナローラ様、いやさ兄さん。俺も今度のことでこれからのこの国が、どんなに危ないかわかったからさ。だから、俺を使うなら、もっと兄さんの近くで使ってくれないですか? それなら、死んでも殉教かな、って錯覚できますからね。何せ兄さんは今や帝国の宰相様なんだから」
そうだ、宰相なんだ。リカルドは思った。
この人はただの神官だった時も優秀だったが、その優秀さは俗世で役に立つ方向のものだったから。だから、彼が師父に推挙されて、皇帝の内閣大学士に抜擢された時には、才能は無駄にならないなあ、とちょっと感動したものだった。
つけつけと言う弟弟子を、執務机を挟んで向かい側に座ったサヴォナローラはにこやかに見た。もう、一時の激しい感情は彼の中から去っていた。
「お前は馬鹿じゃないよ、リカルド。まあ、私もこんなに剣呑な状況ではいつ『殉教』してもおかしくないがね。でも、私が死んでも殉教だと言ってくれる人はいないだろうよ。こんなに俗世の垢に塗れていてはね」
そう言うと、サヴォナローラは心を決めたように表情を引き締めた。
「でも、ことこうなってはな。あの螺旋帝国の危険な皇子様が下界に出てしまったとなれば、私も他の皆様同様、確実に身を守る方策を講じるべきだろうね」
「殺される前に?」
リカルドは反射的に言っただけだったが、それへサヴォナローラは真面目な顔でうなずいた。
「私はまだしばらくは死ねないから。すぐには死なないと、サウル様とお約束したからね。……だからリカルド、お前には今日から私の影になってもらおうか」
リカルドは、ちょっとの間、ぼうっとした顔をしていた。それは、彼の兄弟子がそんな直裁な言い方で彼にものを頼んできたことなど、今までに一度もなかったからだ。
「出来るか?」
その上に、今日の兄弟子は念押しまでしてきた。
「……あなたの弟さんは? 今までは弟がその位置にいたはずだ」
ガラ。サヴォナローラの獣の血を引く弟。リカルドはもちろん、その存在を知っていた。
「ガラか。あれはもう、私以外の、命をかけて守るべき者を見つけたよ」
サヴォナローラはちょっと口元を歪めた。彼の脳裏に浮かんだのは、大公宮にいる、萎んだ冴えない足の不自由になった中年男の顔だった。
(第二の父親とかいうものを見つけてしまったからね)
「そうか」
リカルドは、ほんの少しの間、黙っていた。それから、彼の口をついて出てきた言葉はその場に関係ないようなことだった。
「あなたは、きっと知っているよね。……俺が、ラ・カイザの直系だってことを」
ともかく、リカルドの口から出た言葉は意外なものだった。だがそれは、カイエンの周りにいるものたちがリカルドを見たら、すぐに気がついたことだっただろう。
浅黒い肌、胡桃色の目。それに淡い亜麻色の髪の色。それはすべてカイエンの護衛騎士であるシーヴと共通するものだったから。そしてそれは、このハウヤ帝国建国の時に滅ぼされた、古の王国、ラ・カイザ王国の王の家の人々の色だったから。
「ああ」
サヴォナローラはすぐさま肯定した。
「もちろん知っているよ、リカルド。それだけじゃない。私はお前によく似た同胞の一人が大公宮にいることも知っているよ」
「えっ?」
リカルドは息を詰めた。彼は彼と同じ特徴を持った同胞に会ったことなど、今の今までなかったからだ。多分それは、大公宮のシーヴの方も同じだっただろう。
「私も最初は驚いた。大公殿下が、あの者を連れてこの皇宮へいらした時にはね。顔立ちはそんなに似てはいないが、肌の色、髪の色や目の色まで、お前と同じ祖先を持つ同胞だということはすぐにわかったからね」
サヴォナローラは胸元に下がった、アストロナータ神の紋章である五芒星をきつく握りしめた。
「お前の同胞は、大公殿下をお守りする騎士としてお側に付いている。……滅んだ古の星の神、エストレヤの御名を持つ方のそばに」
「そうですか」
リカルドは、激しい胸騒ぎに襲われていた。彼も、大公カイエンのことは知っていた。知識としてその長い名前のすべても。
カイエン・グロリア・エストレヤ・デ・ハーマポスタール。
エストレヤ。それは彼の語ってはならない祖先の信奉していた神の名だ。
ではこれから、俺の人生が変わるのか。いや、正しい方向へ戻っていくのかもしれない。きっと、何十世代も隔てた昔に引きずられて。
「いやかい?」
リカルドは首を振った。いままでの人生の中で一番に、はっきりと。
「いいや。……リカルド、確かに承りました。これより先、兄さんより先に次の世へ逝くことだけはないと誓います」
次の世、とはアストロナータ神教の語る「あの世」を通過した後に生まれ変わる世のことだ。
「ありがとう」
安心したように瞼を閉じたサヴォナローラの顔を、リカルドはなんだか冷めた気持ちで見ていた。この男は死んだ皇帝が死後を託すくらいには狡猾だ。だが、周りが思っているほどにも、本人が自負するほどにも、彼は完璧ではなかった。
賢い蛇になるには、まだまだ人間の部分が多すぎるのだ。
だから、自分はこの人を守らねばならない。それは感情よりも義務感に近かった。自分と同じ、ラ・カイザが守っているという大公殿下の側で戦うはずの、この兄弟子を積極的に肉体的、精神的な危険から守れるのは、同じ師の元で学んだ自分しかいない。それは事実として目の前に横たわっていたから。
しばらくの間、二人は執務机を挟んで黙りこくっていた。
リカルドは疲れ切っていたし、サヴォナローラは気持ちの切り替えがうまくいかないとでも言った様子だった。
その静寂を、扉を激しく叩く音がぶち壊した。
「何か!?」
サヴォナローラの声に、扉の向こうから侍従の声が答えた。
「大公軍団治安維持部隊長が、緊急のご面会を申し込んできております。帝国士官学校で事件があったそうで……」
聞くなり、サヴォナローラの表情がひび割れるように動いた。
「士官学校? まさか……」
リカルドも何もわからないながら、椅子から腰を浮かせる。
そこへ静かな、だが素早い身のこなしで入って来たのは、黒い大公軍団の制服姿だった。
「失礼いたします」
それは、治安維持部隊の隊長の双子のうち、弟のヘススの方だった。彼ら双子は髪の分け目でしか区別がつかない。そして、いつもあまり表情の変わらない男たちだ。その寡黙さは、彼らの派手でおしゃべりな上官とは正反対なものだった。
「……頼 國仁先生ですか?」
ヘススが口を開く前に、もうサヴォナローラにはわかったようだった。
「なるほど、他にも何かあったようですね」
サヴォナローラにわかったことは、ヘススにも感じ取れたらしい。真っ黒な目がちらりと光った。治安維持部隊長のヘススも兄のマリオも、昨日の夜の捕物についてはもちろん、知っていただろう。
ヘススはさすがに落ち着いたものだった。
「では、そちらは後で伺いましょう。先にこちらの事件のご報告です。……一昨年の事件の後、帝国士官学校教授になられた、頼 國仁先生ですが、研究室でご自害なされておりました。士官学校からの通報により、治安維持部隊が出動、すぐに私まで連絡が上がってまいりましたので、現場に駆けつけましてございます」
一昨年の事件というのは、あの連続男娼殺人事件と、螺旋帝国の旧王朝「冬」の皇子皇女の亡命事件のことだ。
「そうですか……何か、不審な点が?」
ヘススは首を振った。
「現在、引き続き現場を検分中ですが、私の経験からのカンでは、自殺で間違いないと思われます。死因は、縊死です。研究室の天井には頃合いの梁が露出しておりますので」
ヘススは、言外に建物の構造が首をくくるのに適していたから、宿舎ではなく研究室が現場になったのだと言いたいようだ。
「そうですか」
「ですが」
ヘススは言葉を一気に言わずに、考え深げに途中で切った。
「ふたつ、不審な点がございました」
「?」
「一つは、遺書が見当たらないことでございます」
聞くなり、サヴォナローラの顔色も変わった。頼 國仁が今、この時機に自殺するのに遺書を遺さないのはおかしいと思ったのだ。
「研究室の扉は施錠してありませんでした。そして二つ目ですが、助手の馬 子昂の姿が消えています。一昨年の事件の後、士官学校に仕事を与えられた彼らには見張りをつけ、士官学校の敷地からの出入りを制限していましたが、夕刻に身一つで出かけたそうです。……馬 子昂一人で、それも身一つだったので、食事にでもいくのかと通してしまったそうです」
「ああ」
サヴォナローラには合点がいった。
頼 國仁は、馬 子昂と同道するのを拒んで、自裁を選んだのだろう。
それならば、遺書を残せなかったのにも合点がいく。
「大公殿下は、軍団長、それに最高顧問とともに、すでに現場に入られました」
考えているサヴォナローラの上に、ヘススの次の言葉が降ってきた。
「なんですって?」
ヘススは辛抱強く、もう一度同じことを違う言葉で伝え直した。それは奇妙な言い換えだった。
「大公殿下は、今朝起きられてすぐ、軍団最高顧問同席の上、大公軍団団長を呼びつけられ、今までのことでご叱責中であられましたが、事件を聞き、すぐに現場へ向かわれました」
その頃、カイエンは頼 國仁の研究室で、変わり果てた彼女の元家庭教師と対面していた。
「なんてこった、先生……じゃあ、じゃあ、馬 子昂の方が……」
そして、同じように頼 國仁の門下生だった、マテオ・ソーサの絞り出すような声を戦慄するような思いで聞いていた。
第二話「冬のライオン」の怖い皇女皇女の真実がやっと出て来ました。
次回はカイエンさんもちゃんと出てまいります。




