第一二八話 そして神の領域へ
「ひとつ、昔話をしよう」
と、国立劇場一階の大広間を埋め尽くす座席の上で、背凭れに片腕を預けたヴェンが言った。
「昔々あるところに、マジア農土国って名前の弱小国がありましたとさ。その国のとある田舎にサヴァイってガリ勉野郎がいてよ。そいつはガキの頃から狂ったように本ばっか読んでるやつで、将来はエルビナ大学に行ってマグナ・パレスの役人になるんだとか抜かしてやがった。大陸がまだ天帝に支配されてるご時世にだぜ? 当時農土国は隷属国の中でも特に貧しくて、国民は薄くてまずい麦粥を一日一杯啜れりゃ幸せな方だった。当然、ガキを遠く離れた天帝国まで送り出して、大学へやる金なんてあるわけがねえ。なのに野郎は大学に行くっつって聞かねえんだよ。誰も天帝に刃向かうことができねえなら、天帝の統治下でも豊かに暮らせる国を作ればいい。だがそいつを実現するためにはまず知識と智恵が必要だ、とか言ってな」
低めた声でそう語り出しながら、ヴェンが遠い目をして見つめた先には、今も舞台に横たわるサヴァイの姿がある。彼の傍らでは依然マドレーンが胸に開いた穴に手を翳し、懸命に延命を試みていた。が、そんなマドレーンのすぐ傍を、先程からちょこまかと動き回っている影がある。赤くて短い棒状のそれは名を〝血晶〟というらしく、そいつはひとりでにくるくる回ったり、カツカツ音を立てたりして、舞台の床にいくつもの不可思議な紋様を描いていた。
血晶を手も使わずに動かしているのは言わずもがなマギサだ。驚いたことに、舞台の上にじっと佇み血晶を見つめる彼女の黒い瞳は、今は金色に輝いていた。
何でもマギサは希術を行使している間だけ、あのように瞳が輝くらしい。
本当に何から何まで、すべてが人間離れした魔女だった。
「けど同じ頃、この大陸にゃ〝リバレス空賊団〟ってのがいてよ。連中は天帝国軍から奪った飛空船で大陸中の空を飛び回る、空の海賊みてえなもんだった。ただ海賊と違うのは、天帝国軍の船や城ばかり狙って襲ってたとこだな。しかも最初は単なる金目当てだったのが、次第に船や武器まで強奪し始めて、どんどん勢力を拡大していった。そうなると天帝国軍も連中を放っておけなくなる。んで、討伐のための大艦隊を編制して空賊団とドンパチやり始めたわけだ。結果、天帝国の物量に押しまくられた空賊団の団長はある日、サヴァイを拉致した。なんでかって、ふたりはガキの頃からの腐れ縁だったのさ。そしてサヴァイにこう言った。〝天帝国軍をぶっ潰すために空賊団の参謀になれ〟とな」
そうした舞台の上の様子を見守りながら、なおもヴェンは語り続ける。
そんな彼の、珍しく髭のない横顔をちらと見やりつつ、グニドは沈黙を貫いた。
ヴェンの言う〝昔話〟が果たして誰と誰の昔話であるのかは、ハノーク語が不自由なグニドでもすぐに察しがついたからだ。
ゆえに今はただ黙って、ヴェンたちの物語に耳を傾けるべきだと思った。
「ま、当然サヴァイは猛烈に嫌がったんだがよ。同郷の団長はサヴァイの扱い方ってもんをよーく分かってた。だからこう言ったのさ。〝そうか。お前がどうしても嫌だっつーなら、あとは艦ごと特攻して華々しく散ることにすらあ〟とな。そしたら案の定、サヴァイのやつは〝お前も部下の命を負って立つ団長ならもう少し頭を使え〟とブチギレて、結局空賊団を助けちまった。で、めでたく団の一味と見なされて、一緒に逃げ回る羽目になったのさ。ま、そっからさらに紆余曲折を経て、空賊団はユニウスと一緒に天帝国をぶっ壊すことになったんだけどな」
ヴェンがそう話す声の合間合間に、女の啜り泣く声が聞こえる。
泣いているのはマドレーンと共にサヴァイの傍らに膝をついたふたりの人間だ。
どちらも女で、年嵩の方はサヴァイの妻、仔人の方は娘であるらしい。後者は体の大きさからして、恐らくはルルの半分くらいの年齢ではないかと思われた。
「おとうさん、がんばって……」
と消え入るような声で言い、妻と娘は必死にサヴァイの体を摩っている。ふたりはサヴァイがあのイヴという天使に襲われた瞬間を、客席から目撃していた。
何でも今年はサヴァイが宗主演説会の進行役を務めるからと、気をきかせたユニウスが彼女らを会場に招いたらしい。そのユニウスは先刻までサヴァイと彼の家族に寄り添い、謝罪の言葉を繰り返していたのだが、やがてマギサに追い出されるように劇場をあとにした。というのもイヴの襲撃と同時に勃発したアイテール教団のテロにより、白都はひどい混乱に陥っており、宗主であるユニウスが早急に収拾に当たるべきだとマギサが厳しく叱責したのだ。
マグナ・パレスにはスヴァールやグリアンの他、各国の首脳陣が集まりつつあるというから、今は彼らがユニウスを支えてくれることを祈るしかなかった。
「……なるほど。サヴァイさんがエルビナ大学の学長になったのには、そういう経緯があったんですね……でも、当時天帝の傍には大魔女がいて、天帝自身も《識神刻》を持っていたのによく無事でしたね。《識神刻》がもたらす全智の神の力を使えば、天帝が知りたいと望んだことは何でも瞬時に知ることができたと聞いています。なら、反乱勢力の動向なんて常に筒抜けだったんじゃ……?」
「まあな。実際、途中から空賊団の旗色が急激に悪くなったのも、天帝が団の潜伏先を『天の眼』で暴いてしつこく追ってきたせいだ。だが《識神刻》の力にゃひとつ、決定的な穴があってよ」
「決定的な穴……というと?」
「そいつァな、人の頭の中までは見抜けねえってこった。たとえばこう面と向かって、頭に銃を突きつけられたとするだろ? そうなったとき、相手に撃つ気があるかどうかは天帝にも分からなかったのさ。やつに分かるのはあくまでも、何らかの事象としてこの世に発現した物事だけ……だから野郎は《愛神刻》の力で人の心が読めるユニウスを溺愛してたんだよ。《識神刻》と《愛神刻》の力が合わされば真の全智が手に入るからな」
「へえ……ってことはこっちの作戦を実行に移すまで黙秘してれば、さしもの天帝も手の打ちようがなかったってことか。けど、たとえ人の心は読めなくても、ヘレに頼めば天帝は未来を予見できたんじゃ? 口寄せの民の予言は百発百中だって、もっぱらの噂じゃないですか」
「まあ、確かに連中は天災だとか宿病だとか、避けようがない未来はどれも見事に的中させてみせるがよ。たとえばさっき例に挙げたような、こいつは銃を撃つか撃たないか、みたいな予言は必中じゃねえんだよ。より確率の高い方を言い当てられるってだけでな」
「そうなんですか?」
「ああ。だってよ、たとえば〝自分は三拍(三秒)後に撃たれて死ぬ〟と分かってりゃ、よほど自殺願望の強えやつでもねえ限り、普通は弾を避けるだろ。で、そいつが助かれば〝撃たれて死ぬ〟って予言ははずれたことになるわけだ」
「た、確かに……」
「つまりたとえ大魔女の予言でも、そいつを覆すことはできる。まあ、そのためには予言の内容を事前に知っておく必要があるわけだが、そこはほら、空賊団には狂魔女サマっつー恐ろしいケツ持ちがついてたからな?」
「え?」
「狂魔女サマ……ってことは、マドレーンさんも空賊団の一味だったんですか?」
「おうよ。あいつが一味に加わったのは完全に成り行きだけどな。お互いに〝天帝国をぶっ潰す〟って目的が一致してたんで、ひょんなことから船に乗せてやったんだよ。そしたらサヴァイのやつがまんまと毒牙にかかってなぁ」
「えっ」
「あいつの本性を知る前に、うっかりひと目惚れしちまったんだとよ。そっから先は惚れた弱みってやつさ。あのアホが空賊団に手を貸したのも、半分は惚れた女を道連れに特攻されちゃ困ると思ったからだそうだ。で、以来十年以上も他の女にゃ見向きもしなくてよ……六年前にようやく所帯を持ったと思ったらこのザマだ。ほんと救いようのねえアホだよ、あいつは」
「そ、それって……マドレーンさんはサヴァイさんの想いを知ってたんですか?」
「まあな。けど、口寄せの民は全員不生女だし、何より普通の人間とは生きる時間が違う。だから一緒に歳を取って、同じ時間を生きられる女を見つけた方が幸せだと、サヴァイを嫁さんと引き合わせたのもあいつさ」
「……」
「ちなみに、口寄せの民ってのは男に抱かれることで霊力を補充するんだがよ。マドレーンは結局一度もサヴァイにゃ手を出さなかった。そういうところがほとほと魔女だよな」
「ム……? デハ、ルルモ、ハグスレバ、霊力、強クナルカ? ──ウッ……!?」
ところがヴェンの話を聞いたグニドが、ならば自分もと膝の上のルルをより強く抱き寄せようとすると、突然ポリーに無言で背中を叩かれた。
獣人隊商の中でも特に非力で、気性も穏やかな普段の彼女からは考えられないほどの、あまりに強烈な一撃だった。
何故殴られたのかは皆目見当がつかないものの、こちらを睨むポリーの眼差しはいつになく肉食獣じみている。竜人の間ではアレを〝殺意〟と呼ぶ。よってグニドは口を閉ざし、何だか分からないがしばらく余計なことは言うまい、と堅く誓った。今回はラッティやヴォルクまで、何とも言えない微妙な反応を呈しているし。
「準備が整いました」
するとほどなく、正体不明の気まずい雰囲気が漂うグニドらの間にマギサの声が投げかけられた。見れば舞台の上で踊り狂っていた血晶はいつの間にか姿を消し、代わりにサヴァイを中心とした円形の奇妙な紋様が完成している。
いくつもの幾何学模様──あれは人間たちが使う〝文字〟に似ているがラッティたちにも読めないらしい──を組み合わせて描かれたその紋様を、マギサは『希法陣』と呼んだ。これはルルの力を高めるために用意されたもので、グニドらは希法陣が完成するまで客席で待つように、と言われていたのだった。
「……族長。サヴァイはもう長くは持ちません」
「分かっている。ゆえに手短に済ませましょう。ルルアムス。汝も心の準備はできましたか?」
「こころのじゅんび……」
と、マギサの言葉を復唱したルルは、不安げにグニドを見上げてきた。
そんな彼女に『大丈夫だ』と声をかけ、グニドは膝の上にある青みがかった黒髪をくしゃりと一度撫でてやる。
「……うん。こころのじゅんび、だいじょぶ……!」
「では早速始めるとしよう。北からの客人たちはここへ」
そう言ってマギサが指し示したのは、希法陣の中に組み込まれた五つの小さな円だった。陣の外周に等間隔に並べられた円は、ちょうど人ひとりが中に立てるくらいの大きさだ。グニドら獣人隊商の面々はひとりずつ、その円の中に立たされた。
すると自然五人でサヴァイを囲むような形になり、陣の真ん中、すなわちサヴァイの傍らには緊張した面持ちのルルが立つ。同時にサヴァイに寄り添っていた妻と娘は、連合国兵に付き添われる形で陣の外へと連れ出された。
「一番目、グニドナトス。これよりサヴァイ・シエンティアの魂の復元を開始します。なれど先程も説明したとおり、幼いルルアムスの力だけでは恐らく足りない。よって、汝から順に霊力を抽出し、ルルアムスへと供給します。さらに汝の霊力を使っても足りなければ、次は二番目、クワトから。それでも足りなければ三番目はヴォルク、四番目はラッティ、五番目はポリーという順で霊力を吸い出されるものと思いなさい」
「え、えーっと……〝霊力を吸い出される〟ってのは要するに、魂の一部を取られるって解釈でいいんですよね? 前にグニドが魂を千切られて動けなくなったことがあったけど、死にはしない……と思っても?」
「そうですね。死なない程度には加減します。ただし魂が欠損すると、自己修復されるまで数日を要することは伝えておきましょう」
「ちなみに……俺たち五人の魂を使っても足りなかった場合はどうなりますか?」
「当然、シエンティアの命を諦める他ない。汝等が代わりに魂の全部を差し出すというのであれば話は別ですが」
「ムウ……オマエヤ、マドレーンノチカラハ、借リレナイカ?」
「生憎ながら、我々とルルアムスとは魂が接続されていない。汝等はよく〝絆〟とかいう呼び方をするが、これは我々に言わせれば、互いの魂が縁という名の道によってつながり、共鳴することを意味します。されどその〝道〟を持たぬ我々がルルアムスに力を貸すというのは、彼女の魂の殻に穴を開け、無理矢理異物を流し込むようなもの。左様な手段を用いれば、ルルアムスの魂にかえって害を為すことは自明の理でしょう」
マギサの説明は分かるようで分からない部分が多かったが、とりあえず魔女たちの力を借りるのは難しいらしい、ということは分かった。魂というのは道によってつながるものなのかとか、卵のような殻があるのかとか色々と気になる点はあるものの、今はひとつひとつ教えを乞うている時間はなさそうだ。
ところが刹那、マギサは黒い長衣を引きずりながら静かにルルへ歩み寄った。
次の瞬間、彼女が掲げた掌の上に光の球体が現れる。
それはまさしく、茹でた卵の白身と黄身とを反転させたような球体だった。
というのも淡く金色に輝く球体の真ん中に、さらに強い光を放つ白い球体が内包されているのだ。マギサの手の上でふわふわと浮かぶその光の球を、ルルは目をぱちくりさせながら食い入るように見つめていた。
「ルルアムス。これは汝が今から触れる魂の模型です。人間の魂とは通常、このような構造をしている。うち黄金の部分を我々は〝皮魄〟と呼び、白い部分は〝核〟と呼んでいます」
「〝まふる〟と〝でぃー〟……」
「いかにも。そして現在、シエンティアの魂は核が傷ついた状態です。人間の魂というものは、核さえ無事ならいくらでももとの形を取り戻すことができるが、核が傷つけば助かる術はない。すなわち魂の欠損は肉体にも影響する……ゆえにシエンティアは今、死にかけている。以上の理屈は分かりますね?」
「う、うん……だから、ルルは、サヴァイの〝でぃー〟をなおす。だよね?」
「ええ。元来魂とは目に見えぬものだが、かような形をしていると分かれば力の使い方も想像しやすいでしょう。汝はただ核を癒やすことにのみ注力すればよい。ただし、核に流し込むのは希霊……汝が〝アメル〟や〝ビレ〟と呼ぶものたちであってはならない」
「えっ……どうして?」
「人間の核とはアメルやビレが〝わるいもの〟と呼ぶものでできているからです」
「……!」
「我ら口寄せの民にとって神とは〝神〟ではない。ユヴィルを操る術を持たぬのもそのためです。なれど汝ならばユヴィルもまた、希霊と同様に操ることができるでしょう」
「で、でも……ルル、ユヴィルとおはなししたこと、ないよ。アメルやビレが〝ダメ〟っていうから……」
「だとしても、できる。ただしユヴィルも汝を憎んでいる。よってアメルやビレを呼ぶときのように〝願う〟のではなく〝命令〟しなさい。それを可能にすべく創り出されたのが万霊刻なのですから」
そう言いながらマギサは白い人差し指を伸ばし、ルルがまとう新年祭の衣装越しにトン、と万霊刻に触れた。
するとルルも自らの胸もとを見下ろして、ほんの一瞬、また不安そうな顔をしたものの、すぐに唇を引き結び、マギサにこくりと頷き返す。
「では、マドレーン。汝も陣の外へ出よ」
「……。族長、やっぱり私も……」
「出よ。もはや汝のごとき小娘が出る幕ではない。分を弁えなさい」
マギサはマドレーンの方をちらとも見ずに、淡々とそう吐き捨てた。既に二百年以上も生きているマドレーンを小娘呼ばわりするマギサに、グニドは言いようのない空恐ろしさを感じたが、同時にこれが大魔女と呼ばれる存在なのだと思い知る。
そんなマギサにあしらわれたマドレーンは、唇を噛みながら陣外へと退いた。
途端に意識を失ったままのサヴァイが咳き込み、泡の混じった血を吐き出す。客席で妻と娘が息を飲み、堪え切れないといった様子で嗚咽を漏らすのが聞こえた。
もはや一刻の猶予もない。
「では、始めましょう」
されど一切動じる素振りを見せず、そう告げたマギサが足もとの希法陣に手を翳した。次の瞬間、血晶によって描かれた無数の文字や幾何学模様がぼんやりと光を帯び、やがて放射状の輝きを放ち出す。
が、どういうわけだかグニドらが乗った円だけは暗く沈黙したままだ。
ここだけまったくの無反応だが大丈夫なのかと、グニドは首を傾げて当惑した。
しかしマギサはやはり表情ひとつ変えずにルルを見やり、言う。
「ルルアムス。今から汝を《世界の深淵》に接続します。彼らの声を聞き、導きに従い、ユヴィルに命じなさい。サヴァイ・シエンティアの魂を復元せよと」
「はい……!」
力強くそう答えるや、ルルは自らの胸に手を当てて、ぎゅうっときつく目を閉じた。すると首もとの人蛇の秘石がちかりと瞬き、呼応するようにルルの胸もともまた光り出す──万霊刻だ。
『〝我、万霊を従える者として命ずる。テヒナに生み出されしものたちよ、ここにある魂にかけられた呪いを解き癒やし給え。汝らの母なるイマのために……!〟』
直後、ルルが流れるように紡いだ竜語にグニドは喫驚した。何故ならたった今、ルルが口にした竜語は死の谷の長老たちが使うような、古めかしくて格式張ったものだったからだ。そんな竜語を、たどたどしい言葉使いばかりしていたルルがいつの間に? そう困惑したグニドの視線の先で刹那、目もくらむほどの閃光が万霊刻から放たれた。
途端にぞわりと大気が動く。目には見えないものの、はっきりと肌に感ぜられるそれは人間の、特に神術使いと呼ばれる者たちが〝神気〟と呼称する存在だった。
神術とはまるで無縁の境地を生きてきたグニドは、当然そうとは知る由もない。
されど生来神術を使うことができない竜人の五感でも知覚できるほど大きな神気の塊が、そのとき確かに蠢動した。万霊刻の力に引き寄せられ、集まった神気はやがて星のごとくちかちかと瞬き出す。
これもまたグニドは知る由もなかったが、神気や希霊というものは高密度になると互いに反応し、光を発するものなのだ。やがて拳大の光の球となった神気は、サヴァイの胸に開いた穴に向かってゆっくりと降下し始めた。
「うぅ……!」
ところがときを同じくして、ルルの口から苦しげな呻きが漏れる。はっとして目をやれば彼女は胸を押さえながら、額にびっしりと汗を浮かべていた。どうやらあの光の球を作り出し、維持するのにかなりの力を消耗しているらしい。
『ルル……!』
「──一番目、起動せよ」
それを見たグニドが円の外へ踏み出しそうになった瞬間、マギサがこちらへ手を翳し、何か唱えた。かと思えば、寸前まで沈黙していたはずの円がにわかに光を帯びて、グニドはズンと全身が沈み込むような衝撃を感じる。
「ジャ……!?」
驚いたグニドは硬直したが、実際に体が床に沈んだわけではなかった。
ただ体の内にある何かが──魂が、希法陣に向かって猛烈に引っ張られている。
「……!!」
このままでは魂を引き剥がされる。そんな恐怖さえ覚えるほどの抗い難い力だった。だが同時にグニドは気づく。足もとの円から、直前まで存在しなかったはずの光の線が伸び始め、音もなくルルへと向かっていくことに。
(まさか……これがマギサの言っていた〝道〟なのか?)
自分とルルの魂をつなぐ〝絆〟という名の見えざる道。
それが今、初めて目の前に姿を現したのだと、グニドはそう理解した。
やがてその道の先端がルルの足もとに達するや、グニドはますます激しい衝撃に襲われる。魂の一部がメリメリと音を立てて引き剥がされ、吸われていく感覚。
気を抜くとあっという間に意識が遠のき、膝をついてしまいそうだ。
『ぐぅっ……! ルル……頑張れ……!』
けれどもグニドは両足を踏ん張り、さらに尻尾も支えに代えて懸命に耐えた。
恐らくルルは今、自分よりもっとすさまじい苦痛に耐えているに違いないのだ。
ならば先にへこたれるわけにはいかない。
グニドは腹の底から咆吼し、悲鳴を上げる自らの魂に喝を入れた。
すると先刻マギサが言っていた魂の〝核〟が燃え上がるような感じがする。
竜人の魂にも〝核〟が存在するのかは分からないが、しかし確かに燃えている。
ルルへとつながる光の道が光度を上げた。黄金の輝きは噴き上がる風を生み、ルルの髪を撫でるようにヒュルヒュルと渦を巻く。
「二番目、起動せよ」
再びマギサの声が聞こえた。今度はクワトの足もとの円が光り出す。グニドが感じたものとまるで同じ衝撃がクワトを襲った。されど彼もまた両足と尻尾でもって我が身を支え、魂と共に剥がれ落ちそうになる意識を繋ぎ止めている。
〔……ッ! ルル、大丈夫だ……おれたちがついてるぞ……!〕
ところが、刹那。
クワトが叫んだ言葉の意味が、不意にグニドにも理解できた。
クワトは間違いなく鰐人語で叫んだにもかかわらず、だ。この不思議な現象に驚愕して目をやれば、なんとグニドの円から伸びた光の道はルルだけでなく、いつの間にかクワトともつながっていた。ということはもしや魂が強く結びつくと、知らない言語を話す者同士でも意思の疎通が図れるようになるのだろうか?
『グニド……クワト……ルルにも、きこえてるよ。あとちょっと……ルルも、がんばるから……!』
が、さらに驚くべきことが起こった。どうやらルルにもまたクワトの鰐人語が理解できたらしい。同様にクワトも面食らっているところを見ると、ルルの話す竜語も翻訳されて届いたようだ。彼は束の間混乱した様子でグニドとルルを見比べた。
ゆえにグニドも頷き、魂を削り取られる苦痛に耐えながら言う。
『クワト。どうやら希法陣とやらの力で、今はお互いの言葉が通じるらしい。お前もルルを励ましてやってくれ』
〔う、うむ……もちろんだ。ルル、おれが人間の言葉を話せるようになったら真っ先に伝えたかったことがある。おまえは世界で初めておれを怖がらずに接してくれた人間だ。おまえは鰐人族に、人間と獣人だって手を取り合えると教えてくれた。おれがブワヤ島を出て、もっと色んな人間と出会ってみたいと思えたのもおまえのおかげなんだ。だから、今度はおれがおまえを助ける。負けるな、ルル……!〕
クワトが吼え猛るように告げたその言葉が、ますますグニドの魂に火をつけた。
ふたりからルルに向かって伸びる光の道が輝きを増す。瞬間、ルルの瞳から大粒の涙が零れるのをグニドは見た。彼女は顔をくしゃくしゃにして泣きながら、なおも懸命に光の球をサヴァイへと下ろしていく。が、時折何かが弾けるような音を立て、球の周りに小さな稲妻が走るところを見ると、どうやら力の制御が不安定らしい。それを見たラッティが、ついに堪えきれなくなったように叫んだ。
「マギサさん! もういいよ、順番なんて言わずにアタシの魂も使ってくれ!」
「ワ、ワタシも……ワタシの魂も使って下さい! 少しでもルルちゃんの助けになるなら……!」
「……俺の分も、死ななければ何でもいいので、使えるだけ使って下さい」
続けてポリーとヴォルクも口々にそう告げるのを聞いて、ルルはますますたくさんの涙を溢れさせた。するとマギサはやはり表情を変えぬまま、三人をちょっと一瞥したのちに口を開く。
「いいでしょう。では、望みどおりに。三番目、四番目、五番目──起動せよ」
マギサの詠唱を合図に、三人の足もとの円も輝き出した。
途端にぶわっと、ラッティたちの尻尾や耳の毛が逆立つ。
魂を引き剥がされる感覚が彼らにも襲いかかったのだ。
されど全員が歯を食い縛り、拳や衣服を握り締めて、耐えた。誰もがルルを不安がらせまいと、反っくり返りそうなほどの苦痛を堪えて踏ん張っている。
「く、ぅっ……もうちょっとだ……! 頑張れ、ルル!」
いつもよりひと回りほども膨らんだ尻尾をビリビリ言わせながら、しかし負けじとラッティが叫んだ。三人から伸びた光の道がルルの足もとへ到達する。
交差した五人の〝道〟の上で、ルルはやはり泣いていた。けれどもぎゅうと目を閉じて、最後の力を振り絞るように──皆の想いに応えるように、叫ぶ。
『〝救済せよ〟……!!』
光の球を荒々しく取り巻き、ルルの命令に抗っていた白い稲妻が鎮まった。
直後、グニドたちの五感はふっと静寂に包まれ、光の球が音もなくサヴァイの胸に吸い込まれていくのが見える。
儀式は成功した。
そう確信すると同時に、グニドの意識は急速に遠のいた。全身から一気に力が抜けて、希法陣が沈黙するのを視界の端に捉えながら頽れる。
『グニド……!!』
同じように、ラッティたちもバタバタと舞台の上に倒れ込むのが見えた。
まるで体を支えていた糸が切れたみたいに、誰も彼もが力なく倒れたきり動かない。ゆえにグニドもまたうつ伏せになりながら、消え入りそうな意識をどうにか繋ぎ止め、仲間の無事を確かめようと重い瞼を持ち上げた。
『グニド、グニド! しっかりして……!』
『ルル……無事か……? ラッティたちは……』
「彼女らも無事です、グニドナトス。大儀でした。あとのことは我らに任せ、お眠りなさい」
くしゃくしゃの泣き顔のまま駆け寄ってきたルルの後ろに佇み、超然とそう告げたのはマギサだった。
それを聞いたグニドはようやく安堵して、ゆっくりと眠りに落ちていく。
『グニド……!』
『ああ……ルル、悪い……少しだけ……休ませてくれ……何だか……猛烈に、眠くてな……お前は、平気か……?』
『うん……! グニドが……みんなが、ルルをたすけてくれたおかげだよ。ありがとう……!』
ルルは声を震わせてそう答えるや、再び瞳に涙を溜めてグニドへと抱きついた。
そうして堰が切れたように声を上げ、わんわんと泣くルルに、グニドはグルル、グルル……と低く喉を鳴らして応える。
(本当によくやったな、ルル……)
目が覚めたらそう言って盛大に労ってやろうと誓いつつ、グニドはそっと眼を閉じた。しかし意識が途切れる寸前、瞼の裏に焼きついたあの光の道の残像を見る。
黄金に輝きながら、ルルへ向かって流れていた〝道〟。自分はあれに似たものを以前どこかで目にした気がする。一体いつ、どこで見たのだったか。そんな疑問が頭の片隅をぼんやりと漂うのを感じつつ、グニドは深い眠りに就いた。
そう、幾重にも重なる声がくすくすと無邪気に笑う、魂のゆりかごで。




