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第一一二話 受け継がれゆくもの


 遥か、遥か遠い昔、かつて無人島だったこの島の浜辺に、青い海の彼方からひとりの青年がやってきた。いや、より正確には〝やってきた〟というよりも乗っていた船が転覆し、たったひとり、奇跡的に島へと流れ着いたらしい。

 ところが浜辺で目を覚ました青年は、初めこそ命のあることを喜んだが、すぐにそこが自分以外には誰もいない無人島だと気がついた。そして島を脱する手段もなく、やがて孤独に押し潰されそうになった彼は、涙ながらに海に祈った。


 ──ああ、偉大なる海の神ヤムよ、私の願いを聞いておくれ。

 私は今、とても孤独で、たったひとりではどうしても生きてゆかれそうにない。

 だからどうか救っておくれ。

 あなたの御心よりも深い孤独という名の深淵からどうか私を救っておくれ……。


 すると願いを聞き届けたヤムは青年の身の上を気の毒に思い、自らの髪を一本抜いた。それを浜辺に植えてやると、青い髪はたちまちココヤシの木に姿を変えて実をつけた。やがて見渡す限り何もなかった砂浜に、いつの間にか見たこともない木が立っているのを見つけた青年は、あれは何だろうと歩み寄った。


 途端に彼ははっとして、驚きと共にヤシの実を見上げる。何故ならその実の中から聞こえてくる赤ん坊の声に気づいたからだ。青年は急ぎ木に上ると、泣き声のする実をもぎ取って慎重に割ってみた。するとヤシの実の中には小さな赤子がいて、青年はヤムに捧げた自らの願いが聞き届けられたのだと気がついた。


 かくて神の慈愛に胸打たれた青年は、ヤシの実から生まれた赤子を〝モアナ〟と名づけ、大切に大切に育て上げた。モアナは母乳の代わりにココヤシの汁を飲んですくすく育ち、やがて美しい娘となって青年との間に子を設けた。

 そうしてふたりの間に生まれたのが、のちにモアナ=フェヌア海王国(かいおうこく)と呼ばれる島国の王となる息子と、ヤムへの感謝を(つむ)ぐ使命を帯びた聖なる娘だ。


 この伝説のとおりなら、青年がモアナと名づけた娘はヤムから生まれた〝ヤムの(ヤム)ひとり娘(アンガ)〟ということになる。そして〝モアナ=フェヌア〟とはモアナ語で〝モアナの大地〟という意味だ。つまりモアナ=フェヌア海王国とは海神ヤムの娘が母となり、築き上げた常夏の楽園。


 ゆえに海王国の人々はヤムに感謝し、国の祖たるモアナを母として慕う。


 そう、ここは母なるモアナの大地。


 今なお恵みをもたらし続ける(モアナ)の愛に包まれた、小さくも豊かな大地だ。


〔海よ、月よ、星々よ。今日も私はあなたの唄と、愛のゆりかごに揺られて眠る。海よ、雨よ、太陽よ。今日も私はあなたと歌い、恵みという名の愛を授かる……〕


 そんな海王国の建国神話を歌に乗せ、人々に伝え聴かせるのが歌巫女(タプワヒナ)と呼ばれる娘の使命だと教えてくれたのは、新年祭の準備に勤しむ神官たちの傍らで歌に聴き惚れたウーチェンだった。〝舞台(ブタイ)〟と呼ばれる木組みの上で先程から歌っている少女は、名をプアカというらしい。他の神官たちとほとんど同じ格好をしているから一目瞭然だが、彼女もまたヤムアンガ神殿で暮らす神官のひとりで、歌巫女とは毎年成人前の神官の中から選ばれる神聖な存在なのだという。


「ふわあ……プアカ、おうた、とってもじょうず……」

「そうネ。全部モアナ語のお歌だから、何を歌ってるのか分からないはずなのに、ただ聴いてるだけでうっとりしちゃうワ」

「ふふ、ありがとうございます。実はプアカは去年も一昨年も歌巫女として舞台に立っているのですよ。もっとも再来年には成人を迎えてしまうので、彼女の歌を新年祭で披露できるのは今回が最後ですね」

「ということは彼女は今、十四歳?」

「ええ。そして年が明ければ十五になります」

「海王国では確か、男も女も十六歳で成人なんでしたっけ」

「はい。プアカもついこのあいだ生まれたばかりと思っていたのに、月日が経つのは本当に早いものです」


 ラッティの問いかけにそう答えた神官長の横顔はどこか満足げでありながら、同時に少し寂しそうでもあった。プアカはヤムアンガ神殿で生まれ、神官たちが皆で育ててきた子のひとりだというから、彼女もまた我が子が巣立ってゆくような感傷を覚えずにはいられないのだろう。しかしプアカが歌の練習に明け暮れる『満ち潮の間』では、他にも大勢の神官たちが新年祭の準備に追われている。


 ある者はプアカの歌に合わせて楽器を爪弾き、またある者は何かの葉を編んだり縫いものをしたりと大忙しだ。何でもここにいる神官たちは、日頃の仕事の合間を縫って新年祭で使われる道具や衣装の製作、また出しものの練習などを行っているらしく、みな限られた時間の中で作業を進めようと必死なのだという。


「ふむ、しかしこれはまたずいぶんと賑やかな作業現場ですな。神殿の催しものの前準備というからには、もっと(おごそ)かかつしめやかに行われるものと思っておりました。彼らの手仕事を傍で見学させていただいても?」

「ええ、もちろんですわ。教授が今日見学にいらっしゃることは皆にも伝えてありますので、どうぞご自由に見て回って下さい」

「グニド、あれ! あれ、みて! あそこにあるの、ホヌだよ!」


 神官長から室内の見学許可が下りると、早速ルルがグニドの手を引いてある場所を指さした。ルルの言う〝ホヌ〟とは無名諸島で覚えた言葉で、海亀を指すクプタ語だったはずだ。そしてルルの示す先には、確かに海亀がいる。

 いや、より正確には、海亀の()()()()がいる。

 床に敷物を敷いて腰を下ろし、小さな円陣を組んだ神官たちが手に手に筆や()()を携えて、海亀の甲羅に色を塗ったり絵を描いたりしているのだ。


 さらによく見ると、神殿の壁と同じように美しい波や魚や草花の絵で飾られた甲羅に(きり)によって穴を開け、植物で編んだ縄を通している。あれは一体何をやっているのだろうとグニドらが傍まで行って覗き込むと、こちらに気づいた神官たちが顔を上げ、みな笑顔で「こんにちは(キアオラ)~」と声をかけてきた。


「へえ、ほんとに海亀の甲羅だ。これって何を作ってるんです?」

「こちらは六聖日(ろくせいじつ)の四日目、死者を弔う嘆きの日の〝アノ・フイフイ〟で使われる甲羅舟(こうらぶね)です。アノ・フイフイとは、ハノーク語にするなら〝迎魂祭〟……死者の魂を迎える祭事、とでも申しましょうか」

「甲羅舟?」

「ホホ。甲羅舟とはモアナ語で〝ワイラーカ〟──〝魂の小舟〟と呼ばれる重要な祭具のひとつですな」

「ええ。迎魂祭(アノ・フイフイ)とは海に還った死者たちが、年に一度だけ島へ帰ってくる日を祝う祭なのです。モアナ=フェヌア海王国では、死者の魂は海亀に乗ってやってくると信じられています。ですから当日は亀の甲羅を背負い、死者を歓迎する舞いを踊るのですよ」

「そして日没と共に死者を天界へと還すべく、甲羅舟に乗せて海へと流す……ゆえに毎年こうして新しい舟を(こしら)える必要があるのですなあ」

「へえ~。だけどこんなに綺麗に装飾した甲羅を流しちゃうなんてもったいない。土産物として売りに出せば高値がつきそうなのに──」

「ラッティ、それ以上いけない」

「けど、死者の魂は海亀に乗ってやってくるって話は面白いな。確か無名諸島でも海亀は神の使いだとか言われて神聖視されてただろ?」

「あら、そうなの? まったく違う文化を持つ島なのに、神聖視されてる生き物は同じだなんて何だか不思議ね。無名諸島と海王国は地理的に近いせいかしら?」

「あるいは無名諸島で暮らす人々も、六つの海を何年もかけて回遊しながら、最後には必ず生まれ故郷へ帰ってくる海亀の生態に神秘を感じたのかもしれません。彼らは渡り鳥と同じように、故郷からどれだけ遠く離れても迷わず帰ってこられるのですよ。そして自らの生まれた土地で産卵し、再び海へと帰ってゆく……」

「なるほど……海王国の人々は、その生態から〝死者も海亀と共に故郷へ帰ってくる〟という想像を膨らませたんですね。何だかロマンチック!」

「じゃあ、あっちでヤシの葉を編んでるのは?」

「あちらは〝カラウナ〟。今わたくしが被っているのと同じヤシの葉の冠を作っています。ヤシの木はヤム様の肉体(からだ)の一部から生まれた神聖な木ですので、葉も実も樹皮も、すべて聖なる力を宿すと考えられているのです。ですから神官は必ずこのカラウナを身につけるのですが、あちらは祭事用に生花なども一緒に編み込んで、少し豪華にしたものですね」

「ムウ……ダガ、祭マデ、アト何日モアル。今カラ作ッタラ、花、枯レナイカ?」

「そこはまあ、大丈夫じゃない? 植物なら水の保護術さえかけとけば、半月は持つはずだから」

「ホゴジュツ?」

「氷水系神術の一種だよ。切り花を長持ちさせたり、生の肉が腐るのを防いだりするのに使う術サ。繰り返しかけ続けないと数日から半月くらいで効果が切れちまうけど、ま、新年祭まではあとたったの五日だしね」


 というラッティの講釈を聞きながら、神術の中にはそんな便利なものまであるのかとグニドはいささか驚いた。しかしそれ以上に驚いたのは、こうして話を聞いてみると、すべての物事には本当に理由があるということだ。

 こういう何気ない道具ひとつ取ってみても、そこには何百年にも渡って語り継がれてきた歴史と原点がある。だがそうした歴史を知った上で道具を見たり使ったりしている者は、現代にどれほどいるのだろうか。


(思えばおれも、谷で行われる儀式や語り部(レグニス)の歌にどんな意味があるのかなんてろくに考えてこなかった。あれらが受け継がれてきたのは、一族にとって大切なものだからだということ以外は何も知らない……果たして一族の歴史を今も正しく知る者は、あの谷にどれだけいるんだろうか)


 そう思いを()せた途端、グニドは久しく忘れていたはずの郷愁が湧き上がるのを感じた。こんなことなら死の谷(モソブ・クコル)を飛び出す前に、もっと一族について学んでおくべきだったと今更ながらに後悔する。何しろ竜人(ドラゴニアン)人間(ナム)と違って文字文化を持たないのだ。ゆえにすべての歴史は口伝によって後世へ伝えられてゆく。

 されど言葉だけでは忘れられてしまう歴史や、伝え切れずに零れ落ちてしまう文化がきっと無数にあるだろう。

 グニドはそれを今になって惜しいと思った。自分たちを形づくってくれた祖先の歴史や生きた証が、時間と共に風化して忘れ去られてしまうだなんて。


(だからウーチェンは、そういうものを調べて後世に残すのが自分の仕事だと言ったのか。なるほど、大きな戦いや英雄の歴史は確かに残りやすいが、こういう何てことない風習や名もなき人々の営みは、誰かが記録として残さなければいずれ忘れ去られてしまう。だが放っておけば失われると分かっているものを何もしないでおくなんて、おれでさえ惜しいと思う……)


 そう考えると、ウーチェンやヨヘンがしようとしていることは何だかとても意義深いことのように思えて、グニドはついしみじみと彼の横顔を見つめた。

 先程ウーチェンはグニドにも〝研究に協力してほしい〟というようなことを言っていたが、自分が知る限りの一族の歴史や文化だけでも伝えれば、後世に残してもらえるだろうか。そしてその記録を目にした人間たちが、竜人に対する理解を少しでも深めてくれたなら……。


(おれが人間の歴史や文化を〝面白い〟と感じるように、竜人(おれたち)に興味を持って、歩み寄ろうとする人間が現れたりするだろうか?)


 ところがグニドがそんな物思いに(ふけ)っていると不意にプアカの歌が止み、広間のあちこちからパチパチと拍手が上がった。どうやら今日の練習がひと通り終わったらしく、プアカは舞台脇で伴奏を奏でていた者たちと二、三言言葉を交わすとすぐさま身を(ひるがえ)し、なんとこちらへ駆けてくる。


「マリエさま!」


 かと思えば彼女は神官長の名を呼んで、ぱっと花の咲くような笑顔を覗かせた。

 無名諸島の民ほどではないものの、日に焼けた肌に少女の白い歯はよく映える。

 だがグニドは彼女が走り寄ってくるにつれ、ふと気がついた。プアカは神官長や周りの神官(おとな)たちに比べて、顔に入れられた刺青(いれずみ)の数がずいぶん少ない、と。


「ご苦労様、プアカ。今日の歌声も素敵でしたよ」

「ありがとうございます! あの、この方たちが今朝おっしゃっていた……?」

「ええ。こちらの梟人(オウル)の紳士がエルビナ大学からいらしたウーチェン教授。そして同じ大学にお勤めのマドレーン・マギステル教授と、そのお連れ様の獣人(ビースト)隊商(キャラバン)の皆さんよ」

「えっ……! ま、ま、マドレーン・マギステルってもしかして、あの大魔女ヘレをやっつけた……!?」

「あら、新年祭の主役にまで名前を知られてるなんて光栄ね。そう、私が『魔女殺しの魔女』でお馴染みのマギステルよ」

「わああ……! こ、こちらこそ、お会いできて光栄です!」


 と力いっぱい言うが早いか、プアカは褐色の頬を紅潮させてマドレーンにお辞儀した。『魔女殺しの魔女』とはまた何とも物騒な肩書きだが、自らそう名乗ったマドレーンは相変わらず悪びれもせずににこにこしている。しかしいざアビエス連合国に来てみると、誰もが当たり前のようにマドレーンの名を知っていて、彼女は本当にこの国の英雄なのだなとグニドは今更ながらに驚いた。マドレーンといいヴェンといい、普段の言動からはまったくそんな風には見えないのに。


「ウーチェン教授もはじめまして。マリエさまからもうお話があったかもしれませんが、わたしが今年の歌巫女を務めるプアカ・メネです。よろしくお願いします」

「ホホ、これはこれは礼儀正しいお嬢さんだ。こちらこそ、どうぞよろしく」

「えっと、それから……そちらの獣人隊商の皆さんも、教授と一緒にアルビオンからいらしたんですか?」

「いいや、アタシらは北西大陸から旅して来たのサ。アタシは隊長のラッティだ。どうぞよろしく、歌巫女サマ」

「えっ! ほ、ほ、ほ、北西大陸からのお客さま……!? わっ、わわっ、わたし、連合国の外から来た方とお会いするのは初めてです! ようこそ、モアナ=フェヌア海王国へ!」


 プアカはなおも興奮気味に声を弾ませると、満面の笑みを浮かべてグニドらを歓迎してくれた。さっき神官長も言っていたが、どうやら他の大陸から連合国へやってくる旅人というのはかなり珍しいようだ。

 まあ、事前に聞いた話によれば、他国の人間たちは〝魔女〟と呼ばれる口寄せの(マドレーン)(たち)の力を借りて発展したアビエス連合国のことを不気味がっているらしいから、自ら進んで来てみようと思う者は少ないのだろう。

 それも連合国人が竜人と同じように誤解されているせいだな、と残念に思いながら、グニドもまた仲間に続いてプアカに簡単な自己紹介をしておいた。


「さて、ウーチェン教授。本日はまずこのプアカから歌巫女にまつわる話を聞きたいとのご所望でしたね。そこでご提案なのですが、ここから先は彼女に神殿内を案内してもらうというのはいかがでしょう?」

「ホウ、プアカ君に?」

「はい。彼女は生まれたときからずっと神殿で暮らしてきましたから、ここのことは下手な神官よりも詳しいのです。加えて神殿の内部はかなり広大ですので、道すがらプアカの話を聞くのにちょうどよいかと」

「わ、わたしの説明で不足があれば、明日マリエさまが改めて教授をご案内して下さるとのことなので……わ、わたしのおうちでもあるヤムアンガ神殿を、ぜひ紹介させていただきたいです!」


 と、ほんのり緊張した様子で、されどハキハキとそう話すプアカを見つめたウーチェンは、公衆浴場(タプイア)でルルが神殿に興味を示したときと同じように()を細めた。

 かと思えば右手の爪の先で軽く眼鏡の位置を整え、(まぶた)弓形(ゆみなり)にすると、まだ幼い歌巫女へ微笑みかける。


「ふむ。なるほど、そういうことならぜひお願いしよう。皆さんはいかがなさいます? もう少しこちらで楽器や神話劇の練習を見学していかれますか?」

「うーん、悩ましいな。アタシらは明日には海王国を離れるから、碧都(へきと)の新年祭は見られない。となると、せっかくならここで観ていきたい気もするけど……」

「だけどこのあとの練習では、主役のプアカさんが不在になるのよネ? だったらなかなか入れない神殿の深部を見学させていただくのもアリだと思うワ」

「ルルも、ポリーといっしょ! プアカのおはなし、ききたい!」

「……じゃあ、決まりかな」

「いいんじゃない? 劇は今年は無理でも、毎年観られるチャンスがあるんだし」

「ですね。んじゃ、アタシらも教授とご一緒させてもらいます」


 とラッティが皆の総意を伝えれば、ウーチェンは笑って頷き、プアカも嬉しそうに目を輝かせた。もうすぐ成人すると言っても、十四歳といえば人間の中ではまだまだ子供だ。ゆえにきっと彼女も知らない土地からやってきた客人や、連合国の英雄であるマドレーンと話をしてみたかったのだろう。


「それじゃあ、早速ご案内します!」


 という彼女の明るい声に促され、グニドたちは再び繰り出した。


 海神ヤムの家であり、プアカの家でもある神殿へ。


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