第一〇八話 ビバ・ノンノン
この国に来てから、一体何度ルルの「ふわあ~!」を聞いただろう。
上陸してからまだ四刻(四時間)しか経っていないのに、もう二十回か三十回は聞いたような気がする。例によって公衆浴場の入り口をくぐると、眼前に広がる青と白の光景にまたもルルが「ふわあ~!!」と叫んだ。そうして素足のまま──もっと言えば全裸のまま濡れたタイルの上でぴょんぴょん跳ねるものだから、ポリーが慌てて「ルルちゃん、危ないわヨ!」と押し留めている。
浴場の床や壁に張られた海王国名物の青タイルは、確かに美しいけれども光沢があってツルツルしていて、濡れた足で走ったりすると普通にコケるのだ。
ゆえに脱衣所でも至るところに『危険ですので浴場内では走らないで下さい』という貼り紙がされてあったというのに、いつの時代も子供はそんなのお構いなし。
まあ、そもそもルルは近頃だいぶハノーク語が達者になってきたものの、読み書きの方はまだまだ勉強中だから、あの貼り紙が読めたかどうかは怪しいものだが。
「ポリー、みて! まっしろだよ、雲みたいにまっしろ! まっしろしろすけ!」
「し、しろすけ……? ウフフ、でもそうネ、湯気でどこも真っ白だわネ。視界もきかなくって危ないから、むやみに走ったり飛び跳ねたりしちゃダメヨ」
「てか、なんだ。脱衣所にも全然人がいないなとは思ってたけど、ほんとにアタシらだけの貸し切りじゃん。誰もいないや」
「まあ、海王国では夕方くらいに温泉に入って、入浴帰りにバザールで一杯やって帰って寝るっていうのが普通だからね。この時間はどこもこんなものよ」
「じゃあ、マギステル教授がルルちゃんにかけた希術も必要なかったんじゃないですか? ほら、あの胸の神刻を隠すとかいう……」
「あー、うん。確かに要らなかったかもだけど、あとから他の客が来ないとも限んないし、一応希術はそのままにしておいてもらってもいいかな、マドレーンさん」
「ええ、別に構わないわよ。全身隠して透明人間にするとかならともかく、神刻を隠すだけならほとんど希霊も使わないから」
「ありがとうございます。てか、希術って透明人間まで作れるのか……」
「基本的に希えば何でもできちゃうのが希術ですもの。大抵のことは希霊さえあればできちゃうわよ。ま、疲れるからやらないってことも往々にしてあるけれど、透明人間をひとりふたり拵えるくらいはかわいいものね」
「いいなあ、口寄せの郷の魔女。アタシらも希石を使わずに何でもできちまえば楽なのに……」
「ラッティ、きて! おみずがまっしろ! でも、あったかい!」
「ああ、ハイハイ、今行くよ。ってか、湯船に浸かる前にまず体を洗わないと。ほら、アンタもこっち来な」
と、白濁した湯を湛える浴槽の前に座り込み、大はしゃぎしているルルをひょいと引っ張り上げて、ラッティはまず彼女を洗い場へ連れていこうとした。
が、これが意外に重い。普段グニドが薪でも抱えるみたいに軽々と抱き上げるのを見ていたから、てっきりもっと軽いものだと思っていたのに、全然持ち上がらない。人間の子供は獣人の子供と比べてずいぶんのんびり育つものだなと常々思っていたけれど、あれは誤った思い込みだったのかもしれない。
まあ、ルルの場合は獣人隊商に来る前は痩せすぎで、背も低く栄養失調気味だったから、ようやく年相応の体格になってきたと言えばそれまでなのだが。
「ふわあ~!」
なんて感慨に耽りながらルルを腰かけに座らせて、頭から思いきりぬるいお湯を浴びせてやる。ここは碧都マリンガヌイの宿屋街にほど近い公衆浴場。
しかもただの大きな風呂ではなく、活火山の多いモアナ=フェヌア海王国ならではの温泉に入れる浴場だ。海王国はこの温泉文化が有名で、こういった入浴施設も観光名所のひとつになっている。
浴場によっては混浴だったり、開け放しの屋外にあったり、何なら〝秘湯〟と呼ばれる隠れた名湯──何でも人の手がまったく入っていない、自然にできた温泉らしい──なんかもあったりして、自分好みの温泉を探したり選んだりするのもまた海王国観光の醍醐味だった。その数ある温泉の中からラッティがここ『白雲亭』を選んだのは、アンガ・バザールから近くて男女別浴で、しかも売店で買える自家製麦酒がとびきりうまいからというのが大きい。
ラッティとしてはうまい酒を飲めさえすれば混浴だろうが別浴だろうがさして気にも留めないのだが、今回はマドレーンやアルンダもいるし、何よりポリーが混浴を嫌っている。海王国式の混浴は男女共に湯着を着ての入浴が一般的だから、それなら別に一緒に入ってもよさそうなものだとラッティなどは思うのだが、ポリーはやっぱり恥ずかしいらしい。
(まあ、何よりアタシやルルはいいとしても、マドレーンさんのアレは野郎にとっちゃ目に毒だしなあ)
と、ルルの頭目がけてさらに湯をかけながら、ラッティは隣で体を洗っているマドレーンの体を盗み見た。売店で購入してきた高級石鹸を惜し気もなく使い、白い泡で全身を飾ったマドレーンの肌は、果たして二百年以上も生きているというのは本当だろうかと眉をひそめたくなる程度にはきめ細やかで張り艶がよい。
おまけに出るところが出すぎていて、締まるところが締まりすぎている肉体の造形は、同性のラッティでさえ目のやり場に困るほどだった。
かつて北の大地で別れた豹人のキーリャもなかなか魅惑的な肉体の持ち主だったが、別にお互い裸でいても何とも思わなかったのは、恐らく彼女が全身に上等な豹柄の毛皮をまとっていたおかげだろう。
「ラッティ、これすごい! あったかいおみずシャーッて出てくるの、なんで!?」
などとラッティがとりとめもないことを考えながら、花の香りがする石鹸でルルの髪をごしごし洗ってやっていると、泡まみれのルルが目の前の壁に取りつけられたシャワーを指差しながら興奮気味に尋ねてきた。
そんな彼女を見下ろして、おいおい、今は目を瞑ってないと泡が入って危ないぞと思いながらも、そういえばルルはラムルバハル砂漠を出てからというもの、風呂という文化に親しむのは初めてではなかったかと思い至る。
無名諸島には当然のように入浴なんて文化はなく、さらに北のルエダ・デラ・ラソ列侯国でも、義勇軍が拠点としていたサン・カリニョの公衆浴場はかなり前時代的なものだった。というのもこのタプイアのように巨大な施設ではなく、川沿いに建てられた掘っ立て小屋──一面しか壁がなかった──に衝立を並べて、その間に置かれた木桶に水と焼き石を入れて湯を沸かし、湯舟代わりに使うという、公衆浴場というよりは沐浴小屋と呼ぶ方がしっくりくる代物だったのだ。
風呂と言えばでかい石切りの浴槽に湯を溜めて体の芯まであったまる、というのが一般的な北国で育ったラッティとしては、アレを風呂だと言い張るのはどうしても抵抗があった。そういう観点から言えば、ルルを風呂らしい風呂へ連れてきたのはこれが初めてということになる。とすれば今頃男湯では、グニドも初めて目にする大浴場に度肝を抜かれているのだろうなとほくそ笑みながら、ラッティもまた壁を這う真鍮製の配管を見上げて言った。
「ああ、うん、コイツは〝シャワー〟って言って、壁の後ろにお湯を溜めとく石室があるんだよ。んで、この管はそことつながってて、鎖を引っ張ると中の弁が開いてお湯が流れ込んでくる。ソイツがあのたくさんある穴から一斉に溢れるから、雨みたいになって降ってくるのサ」
「〝しゃわー〟……! ルル、しゃわー、すき! あったかくて、シャーッてなるの、きもちいい!」
「そりゃよかった。エマニュエル広しといえど、シャワーつきの公衆浴場なんて贅沢なモンに入れるのは連合国だけだからな。おまけに海王国の風呂はシャワーまで温泉だし」
「おんせん?」
「地下から自然と沸いてくるお湯のことだよ。さっき船から島を見下ろしたとき、島の北部にでっかい山があっただろ?」
「うん!」
「あの山は中身が常に燃えてる〝火山〟ってやつでサ。その火山の熱が地下を流れる水をあっためてお湯にしてんだ。それが温泉」
「えっ。おやまがもえるの?」
「おう、燃える。しかも時々爆発する。でも、そうやって何度も何度も爆発するおかげで、溶けた土が地上に流れ出て、海で冷えて固まって、このモアナ=フェヌア海王国って国は生まれたのサ。さ、分かったらそろそろ髪を濯ぐよ。目ェ瞑んな」
「ヤーウィ!」
ラッティがシャワーの引き紐を手に取りながらそう言えば、ルルは大はしゃぎで目を閉じた。それを確認してからラッティもぐいと鎖を引いて、蓮口から溢れた温泉でルルの髪の泡を流してやる。
そうして髪が綺麗になると、腰かけの上のルルはぶるぶると頭を左右に振って水気を飛ばした。これは恐らく竜人流の洗髪術だ。グニドも水を浴びたあとはよくこうして鬣の水気を飛ばしている。が、人間がやると少々はしたないから、いずれはやめさせないといけないなとラッティは思う。
ともあれルルの髪と背中を流し終わったら、ラッティも自身の体を洗い、特に尻尾は念入りに泡立てて毛皮を梳いてから浴槽へ入った。
こういう屋内タイプのタプイアの浴槽は、大抵の場合ふたつに仕切られていて片方が人間用、もう片方が獣人用となっている。わざわざ浴槽が分けられているのは獣人用の浴槽の方が汚れやすく、頻繁に湯を抜いて掃除する必要があるからだ。
何しろ獣人の大半は竜人や鰐人と違って、全身が毛皮で覆われている。
この毛が抜けて湯舟にたくさん浮いてしまうから、清潔さを保つためにはことあるごとに湯を入れ替える必要があるわけだ。
ゆえに半人半獣のラッティも、こういうときは獣人用の風呂に入る。生粋の狐人に比べれば、半獣のラッティの体はほとんど人間に近いと言って差し支えないものの、しかしふさふさの尻尾がある以上はやはり気を遣わざるを得ない。
といっても湯を浴びた今、ラッティの尻尾はいつもよりしんなりしていて、自慢のふさふさ感は鳴りを潜めている。一緒に獣人用の浴槽に浸かるポリーも同じだ。
普段はふかふかの毛に覆われて、全体的にふっくらしている彼女も今は、急激に痩せてしまったのかと目を疑うほどほっそりしている。
いつもは毛皮に隠れている体のラインがはっきりと表れて、ぬいぐるみが急に人になってしまったような印象を受けるから何だか慣れない。
風呂桶を湯舟代わりにしてぷかぷか浮いているアルンダは、人間と違って乳房が膨らんでいないこともあり──何しろ多産な鼠人族は乳が六個もある──濡れて毛皮がぺったりしても、やっぱりネズミだな、という印象から変わらないのに。
「はあ~、いいお湯……って言うにはちょっとぬるいけど、やっぱ海王国ではこんくらいがちょうどいいよな。北国みたいにアツアツの風呂じゃ、外の暑さもあってあっという間にのぼせちまうし」
「そうネ……無名諸島よりは多少マシだけど、やっぱりこのあたりの島はワタシたちには暑すぎるから、ぬるめのお風呂がかえって気持ちいいワ。ずっと温泉に浸かりながら移動したいくらい」
「アハハッ、だろうね。アタシなんて尻尾だけでも暑くてムズムズしてたまんないもん。ただ暑いだけならともかく、無名諸島や海王国は湿気もすごいからなあ」
「ねえねえ、ラッティ、おんせん、あったかいけど、白いのはなんで?」
「ん? そりゃ、土の中の色んなもんが溶け込んでるからサ。温泉によっては透明なところもあるし、黄色だったり緑だったりするとこもある。海王国だけでも色んな色の温泉があって、色ごとに効能も違うらしいよ」
「こーのー?」
「ふふっ。温泉の色は溶け出した神様の力によって変わるから、色ごとに授かる恩恵があるのヨ、ルルちゃん。白い温泉は体に溜まった汚れや邪気を取り除いて、お肌も内臓もピカピカにしてくれるって言われているワ」
「ピカピカ!?」
人間用と獣人用の浴槽の仕切りに身を乗り出したルルは、ポリーが発したピカピカという形容がよほど気に入ったのか、大きな目をキラキラさせていた。まあ、別にそんな効能に頼らなくたって、まだまだ子供のルルの肌は白くてツヤツヤだ。
むしろ白湯の美白効果とやらで、ただでさえ白すぎる肌が余計に白くなってしまうかもしれない。グニドと死の谷を脱出するまでずっと日の当たらない地下にいたというルルの肌は、直射日光に当たり続けると火傷のようになるばかりでまったく焼ける気配がないのだ。ただラッティはそのあたりのことも含めて、連合国本土に着いたら一度、ルルを腕のいい医者に診てもらうべきかもしれないと考えていた。
(カヌヌのときもそうだったけど、推定年齢とか体の状態とか、一度ちゃんと診てもらうに越したことはないよな。連合国にある最先端の医療はエマニュエルで一番信頼できるし……問題は天授児ってことを隠して受診できるかってとこだけど)
グニドの話ではルルは推定十歳で、谷では主に豆類や芋類、ドライフルーツを与えて育てられていた。
基本的に生肉しか食わない竜人たちは人間の食事に疎く、何を与えればいいか分からなかったから、砂漠を渡る旅人や商人を襲っては彼らが〝食糧〟と呼ぶものを掻っ剥ぎ、ひとまずそれらを与えて飢えを凌がせていたという。
果たしてそんな環境で育ったルルの体に異常はないのかどうか、見極めるにはやはり医者を頼るのが一番だ。今のところは健康的で特に問題ないように見えるが、何事も素人判断はよくない。幼少期の栄養失調が原因で、体の生育が普通の子供より遅れて見えるのも気がかりだ。もっとあれを食わせた方がいいとか、これをさせた方がいいとか、具体的な助言が聞けるものなら聞いておきたいし。
(って、アタシもすっかり保護者が板についてきちまったな……場合によっちゃ、グニドとルルは連合国に置いてくことになるかもしんないのに)
とそこでふと我に返り、ラッティは苦笑しながら手拭いを頭に乗せた。港を出た直後の騒動でグニドも理解しただろうが、アビエス連合国はやはり獣人にとっての楽園だ。多少の地域差こそあれ、基本的にはどこへ行っても人間と同様に扱われ、尊重され、当たり前に存在することを許される。グニドとルルが今後もふたり一緒に生きることを望むなら、この国ほど安全に暮らせる土地は他にはない。
ゆえに連合国をあちこち見せて回ったら、ラッティはグニドに「ここに残るか」と尋ねてみるつもりだった。獣人隊商には、今も世界中で虐げられている獣人たちに手を差しのべるという使命がある。だからラッティたちは今後も旅を続ける予定でいるものの、グニドやルルを無理に付き合わせるつもりはない。
ふたりが連合国に留まりたいというのなら、喜んで送り出す心構えだ。
少しだけ寂しくはなるけれど、代わりにクワトという頼もしい用心棒が新たに加わったことだし、キャラバンの旅は今までと変わることなく続くだろう。
「だけど、やっぱりちょっと気がかりよね」
ところが不意にラッティの感傷を遮った声がある。
何事かと目を丸くして振り向けば、気になる発言をしたのは湯舟の段差に腰かけながら、長く艶かしい脚を優雅に組んだマドレーンだった。
「気がかりって何がです、マギステル教授?」
「この子の胸についてる神刻よ。確か万霊刻……とかいうんですっけ? エレツエル神領国のカラスどもは、彼女が生まれたときからコレを狙ってるんでしょ? ということは、やつらが執着するほど特殊で稀少な神刻ってことよね」
「〝カラス〟?」
「《兇王の胤》とかいうイカレ洗脳集団のことよ。やつらは連合国にもたびたび乗り込んできて、ユニウスから《愛神刻》を奪おうとしてるの。その見た目が真っ黒で、神が何だ、楽園が何だと喚いてうるさいのが鴉っぽいから〝カラス〟」
「ああ、なるほど……」
「だ、だけど、ユニウスさまも《兇王の胤》に狙われているなんて初耳ですワ。仮にも連合国の宗主さまを狙うだなんて……!」
「神領国人は自分たちの意見に従わない相手はみんな魔界の手先って決めつけて排除しようとするからね。ユニウス様だってれっきとした博愛の神の神子なのに、希術を容認してるってだけで異端扱いよ。恐怖政治で人々を従わせるエレツエル人なんかより、ユニウス様の方がよっぽど神々の教えに忠実に国を治めてるのは誰の目から見ても明らかなのに」
「まあ、神様至上主義の連中にしてみれば、口寄せの民の力は神々の奇跡を否定するものに見えるんでしょ。希術は神術と違って天界に対する信仰心がなくとも使えるし、希石さえあれば術者の資質も問わないから、適合者を選ぶ神刻より使いやすい。そんな技術が広まれば、いずれ人々が神への信仰を必要としなくなるって焦る理屈は分からなくもないわ。でも〝神の名の下に〟ってお題目さえあれば、差別も殺人も許容する神様なんて信じる価値があるのかって言われたら、ねえ?」
言いながらマドレーンは自身の膝で頬杖をつき、もう一方の手をルルへ向けて、人差し指ですうっと胸もとを拭うような仕草をした。すると隠れていたはずの万霊刻が姿を現し、自然、ラッティたちの視線もそちらへ釘づけになる。
四つの菱形が花びらのように集まって、二重の円で囲まれた神刻。菱形はそれぞれ青、赤、黄、緑の四色に塗り分けられていて、風車の羽根のようにも見える。
タプイアへ来るに当たって、入浴時にはどうしても裸にならなければならないことに思い至ったラッティは、アルンダにもこの神刻のことを明かす許可を事前にグニドからもらっていた。アルンダは飛空船技師という仕事柄、国や最新希工学技術の機密に触れることが多いから、口の堅さは国家のお墨つきだ。
少なくともお喋りで口の軽い兄よりはよっぽど信頼できる。
加えてマドレーンには、ルルが列侯国で《兇王の胤》に襲われたとき、万霊刻のことを知られてしまったから──瀕死の重症を負ったルルを治療してもらうためには仕方のないことだった──今ここにいる面々ならば、この神刻について少し話をしてもいいだろうと踏んで、ラッティはじっとルルの白い胸もとに視線を注いだ。
「……実はアタシらが連合国を目指して旅してたのは、識神図書館へ行けばコイツのことを調べられるんじゃないかと思ったからなんだ。グニドとルルがキャラバンに入った直後は、神刻の名前も分かんなくて……一応〝万霊刻〟って名前らしいってことが分かったのは、偶然列侯国のゴタゴタに巻き込まれたおかげというか、怪我の功名みたいなもんで」
「そうねぇ。少なくとも万霊刻なんて神刻は私も聞いたことがないわ。識神図書館にある神刻辞典に載ってれば、見覚えくらいはあると思うんだけど……あれにも記載がないとすると、あとは禁書を見るくらいしか手がないんじゃないかしら」
「禁書?」
「ええ。識神図書館の地下には宗主と図書館長とエルビナ大学学長の、三人の許可が下りないと入れない禁書庫があってね。そこに眠ってる古い蔵書の中になら、あるいは何か手がかりがあるかもしれないけれど」
「ええっ……そ、そ、そんな大変なところに、ワタシたちみたいな一般人はさすがに入れませんワ……! 識神図書館の禁書庫って、確かシャマイム天帝国時代の書物や、魔界の書物が保管されてるって噂の書庫ですよネ? だけどワタシたちは、そもそも連合国民でもないですし……」
「まあ、入庫許可を取るだけなら私が手続きしてあげるけど、あそこに入るならあなたたちをサヴァイに引き合わせないといけないわね。禁書庫へ入る際には、図書館長か大学長の同伴がないといけない決まりになってるから」
「サヴァイさん……ってのは、識神図書館の館長さん?」
「いいえ、大学長よ。つまり私の直属の上司」
「上司といっても、シエンティア学長も教授の前じゃ形なしですけどね……」
「まあね~。何せあいつもアビエス大戦時の同志だし、お互い肩書きなんてあってないようなものよ。あ、ちなみにサヴァイはヴェンと同郷なんだけど、無名諸島滞在中、あの酔っ払いの世話はあなたたちがしてくれたと教えれば〝申し訳ない〟って泣きながら入庫許可を出してくれると思うわよ」
「あ、そういう感じの人ですか……」
ラッティはまだ名前しか知らないサヴァイなる人物に、心の底から同情した。
同じ郷里の名を背負うヴェンにも、立場上は部下であるはずのマドレーンにも好き放題されて、きっと年中胃痛と戦っている人なのだろうなというのが容易に想像できてしまって、何やらかえって申し訳ないような気さえする。
けれども宗主ユニウスにも大戦の同胞として絶大な信頼を置かれているヴェンやマドレーンが、エルビナ大学の学長とまで知己というのは僥倖だ。
ラッティは大人たちの会話についていけず、きょとんとしているルルの頭に手をやって、その青みがかった髪を撫でやった。世界中のありとあらゆる知識が揃うと謳われる識神図書館へ行けば、この子の抱えた運命がついに解けるかもしれない。
そうすれば、グニドとルルがもっと安心して暮らせる手立ても見つかるはずだ。
ラッティはそこに賭けたかった。
自分が望んで背負ったわけではないものに苦しめられる人生なんて、エマニュエルに生きるすべての人の上からなくなってしまえばいいと、今も切に思うから。




