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出着点 ~しゅっちゃくてん~  作者: 東雲綾乃
第2期 第5章 遠くにある夢
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枝分かれ

「じゃあ、そろそろ陽葵は寝とけ」

「はぁーい」


 毎週火曜日恒例の深夜練習だ。丞と麗奈が二人で陽葵と翔哉のコーチをする。

 世界で戦う選手が満足のいく練習時間を確保できない日本で練習している翔哉が丞にお願いして、より多くの目が欲しいということで丞が麗奈を誘って始まった。そして最近では翔哉の滑りを参考にしたいという陽葵の意見と翔哉の滑りを近くで見ておくべきだというコーチ陣の考えが一致したことにより前半は陽葵もともに練習している。

 深夜練習ということで、眠気のピークを迎えた陽葵が靴を脱ぎエッジを拭いて練習バッグに仕舞うと、リンクサイドのベンチで横になる。さすがに小学生がこの時間まで起きているのは、というより練習しているのは身体にもくるはずだ。陽葵は横になると同時に寝息を立てていた。


 それを見て麗奈も帰宅の準備を始める。

 残り練習時間は一時間と少しだ。残りの時間は丞と翔哉二人きりになる。

 タイミング良く製氷も始まったため、翔哉も一度氷から上がって休憩している。丞はさりげなく翔哉の元に向かった。





「丞コーチ、少しお時間ありますか?」


 丞の姿を目の端に捉えた翔哉が手にしていたボトルを置き立ち上がる。まさかの翔哉から話しかけてきた。予想外な出来事に思わず丞は目を瞬かせる。


「……いいよ」









 ベンチに向かい合って座る。少しどんよりとした空気が広がる中丞は口を開いた。


「翔哉、お前の話の前に僕からいいか?」                                    

「はい」

「これはどういうことだ」

「……!!!」


 丞はスマホを翔哉の手にポンと置く。画面を見た翔哉が真っ青になる。


「ヴォルフガングから送られてきた」

「……申し訳ありません」

「そういうことか?」


 話すと決めたところまではいいものの、やはり口に出すのが怖くて曖昧に言った丞の言葉を翔哉は間違えず受け取った。

 そして躊躇することなく頷いた。


「はい。コーチが許可してくださるなら俺はそうしたいと思います」

「…………」


 丞は押し黙る。

 翔哉も口をつぐむ。


「何故ヴォルフガングなんだ?」

「……丞コーチの英雄だから」

「……っ!!」

「もちろん他にも理由はありますよ? それだけで大事なコーチを変えようなんて思わないですから。丞コーチと叶えられなかった目標、ヴォルフガングは一緒に達成しようと言ってくれたんです」

「翔哉、お前の目標は?」

「もちろん、オリンピックでの金メダルです。ほんとなら丞コーチと取りたかった。前はあと少しだったのに、今回は十二位。次こそは絶対に取りたいんです」

「僕も翔哉と二人三脚でその目標に向かって頑張ってると思ってたんだけど……」

「それにもともと丞コーチとはもういれなかったはずだったじゃないですか」

「……?」

「だって、俺と丞コーチが一緒に練習するのは柚希さんが選手を引退して丞コーチが新潟の神社に行くまでっていう約束だったでしょ?」

「それはもうなかったことになってるじゃないか」

「そうですか? 口ではそう言っていても実際はそうじゃないと思いますよ? 陽葵が来てすぐに悟りましたもん。丞コーチには、まだ柚希さんが一番なんだなって。俺が一番になれてると思ってたけど、丞コーチにはやっぱ羽澄家が何よりも大切なんだなって」


 翔哉の口から紡ぎ出された言葉に丞は微かに目を見開いたまま翔哉の目を呆然と見つめてしばらく固まっていた。

 翔哉が口にした言葉、そして微かに笑みを浮かべているその表情からは丞や陽葵を責めてるようには感じられなかった。


 それでも翔哉の専属コーチだったのに、翔哉への許可をとらずに独断で陽葵のコーチとなったのは丞の責任だ。

 翔哉は驚きながらも陽葵を受け入れてくれた。陽葵が特別だと思い込み視野が狭まっていたこと、どれ程翔哉の心に気付いてやれていなかったのかということを嫌でも突きつけられた。


「翔哉。ごめんな。辛かっただろ」


 翔哉は無言で首を縦に振った。


「……陽葵が来るまではコーチは俺を第一に考えてくれてました。だけど、あいつが来てから二人で時間を分けるようになって……オリンピックでも結局コーチの理想の滑りはできなかった。何年間も俺は足踏みしてたんです。そんなときにヴォルフガングが声を掛けてきた。自分のとこに来ないか? って。丞コーチが尊敬してて、丞コーチを尊敬してたヴォルフガングのところなら俺はまだ頑張れるかな……って」

「僕がこれからまた翔哉だけのコーチに戻るって言ったらどうする?」


 今度は翔哉の首は左右に振られた。


「いいえ。それは陽葵がかわいそうです。陽葵には丞コーチが必要だ。陽葵は僕よりももっともっと大きくなれる。そのそばには絶対に丞コーチの存在が必要です。……だから、俺は少し離れたところに行ってみることにします」

「生徒に気を遣わせるんて……僕はコーチとして失格だね」

「…………」

「翔哉。今の僕が言っても説得力ゼロだけど……僕が柚希ちゃんと結婚するって麗奈コーチに伝えたときこう言われたんだ。いつでも帰ってきなさいって。だから、僕もコーチになって初めて会うことのできた運命の相手に伝えたい。いつでも帰ってきていいから。みんなで待ってるから。だから今は思いっきりヴォルフのとこで羽ばたいてきて」

「二年後のオリンピック。たぶんそこが俺にとって最後のシーズンになります。だからこそ、今まで支えてもらった、俺にスケートの楽しさも厳しさも……すべてを教えてくださった丞コーチと行きたかった。だけど、俺ももっと広い世界を見ておきたいんです。一緒に仕事をするときのために」

「一緒に?」

「はい。俺のことを世界に連れていってくれた丞コーチと、陽葵を世界に連れていってあげたい」


 翔哉が笑った。吹っ切れたような明るい笑みだった。その目には曇りも影もなかった。ただひたすらに目標に向かって全力な、丞が他の誰よりも知っている出会った頃と変わらない丞にとって初めての愛弟子の顔だった。


「コーチ。さっき言いましたよね? いつでも帰ってこいって」

「うん。言ったよ?」

「たぶん本当にすぐです。その時は陽葵をチャンピオンにするための手助けを俺にもさせてください」

「……二人で待ってる」









 その日の夜、丞はヴォルフガングからのメールをもう一度見直した。








 親愛なるタスクへ


 お久しぶりだね、元気にしてたかい?

 唐突な話で申し訳ないが、君のところのショウヤ・メグロを僕に託してくれないか?

 翔哉は前向きに検討してくれている。

 オリンピックから……つまり最近、ショウヤが低迷しているのには何か理由があるのだろう。


 僕に預けてくれたなら僅か一年でショウヤを再び世界一へさせて見せよう。


 ショウヤはまだリンクにいるべきだ。


 君がこの提案をショウヤ同様に前向きに検討してくれることを祈っているよ。


 ヴォルフガング・フシュケ









 そして丞はスマホに迷いなく文字を打ち込み始めた。









 僕の英雄 ヴォルフガング・フシュケへ


 こちらこそお久しぶりです。


 翔哉と話をしました。

 彼には才能がある。それは僕が一番良く知っています。それを伸ばしきってやれなかったのは僕の力不足です。


 僕は翔哉に感謝しています。僕をコーチとして世界一に連れていってくれたのは翔哉だから。彼はいつも言ってくれる。僕が彼を世界に連れていってくれたと。だけど、僕は思っています。彼が僕を世界に連れていってくれたと。


 ヴォルフ、お願いします。彼をまた輝かせてあげてください。そして、彼に栄光を再び与えてください。

 スケート靴を手にリンクへと走ってくる彼を見つけ出した彼の最初のコーチとしてお願いします。


 お二人の向かう先が幸せに満ちているように願っています。


 九条丞

翔哉との溝。

丞の手を離れることを翔哉は選択しました。


陽葵のまえにあった大きな背中は違う世界へと飛び立とうとしています。

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