かつて貴方は一番だった
柚希と咲来、紫苑の母である羽澄智恵は車のブレーキ音に気がついた。
聞きなれていた音だ。懐かしい音だ。気のせいかもしれない。
それでも、一人の男の姿が浮かんでくる。その姿を智恵は頭を振って頭の隅に追いやった。
今日来る予定に人は紫苑という思いがけない例外を含めて全員到着している。不思議そうな色を目に浮かべながら麻緒が様子を伺いに行く……麻緒はしばらくすると困惑した顔で智恵のもとに真っ直ぐに戻ってきた。
「奥様……いかがいたしましょうか」
「どなたがいらっしゃったの?」
「いや……見ていただく方が早いかと」
「あなたがそう言うなんて珍しいわね」
「お手数お掛けします」
「いいのよ、別に」
智恵は廊下を歩き出す。
玄関先には確かに人がいる。麻緒が戸を開いた。
街灯に照らされたその顔を見たとき、智恵は言葉を発せられなかった。
ブレーキ音は嘘を付いていなかった。
それは、十五年前まで二人三脚で歩んできた、大好きな、今でも忘れられない智恵の元旦那・羽澄梗平だった。
「久しぶりだな」
「あなた……」
「夜分にすまない」
智恵は首を振る。
「いいのよ。だけど……どうして?」
「紫苑、来てるだろ」
「……ええ」
「紫苑に言われたんだよ」
「……!!」
「何事もなく過ごしていたか?」
「ええ。あなたが麻緒のこと連れて行けと言ってくださったから」
「そうか」
「でも、いろいろあったわ」
二人は暗闇の中、見つめ合う。何を言えば良いのか分からなくなった智恵の脳裏にある人が蘇ってきた。
新聞社から神社の世界へ入り、右も左も分からない智恵を厳しくも温かく導いてくれた大切な人……須野原たゑである。梗平と別れ、実家に戻ってきても娘を智恵に付けてくださった。麻緒がいなかったらここまで頑張ってこれなかった。
「たゑさんはお元気ですか?」
「ああ。結構な年だが相変わらずだ」
「だいぶ変わっているのでしょうね……」
「こちらもだいぶ変わっているだろう。咲来は結婚したそうだな。柚希は金メダルだし。自慢の娘たちだ」
梗平が躊躇いがちに言い出す。
「お客様たくさんいらっしゃっているのは知ってる。だが、少し入ってもいいか?」
「まぁ、私としたことが……いくらあなただといい、お客様を戸外で引き留めて話すなど、たゑさんに知られればなんと仰られたでしょう」
「間違いなく雷落ちていたな」
梗平が軽く笑う。
智恵は躊躇いを捨てて家に梗平を招き入れた。
「いらっしゃいませ、ようこそおいでくださいました」
「お邪魔する」
そして、二人は家族と客が待つ広間へと向かった。
麻緒が大きく扉をあける。
まさにまさに柚希と栞奈が階段を下りて来るところだった様だ。
中には三者三様の顔で皆がこちらを見つめていた。
柚希と咲来は唖然、凌久と丞と結城姉妹は疑問、そして紫苑は笑顔。
知っていそうな紫苑に問う。
「一体何がどうなってこうなったのかしら? 教えてくださらないかしら?」
「今まで母さんのことは父さんを捨てた人だと思っていたけど、柚希と会って考えが変わったんだ。もう一度、二人に会って欲しいって。だから、今日を利用させてもらいました」
紫苑のあとを梗平が引き継ぐ。
「私も最初は来る気などさらさら無かった。だが、出発前に紫苑がこれを渡してきたんだ」
そう言って梗平がポケットから出したのは小さな一つの箱だった。
そして、その箱は確かに智恵も見覚えがあった。
「そして、紫苑は言ってきた。父さんが母さんのことを嫌っているならこれは置いていないはずだ、と。母さんのことを忘れてないなら、少しでも後悔があるならもう一度合ってみないか、今なら姉ちゃんも柚希もいるから。……そう言ってきた」
「……」
「それで、私も考えた。お前に伝えたいことも、悔やんでいることもたくさんある。何しろ、お前と咲来にもう一度会いたかった」
黙っている智恵の耳に小さな呟きが入った。
「父さん……」
咲来の声だった。
智恵の前に梗平が片膝を付く。
そして、あの箱の蓋を開いた。予想通り、家を出るときに置いていったあの指輪だった。
「もう一度一緒にならないか?」
その場にいた全員が息を飲む。そして、智恵へと視線が集まる。
驚いた表情で固まっていた智恵は一瞬目に涙を浮かべ笑った。しかし、最終的には真面目な表情へ戻る。
「なぜ私なんですか?」
智恵は梗平にプロポーズされたときと同じ言葉を返す。
一呼吸目を見開いたままだった梗平は宙を見つめながら奥歯を噛む。
その様子を見つめていた智恵は静かに微笑んだ。
(これはあの人が考えるときにする仕草だわ)
やがて一度頷くと真っ直ぐに射抜くような眼差しで梗平は智恵を見つめた。
「智恵だからだ。私を私でいさせてくれるのは君だけだ」
「私が戻ったとして、あなたは良いのですか? 子ども達には良いと思うけど、あなたはそれを望んでいるのですか?」
「それを望んでいる」
智恵は覚悟を決めた。
(きっと今回を逃せば次はもうない。何よりもこれ以上家族をバラバラにしたくないわ。柚希はオーストラリアだし、咲来はカナダだけど、帰ってくるのはやっぱり新潟の方がいいわよね)
智恵はそっと指輪を手に取った。梗平がそれを受け取り、智恵の左手の薬指に差し込む。
智恵の細く華奢な指を十五年ぶりに小さなダイヤモンドの輝きが包み込んだ。
「それならば、私もあなたと共に歩んでいきたいと存じます」
「智恵、また羽澄神社を一緒に守ってくれるか」
「喜んで」
そっと智恵は指輪を撫でる。
「ねぇ、貴方。かつて貴方は私の一番だった。離れても忘れられなくて、お母様には早く次をと言われ続けたけど、何度も縁談を持ち込まれたけど、すべて断ってきた。最期のときに言われたの。誰かと共にここを守ってほしかったと。一人で抱え込むのは大変だからって。そのときは後悔した。最期まで母に心配かけてしまったから…………だけどね」
智恵は微笑んだ。
「今なら心から言える。あの頃の私は間違ってなかったって。だって、誰かとまた結婚していたら、もう貴方には会えなかった。やっぱり貴方しかいないのよ。羽澄の姓を守ってきて本当に良かった」
「智恵……」
「これからまたお世話になります」
智恵は深くお辞儀をした。嫁入りが決まったあとに、たゑに叩き込まれた神社の家の者として相応しい優雅で上品な礼だ。
「それは……」
「ふふふ。身体は覚えてるわね」
麻緒が気を利かしてワルツの音楽を流し始めてくれた。
智恵の手を梗平が取る。
踊り出した二人をみて、咲来とアランが踊り出す。
何故か栞奈が紫苑のところへ向かい、凌久は美郷にダンスを申し込んでいる。
柚希は周りを見渡した。部屋の反対の角に立っている丞と目が合う。
二人はお互いに頷くと、部屋の中央まで駆け出した。
「踊ろっか」
「はい」
お疲れさま会のはずが違うものになってしまったが、主役を奪われた丞は全く気にする様子もなく純粋にパーティーを楽しんでくれていた。
「丞くん、大好きです」
「柚希ちゃん……もちろん僕もだよ」
智恵と梗平も、柚希と丞も、まだ始まったばかりだ。
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