十年後:女神の微笑み 中編
「どうかなさいまして?」
女性の声でキリエははっと我に返った。子どもから目を離し、身なりの良い婦人に目を向けてまたはっとする。
――のだが、なぜ自分が驚いたのか、今度は咄嗟にわからなかった。
もごもご口ごもってから、うつむき、目を伏せてやっと口にする。
「申し訳、ございませ――あの、あの――」
言葉を、なんとかこの場でおかしくない言葉をと探して、ようやく乏しい声が漏れる。
「若君様が、その……とても、お美しい目をしていらっしゃいましたので」
女性はキリエのなんとも幼稚な発言を笑わなかった。
どころか、まあ、と感嘆の声を漏らし、ほんのり白い頬を染めて子どもの方に顔を向ける。
「そんなに褒めてもらえるなんて嬉しいこと。珍しい色だから、気味悪がられることもあるの。……さ、坊や。ご挨拶は?」
男の子は促されるが、女性の後ろにぱっと隠れてしまって出てこない。ふう、と彼女はため息をつき、キリエに向き直る。
「突然押しかけてしまってごめんなさいね。本当にいい物をお作りだから、せめてどんな方のお仕事なのか会って確かめてみたいと、わたくしがうっかり口を滑らせてしまったのがいけないの。旦那様は、その、わたくしが言うとすぐ本気になさる方で……」
気弱に眉を下げ、ちょっと困ったように言う彼女の口調にはけれど、夫に対する愛情が隠しようもなくあふれていた。
混乱する頭で、キリエはなんとなく状況を把握する。
この辺りでは見かけられない綺麗な格好に品のある立ち居振る舞い、そしてこちらを訪ねてきたと言う口調――たぶん、件の領主様の関係者だ。というかキリエの推測が正しいなら、目の前のこの女性こそが領主様の奥方様で……そちらに引っ込んでいる男の子が、若君とやらなのだろう。
なんということだ。
断って終わったと思ったら、まさか本人がやってくるとは。領主はさすがに本業が忙しかったのだろうか?
「旦那様は――ご領主様は今、近くに視察に来ていて……わたくしたちだけが、こちらに」
キリエの顔にわかりやすくいぶかしげな表情が出てしまっていたのだろうか。ぱっと真顔に戻って咳払いすると、女性は苦笑を浮かべている。
それにしても若君は、一瞬キリエが会った頃の御主人様と見間違えるぐらいだったのだが、よく見れば随分と幼い――というか、内気が過ぎるように見える。男の子なら少し将来が心配になる恥ずかしがりっぷりだ。
「そうなんです。優しい子なのですが、とても内向的で――長男だから、頼りない、もう少し強くなってほしいと旦那様は思っていらっしゃるようで――わたくしは、その、今のままでも、元気に育ってくれればとも思うのですけど、やはり男の子でこのように内気が過ぎるのは、もう大きくなってきた頃ですし、少し、どうしても、心配で――」
ぽつりぽつりと話される言葉に、またもこちらの表情が丸見えだったかと思わず顔を覆うキリエだが――たぶん、散々同じ事を言われているのだろう、母親の説明は途切れ途切れながらも何度も繰り返されたような流暢さがどこかにあった。優しく頭を撫でられている少年は、この瞬間も母にしがみついていて離れない。
こわごわちらちら隠れつつもこちらをうかがっている辺り、好奇心というか興味というか、そういうものがないわけではないのだと思うが。
――キリエは御主人様の一人を、ふと思いだした。
「それで、あたしたちにお守りを、と」
「あの……ええ、はい」
上品な女性もまた、奥手というか人見知りというか引っ込み思案というか、かなり気弱で大人しい印象を受ける。押しかけが領主の手配と言うのなら、息子の気質はまさにこの母親譲りなのかもしれない。お揃いのかぶり帽子がよく似合っていて、奥方の方はつややかな黒い髪が見える。
それにしても女と男ではやはり勝手が違う、しかも領主の長男なら心労もひとしおだろう。うちの子は女の子なのに、口数こそ少ないけどその分勝手に動いて言ってしまうのが逆に心配で――。
そこまで勝手に思考が泳いでいったところで、はたとキリエは我に返った。
違う、そうじゃない。揺れるなあたし、いくら領主様の奥方様が直接乗り込んできて、若君様に知人の――とてもよく知っている人の面影があるからって、動揺しすぎだ、バダンと決めたとおり、しっかり断らないと――。
と、思っているのになぜか舌が渇きすぎてひっついたように動かない。
「あの……あの。こちらの村長様にお作りいただけた短剣――本当に、素晴らしくて。小さな模様で、この地方の特産品や、動物たちが、彫られているのが――それに、安全や、豊穣を祈願する、とても縁起の良い組み合わせで、とても、とても、本当に、こちらの方達を思ってらっしゃるのだと、その、感謝が伝わってくるようだと……ああ、語彙が貧相なのをお許しくださいまし。でも本当に、素朴さを残しながらも繊細で、優しくて、その、わたくし、わたくし、その……」
キリエの硬直をよそに、女性の語る言葉にはどんどんと熱が籠もっていったが、その分彼女は言葉を絞り出すのに苦労しているらしかった。
「それで。このように素晴らしい守り刀が息子にもあったなら、と……ついうっかり、口にしてしまったのです。お許しくださいまし」
顔を赤らめ、うつむいてやがて彼女は小さく結ぶ。
「さらに、このような物をお作りになる方はどんな方なのかという、興味も止められなくて……本当にごめんなさい。お断りになっているのにこんな、押しかけて、やはりお邪魔でしょう――ああ、恥ずかしい、ごめんなさい」
すると、母親がうつむいた瞬間、ひょっこりと彼女の後ろから若君が顔をのぞかせて、くいくい袖を引っ張っている。うなだれ、落ち込む彼女のことを、大丈夫だと励ましているようだ。驚いたことに、さっきまでキリエの顔を見るのもまともにできなかった子と同一人物とは思えないほど、きりりと澄ました利発そうな顔をしている。
――そういう顔をしていると、今度はイライアスにそっくりだった。
「ありがとう、本当に優しい子ね」
「あの、奥様」
息子に向かって目を細めた奥方様に、気がつけばキリエは声をかけていた。ちっともそんな気はないと頭の中では思っているつもりなのに、彼女の口は、舌はするすると動く。
「貧相で、窮屈で、奥様のようなお方をお迎えするには恐縮なところですが……どうぞ、中に入っていってください。夫を連れて参ります」
――何を言い出すのだ、一体。
キリエは自分で自分に驚き、呆れかけたが止まらない。
奥様がきょとんとした後破顔するのが目の端に、ぱたぱた駆けていく音が耳の端に届いた。
パパ、おきゃくさんよ、おしごとやめて、こっちにきてって、ママがいってるのー。
奥方様達もいる手前、聞こえてきた言葉にキリエは顔が赤くなるのを感じる。
気配がしないと思ったら……本当にこういうところは、色々とがさつなキリエより圧倒的に父親似だと思う。たぶん部屋の端にでも待機して成り行きを見守っていたのだろう。
幸いにもあちらにはこちらの生活音は届かなかったらしい。
……そういえば、何か足りないと思ったら優美に揺れる尻尾が見えなかったのだ。かぶり物の形といい、亜人ではなくて人間なのかもしれないと今更キリエは気がつく。別にだからといってどうということもないかとすぐに流してしまったが――。
間もなくして、娘に引っ張ってこられたバダンもまた、妻と似たような反応を少年と奥方様に取りかけた。
が、そこはキリエより堂の入った無表情の持ち主、立ち直りも早いし精神の安定もあっという間だ。派手な一行の姿を最初に見た一瞬だけ目を力一杯見開くのが見えたが、後はもう普段とまったく変わらない。
さすが、とこっそり妻は内心舌を巻いている。
物わかりのいい娘は両親が特別な客を迎えている気配を察したのだろう、父親を連れてきた後奥の方に引っ込んでいく。姿が見えないのは少し気になる感じもしたが……たぶん、いつも通り勝手に遊んで、寂しくなったら戻ってくるだろう。図太い両親の子なのだからと、変な安心感がある。
家の中に案内すると、婦人は嬉しそうに若君と一緒に席についた。
護衛なのであろう男達は、狭い家に入りきらず入り口で姿勢良く突っ立ったままである。
――よく、躾けられている。忠誠心も高い。金で雇われたのではない、この人達は奥方が好きか、尊敬しているから、この場にいる。
元経験者としてはさりげなく目が行ってしまうところだった。
奥様も、その一行も、立場の全く異なるキリエ達に対して侮るような目は一切向けなかった。それどころか、ただただひたすらに、尊敬のまなざしで以て二人を見つめてくる。特に奥様は何度もバダンを賞賛し、こちらは恐縮する一方である。
「あたし共のような者を、褒めすぎです。奥様はお立場が違う方なのに、そのような――」
思わずキリエがたしなめるように言ってしまえば、彼女はゆるゆる頭を振って答える。
「素晴らしいことを素晴らしいと言って何が悪いの? それにね、生まれの貴賤のことを言うのなら、わたくしだってそう誇れたものではないのよ。拾われっ子の元使用人ですもの」
「いいえ、奥様! 当然のことでございます!」
今度声を上げたのは、それまで物音一つ立てなかったおつきの女だ。
え、の形に口を開いたキリエに向かって、奥方に代わって述べ立てる。
「奥様は昔から、どのご令嬢よりも品よく素直でご趣味がよろしくて聡明であらせられた。その上にこの器量、使用人程度で収まる器ではない、必ずやどなたかの心を射止めると――いえ、昔からご領主様が奥様にぞっこんだったのは、みぃんな知ってたことでございますよ、ええ」
……どうも奥方の態度に焦れてしまったというか、黙っていられない話題になったらしい。急にしゃべり出したおつきに、キリエが微笑みと沈黙で先を促すと、どこか得意げな顔で、侍女らしき人物は続ける。
「その証拠に、ご成人したらすぐに召し上げられて、なのに奥様が辞退なさろうとするものですからハラハラしましたよ! 奥様はご覧の通り大人しい方で、他の方のことは手放しにお褒めになるのに肝心のご自分に対する評価が卑屈すぎます! もう、本当にいつも焦れったくて、ですから旦那様も私共も、ついお節介を焼いてしまいたくなるのです。」
話題にされている方は今やゆであがって頭から煙が出ていきそうな有様だった。
そういえば、キリエと同じぐらいの年頃に見えるが、十を越えようという息子がいるのだ。確かにやや急いだ感じのある結婚だな、感じる。
ふと、そこで思い当たる。
だから、守り刀が必要なのだろうか?
キリエの元主も、母親の事を公表できず、ゆえに身分が低いからと随分侮られたものだった。貧民街生まれの彼女にしては馬鹿らしいことこの上ないが、けれど高貴な人と言えばそういうものなのだろう。
なんとも言えない気持ちで見据えた先、目が合った女の瞳は青かった。澄んだ晴れの日の空のように、美しい青色だった。
そうだ、思いだした。先ほど二度目に驚いたのは、この色に対してであった。
確かに昔、キリエはこの青を見たことがある。一体どこでだっただろう?
もうすぐ、ここまで出てきそうな。
キリエはのど元を押さえながら首をかしげた。
――その瞬間。
すべての点が、一つにつながった。




