石版6
真相部分になるとさすがに痛みが勝るのか、彼の語りは危うくなり、時折意味をなさない言葉の羅列になった。
だから、あたしが辛抱強く聞き出した話をまとめると、こうだ。
九歳の彼は、正気を取り戻した母親に秘密のお遣いを頼まれた。
その使命を果たした三日後、レィンは父親の絶叫を聞いた。
慌てて鳥籠に駆けつけて、そこで事切れていた母親を見つけた。
聡い彼は、そのときになって一瞬で理解してしまった。
母が自分に持ってこさせたのは、自決用の毒薬だったのだ。
自分は母が死ぬ手助けをした。母を殺したのはまぎれもない自分だ。
(おかあさん。あいしている。しんで。にくんでいる。いきて)
――「彼」は母親に対する感情を、自分でも理解できずにいるようだった。
ただ、本当に死なせたかったわけではなく、彼の本意ではなかったはずだった、それだけは確かだ。
レィンもイライアスも、そして漠然といやなことを押しつけられていた部分も皆激しく動揺し、おのれを保っていられなくなった。
ところが幼子の悲劇はそれだけにとどまらなかった。
父親が真相に――リテリアの部屋に毒を持ち込んだのが誰であるかに、気がついてしまったのだ。
第一発見者だったこともあるし、前提条件を――レィンがイライアス一世に従順であり、母親の事を逐一報告しているという思い込みを廃して簡単な推理を重ねれば、容易にわかることでもあった。
今まで我が子に溺れるほど愛情を注いできたイライアス一世は、そのとき激昂した。
まさかよりによって他でもない息子に裏切られるなど、夢にも思っていなかったのだろう。
愛情は一転して憎悪にひるがえり、模範的で優しい父親は悪魔のような顔に変じ、幼子を問い詰めながら首に手をかけた。
――お前が、どうしてお前が私を裏切った! 信じていたのに、リテリアがどんなに私を見つめ、笑顔を返してくれることがなくても、お前だけは私の味方だと思っていたのに!
――愛していたのに、あんなに、愛していたのに!
――今まで一体、なんのために――。
――お前なんか、産まれてこなければよかった――!
浴びせかけられる初めての父からの明確な悪意と敵意に、彼はきっと――死を感じた。
同時に、こうも思ったはずだ。
死にたくない、このまま殺されたくない、と。
気がついたときには、レィンは自分の身体が、特に両手が血だらけで、目の前に動かなくなった父親が倒れていることを発見した。
かわるがわるにぽつりぽつりと話す彼の中の彼らから推測するに――彼は生まれて初めて、いや二度目になるだろうか――父親に反抗した。
バスティトー二世から、さらにその前から継がれる猫の、獅子の血は、たとえ幼子であろうと見かけの細腕の何倍、何十倍もの力をふるい、脅威を退けた。
たぶん、あの時、襲撃者達を皆殺しにしたように、知らない間にもう一人の自分がすべてを片付けていた。
幸だったのかそれとも特別不幸だったのか、現場を見つけたのは数少ないレィンの味方――かの亡き母の付き人であり、バダンの母親であるとも名乗ったあの亜人の女性だった。
聡明な彼女は瞬時に何が起きたのか悟り、素早く信頼できる世話人を集めると機転を利かせてレィンの犯行を隠蔽し、医者とも話を合わせて錯乱したイライアス一世による不幸な事故として処理を済ませた。
そしてそのとき、絶叫する幼子をなだめているうちに――レィンとイライアスにはとうてい耐えきれない重荷をわかつための守護者達が産まれてきたのだ。
これまた幸か不幸か、イライアス一世は即死したわけではなかったが、致命傷が原因かそれとも立て続けに家族に裏切られたショックでか――二度と床から起き上がることはなかった。
やがて緩やかに衰弱し、床の中で愛しい恋人の名を呟きながら旅立っていった。
幸と言えるのは、レィンの罪が露見しなかったこと、それ以上彼が父に傷つけられる事がなかったということ。
不幸と言えるのは、その代わりに背負わされたものが、あまりに重すぎたということ。
交代人格達は、くるくる入れ替わりながら口々に語った。
坂道をひたすら転げ落ちていくだけの、少年王の堕落の様子を。
「私たちはね。愛して、愛されたかっただけなんだよ」
彼は何度も繰り返し、乾いた笑いを浮かべて結んだ。
あたしに――いや、誰にも、理解できるはずがなかった。
この世で最も愛している母親に、死をもたらす運び手になってしまった罪。
この世で最も愛してくれた父親を、やはり緩慢な死に追いやった罪。
どちらも、彼に責任はないはずだった。彼が悪いわけではない。彼が直接殺したわけではない。
けれど優しい彼の良心は永遠に自身を苛み続ける。
彼の自責の念は彼を壊し続ける。
酒や薬物に溺れ、意味のわからないくだらない享楽にふけって毎晩違う相手の人肌を求める。
――最初は、なんだこいつはと思っていた。
そのうち、何か理由があるんじゃないかと思うようになった。
今、理由を聞かされた。
あたしは真実を知った今こそ、彼にかけていい言葉がまったくわからなくなった。
彼と、彼女と、彼らの眠りを守る守護者たちの、あまりに深く、救いがたい絶望の淵をのぞき込んで、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
言葉がわからなかったあたしは、それでも、なんとか気持ちを伝えたくて――立ち上がって、ぎゅっと彼をまた抱きしめた。
気がついたら、あたしはもっと小さな子どもみたいにわんわん大声を上げて泣いていた。
本当は、泣くのはあいつの方のはずなのに、あいつがあまりにも、言葉を濁し、人格をぶらすことはあっても、けして涙は見せようとしなかったから、代わりって訳じゃないけど――。
満足するまで、あたしは泣いた。
そうして、いつの間にか、抱きしめていたはずが、抱きしめられていた。
あいつのきゃしゃなだけだと思っていた手がもう少ししっかりしていて、あたしの髪に指を通した。
銀色の瞳と目が合った。とても、近い場所で。
あいつがあたしのぐしゃぐしゃの顔をぬぐった。
あいつの唇があたしの目尻に落ちて、涙をすすった。
体が震えた、
あいつの手が潜り込んできた――。
……あたしは拒まなかったよ。
少しでも拒絶すれば、きっとそこから出て行けって開きっぱなしの扉を指さされることがわかっていたから、それでもう二度とその扉は開けてもらえないだろうって気がしていたから、苦しいのも痛いのも、全部飲み込んで受け入れた。
試すようなあいつの棘を、くるんで包んで抱きかかえた。
それでも、涙だけは抑えられなかった。
年下のくせに、貧民街育ちのあたしなんかよりずっと、あいつはそういうことに手慣れていた。
あたしたちは、こういうときどんな言葉がいいのかわからなかった。
でも、なんとなく慰め方の一つは、傷の舐め合い方の一つは、知っていた。
だからそうした。
銀色の目がふっと和らぐのを見ると、求められているみたいで、あたしも釣られて少し力が抜けた。
馬鹿だよね。今思えば完全に頭がパーになっちゃってたっていうか、浮かれてたよ。
だってあたしは多少世間を知ったつもりになっても所詮十七の小娘だったし、向こうは誰が見たって綺麗だって言うほどの絶世の美男子であり、美少女であり、美少年でもあったんだからさ。おまけに一応王様だった。
天国みたいな一週間だった。
あたしは毎日籠の中で首を長くして律儀にあいつを、あいつらを待ち続けて、帰ってくるととびきり甘えて甘やかした。
何度も言われた。鳥籠は開いている。
だからあたしはとどまり続けた。
恋に浮かれていたせいもあったのかもしれないけど、あの時なら鳥籠の中で死んでもよかったんだよ。
あいつが時々あたしの片目をなぞるのにも抵抗しなかった。
でも結局あいつ何もしなかった。手を引っ込めてばつが悪そうに目をそらして……あいつはあたしを片目にはしてくれなかったんだ。
そのときに、気がついていればよかったのかもしれないね。
あたしたちは、違うことを考えていたんだって。
……もうすぐ、話も終わる。
長いようで一瞬だった、あたしが見たレィンの話が終わる。終わってしまう。
でも、それで正しいんだ。
イライアス二世は死に、あたしはこうして生きている。これが……あたしたちの結論なんだ、あたしはその事実を受け入れなくちゃいけない。
……じゃあ、最後を始めよう。
忘れられないあの時のことを、話そうか。
それは、イライアス二世が毒を飲む、前日のこと――。




