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彼の真実 後編

 今思うと、その少し前からゆっくりと兆候はあった。

 いや、元々だったのを、父に従っているだけの頃は見逃していたのかもしれない。

 あるいは、私が母の話をよく聞き出したがっていたせいで、彼女の思考に刺激を与えたことがあったのかもしれない。


 少しずつ、私と一緒にいる間、母の正気の時間が長引いていったんだ。

 最初はすぐに驚きの声を上げて父を呼び寄せてしまっていたけど、そのうちぐっと堪えて不安そうに鳥籠の中を見回して――それで私の事を黙って見つめる、そういうことが増えていった。

 前と何かが違う、そう思うと私も以前ほど一生懸命大人を呼ばなくなった。

 正気の母と話をすることは不安でもあり――待望でもあった。


「どなた?」


 初めてかけられた言葉は、そんなものだった。

 黒い片目にはっきり光が宿っているのを見て、焦点がしっかり私に合っているのを知って、私は迷った。

 レィンとして応じるべきか、イライアスとして応じるべきか、どちらが望まれる事なのだろう?

 残念ながらそのときは、まごついているうちに母はいつもの母に戻ってしまった。


 私は自分に失望した。せっかくの機会だったのに。でも同時に安堵もしていた。

 変わりたかったけど、変わることで、取り返しがつかなくなってしまったら――怖かったから。




 変化は、ゆるやかに、でも着実に訪れていた。


「どなた? 可愛い方ね。男の子? 女の子?」


 次の正気の時、そう言ってもらえた。

 私はこのときも赤くなったり青くなったり繰り返しながらもぞもぞ手をすりあわせるだけで、一度目と同じ轍を踏むところだった。

 けれど、二度目の母の正気はもう少しはっきりしていて長かった。


「私はあなたのことを知っているかしら?」


 彼女は首をかしげて、眼帯のない方の目を瞬かせた。

 この質問には、なんとかうなずいて答えられた。

 すると彼女は申し訳なさそうに目を伏せる。


「ごめんなさいね。私、なんだかひどく、朦朧としていて……。あまり、覚えていることがないの。でもね、名前はわかるわ。リテリアというの。あなたは?」


 私はわずかに期待を込めた目で母を見上げた。

 彼女はしばし迷ってから、私の頭をそっと撫でて言う。


「じゃあ……レィンと、呼んでもいい? 私の亡くした子の名前なの。それとも迷惑かしら?」


 私は必死で首を横に振った。


 ――本当は、嫌だったよ。

 私はレィンじゃない、レィンなんかじゃないのに!


 ぼくをみてよ、おかあさん。

 ぼくをみて、ぼくとはなしをして。

 それいがい、なにもいらない。


 でも……でも。レィンがもう死んでいる事をわかっていて、このレィンが別のレィンだってちゃんと見てくれているのなら、それだけで、ただそれだけで、もう、いいかなって、いいのかなって、思ってしまったんだ。


 母の前で私は常に無力だった。

 あの人の注意を自分に向けさせるためならなんでもした。

 なんでも、した。




 私は父の目を盗んで母と密会を重ねた。

 正気の時間はいつも短過ぎたけど、その間母は母のような他人として私を慈しみ可愛がってくれた。

 私は自分の正体をいつまで経っても言い出せないままだった。

 だから彼女は私の事を忍び込んでくる貴い身分の子どもだと思っているようだった。

 私の種族が亜人だったせいもあるかもしれない。

 父の血を引いていることはうっすら察していたような節もあったけど、自分とはなかなか関連づけられないようだった。

 その辺りは、正気に戻ってもあまりに辛い記憶だから封じられていて、思い出せないようだったから。


 たぶん、私は母に、黙ったまま察してほしかったんだろう。

 あちらから、私の子、今までごめんなさい!――そんな甘い言葉でもささやかれながら、抱きしめてほしかった。

 実に子供じみているだろう? 子どもだったんだ。あの人の前ではいつでも子どもだったとも。


 ……一度でいいから息子として愛してほしかった。それだけのはずだった。

 一度でいいから。そんなことはない。一度があるなら二度目もほしい。二度目があるなら三度目も。今日も明日も明後日も、昼も夜も、永遠に――。


 私は母の愛情を独占していたかった。

 けれど、母とそんなことをしていると万が一父にばれたら――私は父をすっかり嫌いになっていたが、それでもまだ愛していたし、恐れてもいた。

 あの人がちょっと気まぐれを起こせば私は母と会えなくなるのだ。絶対に邪念を知られるわけにはいかなかった。

 幸いにも父は私に無関心が強かったから、多少挙動不審になったぐらいでは母のことを疑われることはなかった。

 ……それに、同時に私はある意味彼に信頼されきっていたのだ。


 愛する息子だけは、けして自分を裏切らない。

 たぶん父はそう思っていたし、私もなるべくそう応えようとしていた。

 だって、母が狂気の間もずっと、あの人だけは、たとえ私の望む方法でなかったにしろ、私を大事にしようとしてくれたのだから。

 ほの暗い優越感と、後ろめたさが、父に対してはあり続けた。




 正気に戻っているときの母は、私の話をよく聞きたがった。いつもとは逆、私が語り手で母が聞き手だった。

 私は自分自身の時に惨めな状況を知られたくなくて、幸せで平和な記憶だけを、時には創作して母に語った。

 彼女は狂気に戻るまで、あたたかなまなざしで私を見守ってくれた。


 幸せは、確か一月ほど続いた。


 ある日、正気の母が沈んだ顔をしているので、私はどうかしたのかと問いかけた。

 彼女は怯え、酷く迷う素振りを見せてから、私にこっそり耳打ってきた。


「……お願いしたいことがあると言ったら、聞いてくれる?」


 もちろんすぐ了承したとも。

 彼女が私に頼んだのは、ちょっとしたおつかいだった。

 誰にも知られずに、とある場所へ行って、確かめてきてほしい。

 リテリアはそんな風に言った。確かめる? と私が首をかしげると、彼女は黒い目を揺らしながらかすれた声でこう付け足した。


「私も……実際に何があるかは、わからないの。何もない可能性の方がずっと高いかもしれない。……何もないなら、それでもいいの。いっそ、全部あきらめがつくから」


 でも、もし自分の言った場所に、何か気になるものがあったら、それを持ってきてほしい――もちろん誰にも秘密のままで。

 彼女から託された秘密の任務に、私は心を躍らせた。

 ……宝探しを一緒にしているみたいで、楽しかったんだ。

 誰にも、特に父にも、母の周囲の世話係にも、気がつかれないように、謎を解いて、準備を進めて、人の目をかいくぐって忍び込んで――ちょっとした冒険だったよ、子ども心をくすぐるだろう?


 詳細は、あまり重要ではないから省くけど。

 目的地は、かつて私の祖母がほぼ日参していた、内宮の奥の奥にある秘密の神域だった。

 祖母が出て行って、父が王になってからはすっかり人の出入りもなくなっていた。

 そこには真っ暗な迷路があって、その一番奥が大事だった。


 迷路の奥にはね、小さすぎず大きすぎず、一人が暮らしていけるような、そんな部屋があったんだ。

 暗闇の中でも光る石をふんだんに贅沢に敷き詰めたその場所を探してみると、もうすっかり使われている形跡はなくなって埃が積もっていたのだけど、ベッドだったかな、その上に、箱が置いてあって。


「リテリアへ。約束通り、選択の鍵を残しておきます。何を望むもお前次第」


 そんな風に蓋に掘られていたから、ああ、これがそれか、とすぐにわかった。




 好奇心旺盛で無謀ではあったが母の忠実な下僕だった私は、中身をあらためることもなく、母が言った通りに急いで箱を持ち帰った。

 幸いにも懐に隠せるほど小さな物で――まあ、それなりに苦労はしたけれど――容易に母の部屋まで持ち込むことができた。


 私はすっかり舞い上がり、興奮していた。

 意味深な母の言葉通りに箱はあり、一体どんなものがこの中に隠されているのだろうと胸をときめかせた。


 ……馬鹿な子どもだ。母はずっと、思い詰めるような、沈んだ様子だったのに、私は気にしないふりをした。

 あるいは、目的さえ遂げてしまえば手放しに褒めてもらえると思いたがっていたんだ。


 今か今かと待ちわびた正気の時がようやく来ると、母は確かに持ってきた私のことを褒めてくれた。

 けれど私が思ったより、喜んでいる様子ではなかった。

 中身をのぞき込んで、硬い表情をしていたかと思うと、鳥籠の寝台の中を行ったり来たりする。


 私は一瞬、母を失望させたのではないかと心臓の止まる思いだった。

 彼女はその心配については首を振って否定した。確かに望む物が手に入ったのだと言ってくれた。それなのに憂いに満ちた様子が、私は気にかかって仕方なかった。


 母はしばし、潤んだ瞳で私の頭を撫でていたが、やがて何かを決意したらしく、顔立ちが変わった。静かに元通りに箱を閉じて、押しつけてくるのだ。


「あのね……もう一つ、してほしいことがあるの。この箱を、誰にも見つからない場所に、捨ててきてもらえる? それで、ここにはもう来ないでくれる?」


 私は驚き、彼女にすがりついた。一体自分の何がいけなかったのかと、どうしたら許してもらえるのかと、必死に聞き出そうとした。

 彼女ははらはらと涙を流して、言った。


「違うの。お前は何も悪くない。本当に良い子よ、本当に。でも、ごめんなさい。私は強くない。強くない、弱い女なの……」


 ごめんね、ごめんね、とくりかえしているうちに、母はすっと目から光を失った。


 私は後ろ髪を引かれる思いだったけど、連れ出す大人達は来てしまったし、こうなってしまったら母ともう話はできないので引き下がるほかない。

 今度またちゃんと話をしてもらおう、そのときはもっと上手に謝って許してもらおう、そう考えながら必死に秘密を隠し抜いた。




 もちろん、これでもう二度と会えないなんて、ちっとも思っていなかったんだ――そのときは。




 私が謎の箱を持ち込んで、三日後のことだった。

 母が死んだ。

 遺書が父に残されていた。


「私は、あなたと一緒にはいけない」


 短い言葉だった。




 ……服毒死だよ。自殺したんだ。おそらく、正気に戻った瞬間に、周囲の隙を見て。落ち着いているときは一人でいることも多かったから……容易だったと思う。

 厳重に管理されていた鳥籠の中に一体誰がそんな危ない物を持ち込んだのか。

 もう君にはわかっているよね、キリエ。



 そう、私だ。



 あの箱の中身は、毒薬だったんだ。



 ……笑えもしない話だろう?




 私は母が死ぬのを手伝ってしまったんだ。


 あんなに愛していたのに、愛していたのに、どうして気がつかなかったんだろう……。


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