前夜
もう慣れたはずの道なのに、案内人について一人で歩いていると全く知らない場所のように思える。
キリエは籠の鳥の格好をして、鳥籠の中で彼を待ち構えることになった。そんなことして色々大丈夫なのか、と後ろ向きになっても、逃げ切れないうちにあれよあれよといじられて着替えさせられてしまう。
「布団を被っていると、心配して中に入ってらっしゃるはずですから。鳥籠の中でなら、たとえあちらが逃げ出しそうになっても、捕まえやすいでしょう。……あたくしは、これで。うまくいくことを祈っております」
偽物の母役は、できばえを見て満足そうに微笑んでから下がっていく。
「やはりそちらの格好の方がお似合いです。女の子ですもの」
そんな言葉も出がけにかけていかれて、キリエは微妙に居心地の悪さを覚えた。
従者となって生きてきた時間のせいか、鏡でも確認した女姿は奇妙に馴染まなかった。
たった二年の間のことなのに、今はもう男の姿の方が彼女にとっての自然となっているのだ。
胸元をきっちり締めるものがなくむしろゆったりラインを浮かばせる服に戸惑いを感じる。どうにもミスマッチな感じがぬぐえないのは、髪を大分短くしてしまっているせいもあるかもしれない。それから昔は慣れていたはずの腰巻きの感覚も、股の下辺りが妙にこころもとなく感じた。
――女の子。
二年間、そう扱われたことはなかったと言っていい。
別に不満はないけど、だからこそ自分がそういう目で見られたことはないのだと思っていた。
でも、もしかしたら。
もしかしたら、なんなのだろう――。
鉄格子を覆う紗幕は、ゆるやかなグラデーションを描いた青から紫色への変化を基調としていた。金や銀の輝きが散らばる様子はまさに星空のようだ。作り物の夜のとばりは、うっとり美しいようでもの悲しい。それは、空が鳥籠の外にあるせいなのかもしれない。
やわらかな寝台で待っている間、ぼんやりと狭い鳥籠を見上げてゆるゆる考えているうちに、ふと気がついた。
あいつに避けられないように、待ち伏せするこの作戦。さっさときびすを返されないためにも、一目ではあたしとわからない格好になっている。
けれど、レィンは、あたしのことを、あたしだとわかってくれるのだろうか。
鳥籠の中の鳥は、鳥にしか見えないんじゃないか。
この格好をした女は、あいつの大好きな母親にしか映らないんじゃないか。
そうしたら、もしお母さんと呼ばれたら、どうしよう。
強情に母ではないと否定したら、彼女の秩序が乱されて、他の誰かが出てくるだろうか。
それとももっと強く拒絶されるだろうか。
こんなの母じゃない。こんなのキリエじゃない。出て行って!
……そんな別れになったら、どうしよう。さすがにへこむし、ちょっと立ち直れないかもしれない。
いやな想像が進んでも、今更「ごめんなさいやっぱりやめます帰ります」と言い出せる空気でもない。第一泣きつく相手もとっとと退散してしまっている。
迷っているうちに部屋の入り口で気配がして、さっと布団を被り直した。
いつものように老人達と言葉を交わして入ってきた少女は(なお当然ながら老人達もグルだ。一言ずつささやかに応援されたキリエは複雑な心境である)、偽の母が言ったとおり、鳥籠の中から反応がないとそっと扉を開けて中に入ってきた。
「お母様? お加減が悪いの? 寝てらっしゃるの?」
声の元が完全に籠の中に入ったと判断してから、キリエは布団をはねのけるように起き上がった。鼓動が高鳴る。
相変わらず女装がキリエ以上に似合っている美貌の少女――いや少年は、銀色の目をぱちくりと瞬かせてから首をかしげる。
「……キリエ?」
ああ、とため息とも安堵ともつかない声が、キリエの口から漏れた。
……少し、痩せただろうか? 儚げな印象が更に強くなっている気がする。
つんとする目の奥をこらえて、従者は答える。
「はい、レィン様」
「どうしてここにいるの? お母様は? その格好は?」
「……あたしのことは、お母様とは区別してくれるんですね」
思わず口にすると、レィンはきょとんとしてから破顔した。
「だって、キリエはキリエだもの。なあに、悪戯のつもり? びっくりしたじゃない、もう」
花がほころぶような愛らしくも美しい微笑みを向けた少女は、相手が言葉につまっている間にも何度も首をひねっていた。
「でも変ね。わたくし、二度とあなたに会えないと思っていたのだけど」
「どうして?」
「だって……あら? どうしてなのかしら。何か大変なことが、あったはずなのだけど……」
レィンは機嫌よさそうにしながら、どこか困ったように目尻と眉を下げる。
キリエは一度、大きく息を吸った。じっと主の目の、奥の奥をのぞき込む。
「どうするつもり? あたしは、誰が相手でも構わない。話をしよう。あんたはあたしに言うことがあるはずだし、あたしもあんたに言うことがあるはずなんだから」
レィンの無邪気な瞳が不思議そうに年上の従者を見つめた。
キリエは待った。相手が最初の答えを――どういうつもりで彼女と話をしてくれるのか、返してくるのを、じっと待った。
やがて、少女に扮する少年のまぶたがゆっくりと下りる。そのまま閉じて少し止まっていたが、勢いよく上がったときには一転して不機嫌そうな少年の顔に代わり、頭をガリガリひっかきながら行儀良く座っていた足があぐらをかく。
「まったく。面倒な事をしでかしてくれたな、愚民。このままレィンに応じさせるわけにいかないではないか、忌々しい。奴は今不安定なんだ、記憶の齟齬が出たまま話を続けたら取り乱しかねない」
慣れ親しんだ相手の出現に、キリエは一瞬だけほっとした顔になった。
「あんたがきてくれたんならむしろこっちは嬉しい方だ、フォクス」
「なんだと。そして様を忘れるな、貴様他の人格より明らかに我輩に対して敬意が足りてないだろう」
「左胸に手を当てて目でもつむったらどうだ、敬いたくない理由がわかるかもしれない。ってそんなことより、ノードルあたりに出てこられたんなら、本気で話すつもりがないってことなんだろうし、ハノンが出てきたら真面目な話をしても茶化されて終わるかもしれない。だからあんたが相手であたしは嬉しいんだ」
「阿呆にしては珍しく賢いことを言うではないか、よし今からでも交代するか」
「おい、ふざけんな。それとも逃げるのか?」
もう一度意味深な瞬きをしようとしたフォクスだったが、逃げると言われてその通りにする男ではない。
あからさまな挑発に舌打ちをして、いかにも面倒そうな半眼のままキリエをにらんだ。
むしろその態度に快さすら感じて、キリエはかえって話しやすくなるような感じを覚えていた。
「それで、教えてよ。なんであたしのこと避けるの」
「むしろ貴様はなぜ我々を避けない」
「あの人格を出したことを気にしてるの?」
「ハッ、矮小な小市民ごときに我々の高貴で洗練された心根などわかるはずもないではないか」
「気にしてたんだな、やっぱり」
「……お前。元から可愛げの薄い奴だったが、最近特に酷くなってきたな」
フォクスは嫌味だが、ハノンと違って嘘を明言することはない。慣れてしまえば翻訳は簡単だった。
しれっとした顔のキリエを、彼はイライラ首を振ってからまたにらみ直した。
「なんとも思わないのか」
「……何が?」
「あれは、もうすぐでお前の事もどうにかするところだった」
「どうにもならなかったじゃないか」
「貴様それは本気で言ってるのか? だからあんな真似をしたのか?」
あんな真似? と疑問を浮かべかけてすぐ、キリエは思い当たった。
……なんだろう、あの時はとにかく必死で仕方なかったわけだが、冷静に考えたらかなり大胆なことをしていた気がしないでもない。今更ちょっぴり謎の恥ずかしさがこみ上げてきて彼女は狼狽する。
「えっ、だからあれは、そりゃ――えっと。……自分でも、ちょっとまだよくわかってないけど。でもね――レィンや、イライアスや、他のあんた達と同じ人なんだと思ったら……とてもそのまま置いていくことなんか、できなかったよ」
「それほど大事に思っているとでも?」
皮肉っぽく冷たい口調にひるまないように、キリエはすっと息を吸い、主の鋭いまなざしにしっかり自分も見つめ返し続ける。
「そうだよ。物知らずな小娘のあんたも、とらえどころのない御主人様のあんたも、憎まれ口ばっかり叩くあんたも、悪戯ばっかで困らせてくるあんたも、何考えてるのかさっぱりわからないあんたも、時々こっそり皆に紛れて喋ってるあんたも――獣のような、あんたも。あたしは皆、大切な人だと思ってる。だって全部ひっくるめて一人のあんたなんだもん」
「まるで愛の告白でも受けてるみたいじゃないか。だが残念だったな。こんな小娘に我輩が特別な思い入れなぞあるわけがないだろう」
「そう思ってたよ、きっと何かの間違いだって、あたしのうぬぼれだって、自意識過剰だって。……さっきレィンに一目でわかってもらえるまではずっと、勘違いなんだって納得しようと思っていた。でもね、これではっきりしたと思う。あたしは少なくとも、レィンには結構特別に思われてる奴だったんだ。だったら他のあんた達にも……あたしの思っていた以上に、特別に思ってもらえてたんじゃないかって」
キリエの方は肩に力が入っているのを感じた。だけでなく、全身が硬くなっていた。
「あの時さ……あたしのことを守るために、ああなっちゃったんじゃないかなって。だとしたら……あたしは、あんたにごめんとありがとうを言わないといけないと思うんだ。教えてよ、フォクス。あたしはまだ、あんたに、あんたたちに、全然無関係な奴のままなの?」
ぐっ、とフォクスがつまった。攻撃的ながら自由な発言をする彼がこんな風に言葉が出てこない様子を見せるのは、囚人四十九番の前ぐらいだったのに。
フォクスはレィンとは違う。キリエの言葉の意味も、キリエの考えていることも容易に察知できるだろう。その上で、あざけるように嗤ってくるのが以前の彼だった。
否定や拒絶の言葉は今、返ってこなかった。
とてもいやそうに、非常に苦い物でも飲み込んだような顔をしながら、彼は口を開く。
「貴様、いつからそんなにめんどくさい女になった」
「最初っから。それでもあんたよりはずっと単純な自信あるよ」
「母のふりなんかして待ち構えて、我輩を問い詰めて、結局何がしたい。何がほしい」
「あたしは――知りたい。あんたのことを教えてほしい、あんたのことを聞きに来た。このままあたしが離れていくべきなのか、一緒にいていいのか、はっきりさせてほしいから――ううん、あたしがちゃんと、見極めるためにも、あんたのことを、あんたがあたしをどう考えているのかを、教えてほしい。今のままじゃ……何もできない、から」
「そんなもの、知るか」
吐き捨てるように言って、少年はそっぽを向く。
「自分の気持ちがわかるぐらいなら、自分が抑えられるものなら、お前のことが簡単にわかるなら――私たちはこんな面倒な事になんかなっていない」
「……イライアス、様?」
表情と口調、仕草の変化を敏感に感じ取ってキリエがいぶかしげに聞いてみると、女装姿の少年は苦笑いに顔をゆがめた。
「お前が離れていくのならそれも仕方ない、むしろ当たり前の事だと思っていたのだが。こうしてわざわざ一計を案じてまで会いに来るのだから、こちらもそれなりの対応をしなければ失礼だろう? ……話してやろうではないか。お前の知りたいこととやらをすべて、な」
ごくりとつばを飲み込んだ従者に――いや、今はただの小娘でしかないキリエに、少年王イライアスは鋭くもどこか優しい銀色の双眸をひたとつきつけた。
「さ、いまいちど尋ねてみろ、キリエ。お前、私の一体何が知りたい?」




