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野獣3

 キリエの近くの地面やバダンが前に出て掲げた荷物に刺さったのは、小さな矢のようなものだった。

 明確な攻撃が形として視界に入った瞬間、キリエはその場に棒立ちになってしまう。


 修羅場の予感や本能的な危機感、主からの命令という点について考えるなら、彼女はその場から文字通り脱兎のごとく走り出すべきだった。

 とっさに足を止めたのは、けして恐怖のせいではない。

 喧噪や荒事になら、そういう世界で生きてきた時間の方がむしろ長いのだ。最近ちょっと平和ボケしていた感じはあるが、たとえ直撃を受けていたところでパニックになることはない。


 彼女を迷わせたのはただ一つ。その場の主の存在――従者としての理性だった。


 ――逃げる――。

 ――いや、まず主を――。

 ――でも、主が――。

 ――主人を放っておいて逃げ出す従者があるか――。

 ――いや、この人の場合、色々見越した上で逃げろって言ってることもあるけど――。


 迷う心と決まり切らない判断は身体を縛り付けた。悠長にこっちを待ってくれる敵が現実にいない以上、困ったキリエがおろおろしている間にタイムリミットの方が先に来る。


「アンタねえ、こんなところでそんな健気な態度見せられても、こっちも困るんだけどっ――!」


 苛立っているような呆れているような嬉しがっているような、悲喜こもごも混ざった感じのハノンの声がする。


(あたしだってあんたのこと好きな自覚はあったけどこういう方面で出てくる好意だとはあんまり思ってなかったというかここまでだったとは思わなかったっていうか、従者を先に逃がそうとするあんたがやっぱり圧倒的におかしいっていうかっ――!)


 非常事態になってみて初めて、キリエは自分が案外すさまじく真面目な従僕であったことを実感していた。


 言葉で返事が一切できないあたり、危機に瀕してかなりテンパっているだけなのかもしれないが。


「止まれ、汚らわしい蛆虫共が!」


(たぶんキリエに対する)舌打ちをこっそり挟んでから、ハノンは不審者達に向けて高らかに言い放った。

 最近風邪気味なのか少しかすれて出しにくそうになっている感じもあるのだが、彼女や彼の声は相変わらず不思議と耳に残って聞き入りたくなる声質を残している。


 びりりと空気が揺れると、男達は一度気圧されるように止まった。

 ざっと目で数えて二十人ほどだろうか。その足並みを見て、キリエはさらにぞっとする。


揃っている(・・・・・)――こいつら、素人じゃない!)


 辺りは草原が広がっている、道が一本まっすぐ伸びた見通しのいい場所だった。つまり逃げ込む所も隠れる所もない。さっきの主の言葉といい、自分達のとことん不利な状況を嫌でも理解してしまう。


「なるほど、一応話をする余裕があるということなら手っ取り早く聞こうか。何がほしい? 物によっては無条件でくれてやる、この場でな」


 口調の変化に、あれ、フォクスが出てきたのか、ただでさえけんかっ早いあいつが表に出たら色々まずくないか、とぎょっとして主を見やったキリエだが、確認したら顔はどうやらハノンのままだった。

 そういえばハノンという人格は女扱いされても男扱いされても大して気にしない。今まで機会がなかったから見る事がなかったけど、このしゃべり方の方が案外素だったりするのだろうかと、ここに来て御主人様の新たな一面を垣間見た気分だ。


(っていうか、声どころか表情で主の人格の判別がつくあたり、あたし本当に実は割と手遅れなほどめちゃくちゃ入れ込んでるんじゃないか、他に指摘してくれる人がいなかったから全然気がつかなかったけど!)


 主の奇妙な落ち着きっぷりが伝染しているのか、それとも焦りや驚きが一周回って思考を冷静に見せかけているのか。ともかく目の前が真っ白にならないことだけは幸いだ。これ以上は出遅れまいと、キリエは固唾を飲んで状況を見守る。


 男達はしばし沈黙していたが、その中から一人が前に出てきたかと思うとハノンに向かって言葉を返す。


「国王陛下のご一行とお見受けします」

「馬鹿め、お前ら王をなんだと思っている。いくら気狂いでもこんなところをのこのこ三人でそぞろ歩きなどしないし、許されるはずもない。あえて言うなら自分は囮だ、本物は安全は塀の中からけして出てこない。今頃は優秀な護衛達に守られてのんきに寝てる時間だよ」


 さすがに修羅場慣れしているらしい交渉事担当者は落ち着き払っているどころか不遜だった。

 確かに現状、レィンとイライアスは安全な精神の壁の中にかくまわれている、よってあながち間違いとも言い切れない――いやいや待て待て、身体は同一人物なんだからやっぱりこれが本人で合っているんだって。

 いっそ清々しい程のとぼけぶりに、一瞬キリエの方まで混乱しかけた。


「どういうことだ? 話が違う」


 目の前の人物が胸を張って嘘をついているせいか、動揺とまでは行かずとも男達の間にいぶかしげな気配が広がる。

 その様子にぴんときたキリエが主の方に顔を向けると、向こうは小さな声で返してくる


(ついてるわ。こっちも顔は隠しているわけだけど、声ですぐに判別がつかないあたり、直接の知り合いじゃなさそう。しかも結構チョロそうよ)

(それは確かに良かったことかもしれませんが、多勢に無勢な状況は変わらないわけですし、いきなり吹き矢っぽいものを浴びせかけてきた相手ですよ!? もっと穏便に済ませる姿勢をですね)

(だって滅多にないもん、こんなこと。楽しまなきゃ損でしょ)


 享楽家のハノンが交渉事担当なのって実は配役ミスだったんじゃないのか、と目を白くしているキリエだが、敵がまたこちらに視線を向けてきたのでぴんと姿勢と耳を伸ばす。


「それでも、あなた方ご一行が少なくとも王にかなり近しい関係者であることはわかっている。要求を、とおっしゃいましたね。我々の望むことはただ一つ。共においでください」

「これはあくまで興味関心好奇心を満たすため参考までに聞いてみることなのだけど、万が一アタシ達が嫌だ断ると言ったらどうなるの?」

「命まで取るつもりはないが、その場合――」

「決裂だ!」


 一番最初に動いたのはバダンだった。

 ハノンが高らかに叫ぶと同時に、荷物を投げ捨ていつの間にか脱いで手にしていた外套をばっと広げ、男達の目くらましにする。それから目もとまらぬ早さで立て続けに三つ石を先頭の群れに向かって投げた。虚を突かれた一人の頭には見事命中したが、一人はかわして身体に当たるにとどまり、さらに一人――さっき先頭で喋っていた、おそらくリーダー格の人物――は素早く武器を抜き払って防いだ。


 バダンもまた、腰の後ろに下げていた棒を抜いてぶんと大きく音をさせて威嚇のように振る。

 男達の殺気がふくれあがるのと同時に慌てたのはキリエだった。


「ちょっと、おいっ!」

「だからさっさとこの場はアタシ達に任せて逃げろと言ったのに」

「いや任せて云々は聞いてないし、置いていけるわけないでしょっ――」

「あんなの足手まといだからさっさと失せろって意味に決まってんでしょ、言わせないでよ恥ずかしい――ほら、退路がなくなった」


 ハノンは再びキリエの肩をがっとつかんで引っ張った。

 ひゅひゅっと鳴る音に、ハノンは素早く拾い上げたバダンの荷物を掲げた。また、矢が刺さる。

 はっと顔を上げたキリエの目に映るのは、バダンが相手にしているのと逆の方向、つまり自分達の進路に当たる道に新たに十人ほど広がる光景だ。


「交渉事担当のくせに積極的にしかけに行った奴が何言ってるんだ、この大馬鹿!」

「だってこっちの方がよさそうだったんだもの――これ以上邪魔になりたくないならあっちに行ってなんとかなさい!」


 ハノンが指さしたのは道の脇の何の変哲もない草原、もう少し言うとその先に見える林か森だ。

 見通しのいい平地で挟み撃ちになった以上、確かに大人数を相手にしてなんとかなるとしたらあそこしかない……のだろうか。


「走れ!」


 なおも一瞬判断に迷いかけたキリエだったが、主が飛びかかってきた男をさらりとかわすどころか、ついでに手にしていた獲物を奪い取ってその背を強打しつつ叱咤すると、ようやくぴょんと身体が飛び跳ねる。


 一度こわばりがとけるとその後はなめらかで素早かった。もともと逃げ特化の種族だ、王宮に行っても使いっ走りで衰える事のなかった若い身体は、文字通り飛ぶように野を跳ねる。


「追え!」


 耳を澄ますと、結構な大人数が追ってくる気配がある。こうなればもう、できる限り戦える二人の邪魔にならないように、惹きつけて追いかけっこに徹してやると腹をくくった。

 バダンが実際強い――のかはともかく、体力馬鹿で力持ちなのはわかっていたし、御主人様は定期的に忘れかけるがあれでも立派な獅子の末裔、さらに近場で言うならかの誉れも悪名も高いバスティトー二世の孫なのである。

 口だけでなく実際規格外に強い。と、思いたい。思わないとこの場をしのげない気がするのでもうそう思い込むことにする。


 飛んでくる物の音があれば地を蹴って避ける。

 命までを取る気はないという宣告通りなのか、基本的にあの吹き矢もどきだけのようで、ならば動いているときのキリエは当てられない自信がある。

 ジグザグに走ると更に相手は翻弄されたようだった。


 ちらっと少しだけ背後を確認すれば、十人ほど――いやさらに多いだろうか、がキリエの方についてきていた。


 真後ろ、右斜め後ろ、左斜め後ろの三方向に展開して逃げ道を塞いでいる。


(亜人――じゃない? 人間部隊? 皆足が遅い、これなら!)


 追いつく程の足の速さを追っ手が見せていない以上、なんとか目標の森には駆け込めそうだ。

 木登りはそこまで得意という方ではないが、がらくたが密集した場所での追いかけっこなら昔散々やった。


(御主人様――達の方まではさすがに見られない、今はあたしのことに集中を!)


 とにかく駆け込んで、あとは包囲されないように気をつけながら逃げて、それから――。


 順調に、圧倒的な差をつけて逃げ続けられていたキリエは――焦っていたのだろう、それに元からそこまで頭の良さを自負しているわけでもない。


 いよいよ目前に木々が迫って一瞬だけ心に差した安堵の気配。それを突くように、森の中からざっと影達が躍り出た。


 ――まちぶせ。

 ――追っ手が遅かったのは、追いつく気配がなかったのは、必要がなかったから。


 反転しようとするが、間に合わない。

 飛び出してきた男の一人が獲物を――鞘をつけっぱなしの短槍か、杖を振りかぶる。


 あまりに前に進むことに気を取られすぎて、とっさに防御の姿勢も取れなかったキリエの腹の中に吸い込まれるように、勢いよく鉄の棒がたたきつけられた。



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