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野獣2

「我輩達がここに来るのは、これで最後になりそうだ」


 数ヶ月ぶりに牢に入った主は、至っていつも通りにはしゃぎながら身体の世話を終え、片付けもすっかり終わりきってから男に切り出した。

 キリエとバダンは今日も物言わぬ壁だ。二人に語りかけられれば答えるが、そうでなければ存在を見せない。望まれるとおりの従者をつとめている。

 白髪の囚人は突然の別離を宣言され、青い目を見開いてから、優しく苦笑した。驚きはそこまでではなさそうだ。どこか、何か悟っていたような感じもある。


「そうか。寂しくなるな」

「ごめんねー。アタシ達、人気者なの」

「だろうと思ったよ」


 ハノンがおどけて軽口を叩けば、彼は合わせてくる。

 その顔をじっと見つめていた御主人様が、どこか迷うように視線をさまよわせてから口を開ける。


「聞かなくていいのか?」

「何を?」

「今なら答えてやらないこともない。最初の頃はそれこそ質問責めだっただろう。お前は誰だ、どこから来た、なぜ、どうしてこんなことをする、目的はなんだ――我輩達に、色々聞いてみたいことがあったのではないか」

「最後だから、聞いたら教えてくれるとでも?」


 男には目があまり見えていなかったはずだが、沈黙が肯定であることは伝わったようだ。

 横で聞いているだけのキリエも思わず背筋を伸ばした。そわそわ先輩従者を見れば、彼は不動だ――本当に、この人は最初に出会ったときからちょっと肝が座りすぎているというか、実は何にも興味がわかない性質だったのかと疑いたくなってくる静けさである。


 従者の密やかな心のざわめきをよそに、男はしばし声の主の方に顔を向けて考えるようにしていたが、やがてゆっくりを首を横に振った。


「……何もない」

「本当に?」


 キリエも内心おやと思ったが、声は上げない。成り行きを見守るに任せる。主の方も男の返答に拍子抜けというか、やや不満そうだった。男は穏やかな表情のままだった。


「そうだな。あえて言うことがあるとしたら――満足、できたか?」


 ――なんとも、不思議な問いだった。正体や理由を尋ねるでもなく、ただ主に心の充足を聞く。あるいはもっと別の意図があるのだろうか? 二人のことを深くは知らないキリエにはわからない。


 ただ、主にとっても男の質問は想定外のものだったようだ。即答せず、なんとも言いがたい非常に微妙な顔をしていた。


「肯定であり、否定だ」

「……そうか」


 苦虫をかみつぶすようにやっと答えたフォクスライに、男は目尻を下げてうなずいた。それでいいのかとキリエは言いたくなったが、彼はもらった返答に満足しているらしかった。


「安心して。アタシ達が来なくなっても、あなたの待遇が悪くなることはない」

「近頃は王の評判も悪くなっているからな。案外貴様が出られるのもすぐかもしれないぞ」

「じゃあ、外に出られたら、会いに行ってもいいか」


 囚人を励まそうとしたらしい主だが、今度こそ意表を突く返しをされたせいだろう。

 正直な尻尾がびーんと伸び、一瞬彼らは完全に無防備なレィンになる。

 慌てて交代人格で覆うようにするが、浮ついた声には動揺が隠しきれていなかった。


「……我輩達に?」

「アタシ達に?」

「うん」

「やめておけ」

「やめといた方がいいよ」

「……そう言うと思った」


(このぶっきらぼうは照れ隠しか)


 主と二年間の付き合いがあるキリエには、なんとなくわかって鼻を鳴らした。じろっと視線が飛んでくる気配がするので何も余計な事はしませんよ! とジェスチャーで返す。


 ぴしゃぴしゃとはたき落とすように冷たくつれない言葉に、けれど彼が気分を害した様子はない。

 なくした腕をさするようにしている彼に、硬い声で拒絶をしたばかりの少年がおずおずと聞き取りにくい小さな声で言った。


「……あんたには、待ってくれている恋人がいるんだろう? 彼女のところに帰ればいいじゃないか」


 事情を知っているような言葉に、囚人は薄く浮かべていた微笑みを深めた。間違いなく柔らかな笑みを作っているのに、なんだかその顔が泣いているようにも見えて、キリエは戸惑う。……ひょっとして、もう会えない相手なのだろうかと、どきりとさせられる顔だ。

 彼女がそっと盗み見ると、御主人様もまた、男をじっと見つめながら悲しそうな顔をしていた。彼に触れようと手を伸ばしては、痛みを感じたかのようにびくりと引っ込めて、それでもおずおず手を伸ばしたがる。そういうことを続けているうちに、相手の方が気がついたのだろうか。切断されていない方の手をさまよわせる。

 大きな手と小さな手が、指先から触れ合って絡まり合い、そっと握られた。

 二人とも何も言わない。

 少年は当初、握られた瞬間顔を真っ青にして震えそうになったが、離さないでいるうちに徐々に落ち着き、やがて温かい湯船に浸かったときのようにほっと息を漏らした。






 閉ざされた陸の孤島を唯一外界と結ぶ跳ね橋が上がっていくのを見届けてから、キリエは主にそっと語りかける。


「本当にあれでよかったのですか?」

「何が?」

「話したとおり、状況によってはもう二度と来られないかもしれないのに。彼とまだまだ話し足りないように見えましたし――あなたは、言えなくてよかったのかなって」


 結局あのまま本当にいつも通り、その後何か特別なするでもなく男を置いて出てきてしまった主に、未練や悔いはないのかと従者が問いかける。

 彼女ははっと鼻を鳴らし、優美な白い尻尾を揺らした。


「いいのよ、これで。あの人が聞いてくるなら、腹をくくってもよかったけど……そうね、やっぱりアタシ達三人はあの人が大好きで、何も言わなかったらあの人もそれなりに優しくしてくれたから……憎まれる覚悟が、まだ足りてなかったのかもしれないけど」


 進み出した主の背中を見つめながら、従者の思考も一緒に歩き出す。



 囚人四十九番を終身刑にしたのは、先代国王であるイライアス一世だ。反逆罪だったのだと言う。一体何をして反逆とみなされたのか、なぜ処刑されずに牢に入れられたのか、キリエは知らない。


(私の母は元々人妻だったんだ。横恋慕した父は、ありったけの権力を使って、前夫と産まれて間もない娘とから母を引きはがし――)

(――あるときついに凶行に走った。前夫と長女を殺せば自分の子に愛情が向くと考えたようだが、完全に逆効果だった。母は私を産んで、すっかり心と身体を壊してしまった)

(――母は。優しい人だったよ。ずっと、鳥籠の中で夢を見続けていた。幸せだった頃の家族三人の夢を、私が生まれた十二年前から、三年前に病死するまでの間、ずっと)



 さえずり方を忘れた鳥が、待っている。

 鳥籠の中でずっと、待っていた。

 幸せな頃の夢を見ながら、いつかそこにやってくる番いを夢見て、籠越しに、堅牢な壁や天井越しに、きっと見えるはずの青空を、いつまでも見上げている――。



 何かを思いついたような気がした。真実を垣間見たような気がした。彼らの本当の正体を、関係を、風がまくり上げた秘密のヴェールの下に見る――。


 けれど点と点が線を結ぶ前、確信に至る直前で不意に中断させられた。


「キリエ。キリエ!」


 いつになく切迫した調子の主の声音に、キリエははっと我に返り、すぐに異常を悟った。


「そのままでいい、そのまま歩きながら聞いて。……つけられてる」


 従者の手を握って、歩調を保ったまま小声で主が言った。そのすぐ側を固めるように歩いているバダンも、変わりにくい表情に嫌な緊張を浮かべている。

 彼女はピンと耳を立て――拾った音に、血の気が顔から引いていくのを感じる。


 今回の家出は完全に囚人と会うためだけのもので、墓やヤザン邸に寄ることもなく帰路についている。

 面倒事に巻き込まれないよう、あるいは巻き込まれてもすぐに助けを呼べるか逃げられるように、なるべく明るい場所を通っていくつもりではあったのだが、牢獄の場所が閑散とした郊外である以上、どうしても人のいない場所を通過することは避けられない。


 普段は静かで木々がさやさや揺れる音しかないような場所に、三人以外、明らかに大勢の足音が響いている。それも、なるべく音を殺すように動いているようで、さらにその殺そうとしている音の中に気のせいでなければ硬い物が触れ合う物もする。

 キリエの震える身体を、主が気をしっかり持てとでも言うようにぽんと叩いてくる。


「わかった? パニック起こさないでよ、変な刺激したくないんだから」

「御主人様、たぶん……武装してます」

「あっちゃー。気をつけてたんだけどな、やっぱり無理しちゃったっていうか、少し焦りすぎたか。どこから漏れたんだろう……ああ駄目だ、割と心あたりがある。今までこういうことがなかったのが奇跡なぐらいだもんね」

「ただの物盗りではない――あたしたちを狙っていると?」

「あんたの顔からして、たぶん相手の数が多すぎるのでしょう? お膳立てが整いすぎてる。行きに通ったときにやたら静かだなとは思ってたんだ、この時間なら何人かとすれ違ってよさそうなのに全くなかった。悪い予感って言うのは的中するね。もう、誰だろうなー、こっちも心あたりがありすぎてさあ、アタシって本当に人気者――」


 ハノンの言葉を切ったのは、鋭く宙を切る音だった。


 とっさにキリエの頭をぐっと下げさせて飛来物を避けた主が、素早く立ち上がったかと思うと従者の背を突き飛ばして叫ぶ。


「キリエ、逃げなさい! あんたの特技でしょ、走って!」


 振り返った彼女の目に、物騒な雰囲気をまとって向かってくる顔を隠した男達と、それに立ち向かおうというのか、ぱっと身体を翻した二人の連れの様子が映った。


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