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野獣1

 何度目だろう、主が自室の窓の方に美しい銀色の瞳を不穏に揺らすのを見て、キリエは刺繍の練習をしていた作業の手を止め、たしなめる声を上げる。


「レィン様」

「キリエ。いつになったらお外に出られるようになるの?」

「まだ、しばらくは無理でしょう」

「もううんざりよ。一体何ヶ月ここに籠もっていると思っているの?」


 口を尖らせる主は、近頃ずっとこの調子だった。

 王宮の外も中も、最近はすっかりどんより湿りきったように重くて、それでいて火だねがあればあっという間に燃え上がってしまいそうな緊張を帯びている。


 世はまさに末世と言っていい様相を呈してきた。汚職や横領が横行し、人々は身を守るための盾として、あるいは見せびらかすための飾りとして富を求めたが、取引はいつの間にか騙し合いと同義語になっていた。疑心暗鬼は裏切りを産み、ますます混沌が進んでいく。信仰も人を救わない。バスティトー二世に崩された神殿はかつてほどの力を保てず、ちらほらとあやしげな新興宗教も流行りだしているらしい。


 ただ一つ、王宮の内側に籠もって遊んでいる王の怠慢のみが、はっきりしたこの事態の原因と問題として時たま一斉に唱えられる。その声は日を増すごとに大きくなる一方だが、王宮の内部からも抑える動きは出てこない。むしろ権力闘争に忙しい貴族達と神殿とは、自分が民衆の非難の矢面に立たされないためか、以前にも増して無能な少年王の責任を強調し、時にはその享楽の様子を誇張してばらまいている。実際に遊んでいるのは自分達の方、レィンは諸々のあおりをうけて自粛を強いられる一方だと言うのに。



 さらに悪いことに、レィンは――他の人格ではなくレィンは、彼女自身が政治や人の悪意を全く理解しない。自分が何ヶ月も同じ部屋に閉じ込められている事を我慢できないし、それが自分のためだと説明されても納得できるほど成熟もしてくれない。退屈が嫌いな彼女は金のかかる女だったが、その金が誰の血と涙と汗によるものかについて想像が欠如していた。無知で無能で子どもな姫君であり続けたから。


 ――レィンという女は、けれど、そういう存在にこそ、価値を持っていると考えられているのだった。

 そういう状況全部ひっくるめて胸糞悪い、吐き気がする。



 安全のためと半ば軟禁気味の主の手すさびに付き合って苦手な刺繍に取り組んでいたキリエだったが、彼女が頬を膨らませて訴えかけると、げっそりした顔に疲労混じりのいらだちを浮かべる。


「それは、ですから何度もご説明申し上げているように、今はお外が危ない時期で――」

「なら、今度会った時にお父様にお願いする。わたくしもうじっとしているの、つまらないもの。お母様とお父様に新しいお話しをしてあげなくちゃ――」

「いい加減にしてください!」


 キリエは思わず手にしていた物を投げ捨て、怒鳴りつけていた。

 ちょうど、止めに入るバダンがタイミング悪く外していたせいもあってか、彼女の累積した怒りはまっすぐ年下の主人に向けられる。


 ぴん、と形の良い猫耳と尻尾が驚いて毛を逆立てた。


 我慢の限界に来ていたのは従者とて同じ。一体何度、この不毛なやりとりを交わしたことだろう? 心に余裕のあるときは苦笑して流せた主の天真爛漫さと子どもらしいわがままが、今は鬱陶しくて憎らしくて仕方ない。


 ところが目を見開いてうるませそうになった彼女の表情はすぐまた変化し、とろけた媚びを帯びたまなざしがやってくる。キリエは思わず舌打ちした。


「あら珍しいじゃないのキリエ、そんな風に荒れて当たってくるなんて」

「もう、そうやって、すぐ庇う!」


 地団駄を踏む彼女に、やっかい事担当者は余裕の微笑みを向ける。

 喧嘩を今まさに始めようとした相手に逃げられたような感じになって、キリエは感情の行き場所を失った。

 そのまま自然と霧散してしまうことも多いのだが、今日はごまかされまいと心に決めているのか、彼女のいらだちと怒りは静かにとぐろを巻き、上がったままの肩が下がらない。

 常より長期戦の気配に、自然とハノンも背筋を伸ばして気持ち真面目な顔立ちになっている。


「あんたたちがこぞっていつまで経っても甘やかすから、あいつはあのまんまだ――もう、十四歳なのに!」

「いいじゃない、そのためにアタシ達が存在するし、他の大人達だって空気読んでくれるんだから」

「それでいいのか? イライアスはね、そりゃ確かに悪い所もあるけど、ちゃんと年相応かそれ以上に育ってるし、公務だってこなしてる――でもレィンは、レィンは! 未だに自分を、生まれながらのお姫様、女の子だと思ってる! 父親の葬儀も理解できない、鳥籠の中の母親が別人であることも理解できない、外の事なんて何もわからない、大好きなのはお菓子とお人形遊びと危険きわまりないお忍び遊び――いつまでこんなものを続けるつもりなんだ、あんたたちは!」


 キリエの中に溜まっていた不安と不満の正体を知ったのか、ハノンの美麗な顔に珍しく皺が寄った。


「だから、言ってるでしょ。そのためにアタシ達は存在するんだって。いつまで? むろん、死ぬまで続けるのよ。それがアタシ達の理想だから」

「でもっ――」

「でも? 何よ。いいわよ、アタシはハノンだもの。なんでも言いなさいよ」


 従者は肩と目を怒らせて再び口を大きく開けたが、そのまましばし硬直したかと思うと、なんだかすっと脱力した。口撃の準備をしていたハノンは張り合う相手を失ってずっこけかけている。


「やっぱり、いい」

「なによぅ、そっちからつっかかってきておいて。なんならフォクスにだって変わってあげるのに」

「そういうところが嫌だ。あんたでもフォクスでも一緒だ、あたしは単純で、あんたたちは話がうまい、気をつけててもすぐに丸め込まれちまう。あたしが話をしたいのはレィンの方なのに、あんたたちはすぐ役割ごとの担当に変わっちまう、そのまんまでいてくれない」


 投げ捨てた刺繍を緩慢に拾い上げようとする従者に先んじて白い手が素早く動いた。

 思わず受け取りがてら目を合わせることになってしまった従者を下から見上げて、ハノンはささやくように言う。


「もし、アンタが言ってやったとして、それで何がどうなるの。レィンは現実をけしてわからないし、真実を教えようとしてもかえって混乱して泣くわ、びーびーと。あんたはすっきりしたかったつもりが、後味悪くなってしょんぼり、それだけよ。そんなことしたって誰も得しない――キリエ」

「あたしだって、この二年間、ずっと近いところでお仕えしてきたんだ、ずっと見てきたんだ、わかってるよ! レィンは幸せな子どもでいる、それ自体が役割なんだって! だけど、じゃあ、レィンの嫌なことをさせられてるあんたたちは? あんたたちの気持ちは誰が受け止めてくれるんだ?」


 言い切ったキリエを前に、ハノンはきょとんとした。完全に虚を突かれたような顔だった。

 再び刺繍が手から落ちていくが、どちらも構っている暇がない。

 発育がよく少し背が高めだった十七歳のキリエに、成長期のレィンはいつの間にか追いつきかけていた。今ではほとんど大差ない身長差だ。それでもうつむかれると表情をうかがいにくい。


「……あんた、本当に、面白くて……良い子ね」


 こぼしてから、ハノンは一歩引き、苦笑を向けてくる。


「あのね、キリエ。確かにレィンはアタシ達とは違う。彼女はアタシ達の誰とも共有ができない、アタシ達を自覚することもない。……でもね。あの子もまた、アタシ達自身、アタシ達の一人なの。どうして彼女が執拗に外に出たがっているのだと思う?」


 最初、感情の高ぶりのままに怒りをぶつけたキリエは、次第に頭が冷えてきていた。もともと短気だ、かっとなるのも早いが冷めるのも早い。

 冷静な思考が、ゆっくりとながら問いに対する答えを探す。

 キリエの表情がはっと変わるまでを十分待ってから、御主人様は区切った言葉を続けた。


「今外に出たら危ないことは、皆わかってる。特にアタシ達は懸命で、身体の守護も受け持っている人格だから、自分から危険に飛び込むような事は言い出さない。……でも一方で、今しかない、これ以降はきっともっと外出が無理になるってことも皆わかってる。――だから、心が叫ぶの、会いたいと。あの子はアタシ達の誰よりも素直なだけ、たとえどんな風になっても深い場所でアタシ達はつながっている。――わたしたちは、一人の人間だから」

「……囚人四十九番、ですか。あなたたちが彼に会いに行きたいと思っているから――レィンはたとえ、あなたたちのことがわからなくても、それに近い行動を取ろうとする? 彼に会うために、危険を冒してでもここを出たがっている?」


 彼らは沈黙を保った。それは何よりも強い肯定を意味した。

 聞いている方に新たなもどかしさが生まれ、彼女は再び目の奥がかっと熱くなるのを感じた。


「教えて、あいつ一体誰なんだ?」

「……言えない」

「どうして? 交代人格のあんたたちも?」

「言いたくない」

「なんで――」

「キリエ。お前は母を愛していた? それとも憎んでいた? それともどうでもよかった?」


 問いの形をした、牽制だったのだろうか。

 答えにくい話題を出されて勢いが詰まった彼女の前で、ふわりと彼がほどけ、彼らが次々に現れる。


「わたくしは、お父様とお母様がだぁいすき。愛しているわ、もちろん、家族ですもの。当たり前でしょう? でも本当はお母様の方が好き、柔らかくていい匂いがするから」

「私は父上を敬愛している。……母上のことも、もちろん。でも、父上の期待に応えることが、一番だから」

「あんな奴、知るもんか。どっちも毒親だった、我輩達のことをちっとも考えず、親としての責務を放棄して捨てた最低な奴らだ。王としてだって失格だ、ろくな引き継ぎもせずに放り投げて」

「悪い人じゃなかったよ、どちらも。でもね、良い親だったかと聞かれると困るかな。アタシ、ほら。結構傍観者だから。……嘘ついても良いけどさ、つまらないだけの奴って芸がないでしょ?」


 レィン、イライアス、フォクスライ、ハノンは順に語った。

 一人の人間の身体で、異なる答えを導き出す。

 キリエはそのどれにも反論ができない。

 どれもまったく、彼らそれぞれの本心であったろうし、キリエだって親の事をどう言ったらいいのか自分でもわかっていない。

 四人が思い思いに親を語った最後、いつもは喋らない彼が長い沈黙の後、ぽそりと小さく呟いた。


「……おとうさんに、あいたい」


 耳の良いキリエだからこそ聞き取れた囁きは、他の誰の言葉よりもまっすぐに彼女の心を突き刺した。


 立ち尽くす彼女の前に出てきた少年は、少女のまとっていた趣味の悪い(・・・・・)衣装に気がつくと、自室であるのをいいことに着替え始める。脱ぎ捨てた服を拾おうともしないキリエを彼は責めない。かわりにいつ戻ってきたのか、主に忠実で無口な先輩従者がさっさと寄ってきて手伝いを開始した。


「明日の晩、私は出かける――と、思う。それでもう、例のところに通うのも、外に遊びに行くのも、きっぱりやめる。……これで最後だ」


 男姿の支度をととのえ終える頃、少年は小さく二人に宣言した。


 今度はキリエも異論を唱えなかった。

 ぎゅっと唇を引き結んでから、少々乱暴に、けれど丁寧に、主に対して礼をし、了承と随従の意思を示した。



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