塩水4
ハノンはバダンに抱えさせていたものを広げるとてきぱきと仕事を開始した。
まず、備え付けの陳腐な水道からコップに水を汲んで、先端が丁寧にほぐしてある木の枝とともに渡す。まず口を綺麗にしろということなのだろう。
男の青い目が嬉しそうに輝く。
「助かる。看守達はここまで気を遣ってくれないからな」
「でしょうとも。食べ物だって大したことのない物だから、口をゆすげばそれで済むと思っているんだわ」
いつものことながら置いてきぼり状態でそのままぼーっとただ見送る係になりそうになったキリエだが、主が男からうがいに使用したコップを受け取っているところを見て、はっと我に返って耳をピンと立てる。
「あの、御主人様。あたしがやりましょうか。お召し物が……」
ここに来るために、顔を覆う布の下の服まで地味に庶民に溶け込むようにしてあるとは言え、見る人が見れば瞬時に身分が推し量れる(らしい。もちろんキリエは見る人ではないので、さっぱりわからない)ほど、基本的にハノン達の着ているものは値が張る。腐臭ただようとまでは行かずとも、鎖につながれ日当たりの悪い部屋で無精ひげを生やし長髪を伸ばすままの男に触れていいものとは思えない。
というかそれ以前の問題として、いくら別人格の時はそれこそ別人のように見えて振る舞っていようとも、断じてこんないかにも使用人のやるべきような作業をさせていい相手ではないのだ。数々の破天荒な行動からしてしょっちゅう忘れかけるが、彼女は彼らでもあり、彼らの一人であるイライアスは、たとえどんな状況にあるにせよこの国の王なのである。そしてキリエは王の従者、手足となり目となり耳となり、有事には盾となるべき存在だ。この場合は主にかわって雑事を行わねばなるまい。
と、真面目に従者業をやろうとしたら、主はさっと白い耳を伏せ、よりにもよって威嚇するように唸ってきた。
「野暮天! いいの、アタシがやりたいの!」
「あたっ」
ついでに物を受け取ろうと伸ばした手も軽くひっかかれる。
キリエが手を出したがっている雰囲気をしている間中、ハノンはシャーシャー言って毛を逆立てた。
やっぱりいつもの主人らしからぬ態度である。
驚いた後のキリエに訪れるのは困惑だ。知らない間に部屋の外に出ていたバダンはお湯を張った大きな鍋を抱えて戻ってきていた。そっちを手伝おうとすると、重くて危ないからと追い払われてしまう。
まずい、従者のはずなのに何故か手持ち無沙汰だ。どうしよう。
おろおろしているキリエに、ぴしゃんと言葉が放たれる。
「余計な事をするな、愚民。貴様はその辺の邪魔にならないところにでも立っていればいい、手が借りたくなったらこっちから言う。そのぐらい気を利かせろ、馬鹿め」
フォクスライだ。どういう原因かは知らないが切り替わったらしい。直前までハノンだったせいか、囚人の顔をやけに丁寧な手つきで温タオルで拭いたままいつもの毒舌をかましているのが、なんだか絶妙にシュールだ。
キリエはイラッとして言い返すか、主の状態のミスマッチングに言及するかで一拍迷い、出遅れた。
今度声を上げたのは囚人の男である。
「やあ、少年。お前もいたのか、喋らないと静かだから気がつかなかった。さっきのは新しい声だったが、今日は大人数で来ているのか?」
男の言葉から、ひょっとして彼は目があまり見えていないのか、とキリエは思い至った。そういえばさっきから音のする方角に反応するように顔を向けている。部屋がキリエにしてみれば暗いように感じられたのは、彼が見えないからか、それともこの部屋に閉じ込められて目が退化してしまったのかまではわからない。
どうやらフォクスライのことも知っているらしい彼は、目が見えていないため主人達が一人ではなく複数人いると思っているのだろうか。ハノンがいた場所から音源を探すように少しだけ顔の向きを変えようとした。
「フン、このまま黙っていてやろうかと思ったのだが、どいつもこいつもポンコツだからな、つい喋ってしまった。相変わらず無様な様子だな、囚人四十九番。それとそこのノータリン従者の事など気にする必要はないぞ、あとクリームが口に入ったらどうする、もう少し黙ってろ」
「そっちは相変わらず嫌味が絶えない。従者? そうか、新しい子を雇ったのか。あまりいじめすぎたらいけないぞ」
「やかましい。兄妹がどうしてもというからだ、我輩はこんな奴見捨てても全くかまわなかったのだがな。そら、ショリショリっと行くぞ、うっかり舌をそぎ落とされたくなかったら今度こそ黙れ」
「はいはい」
「黙れと言っているだろう!」
今日も絶好調な減らず口だな、でも他でもないいつも上から目線の何様フォクスライ様が、囚人に甲斐甲斐しく髭剃りクリームを塗って、その後にせっせとカミソリを動かしている絵面が面白いから、このまま黙っていてやるよ。口開いたら笑いが止まらなくなりそうだし。
キリエは謎の強気を胸に、二つの意味で表情をひくつかせている。
男は相手の嫌味もなんのその、世話の合間の隙を見ては愛想の良い声を上げ続ける。
「ええと、新入りの……どこにいるのかちょっとわからないが、聞いているならそのままで。そこの男の口に出す言葉はあまり気にしなくていい、どうせ半分照れ隠しだ」
「ええ、それはもう、承知しております」
「そこか。いい返事だ。……ちょっと声が高いように聞こえるが、もしかして女の子なのか?」
「黙れ愚民共、我輩がいいというまでしゃべるな」
「そうか、そうか。お前にもとうとう友達ができたのか、よかった」
「なんだその顔は、気持ち悪いな。うっかり手を滑らせて整形してやろうか」
「どういう言葉で関係を表現するにしろ、語る相手ができたのは良いことだ。こんなところに足繁く通っているようでは、外の人間関係が心配だった」
「ハッ、貴様が余計な口出しをすることなど何一つないわ、我輩達は完璧に日々を過ごしている」
「他でもないお前が一番の懸念事項だと思うんだが……?」
やっぱり、囚人の男はハノンやフォクスライを兄妹か何かだと思っているようだ。というか、彼ら自身が見られないのをいいことに兄妹設定で押し通しているのかもしれない。確かにその方が多少無理があっても混乱せずに済むかもしれない、とキリエは思う。美少女と傀儡王と嫌味と娼婦もどきが全員紛れもない同一人物だなんて、目の前で見せられていても未だに信じがたいのだし。
髭がなくなり、温かいお湯で顔を洗ってこざっぱりした男の顔が明らかになってキリエは密かに声を漏らす。白髪からてっきりよぼよぼの老人かと思っていたが、顔が見えるともっと若そうだ、壮年かもう少し行ったぐらいだろうか。美男子とまでは行かずとも感じのいい顔をしていて、きりりとまっすぐな性格をうかがわせる太くしっかりした眉に、口調に違わず人がよくて優しげなまなざし、それから聞き心地の良い声を出す形の良い口元が、誠実そうな顔立ちを作っている。それでいて、頬がこけたり目の下に年期のいってそうな隈が浮き出ている辺りがなんとも痛々しい。
囚人四十九番の種族が人間であることに気がついたのは、ぼさぼさの髪に櫛が入って洗われ、乾かしている時に耳が見えてからだった。その耳も、片方はなくなってしまっている。片腕に足の様子、さらにこの場所の特徴からして、彼は何かとても重大な罪をしでかしたのかもしれない。それなのに解せないのは種族が人間であるのに処刑されず閉じ込められていることと、どうにも会話や仕草の雰囲気に育ちの良さがただよっているところだろうか。
貴人がたらいを持ち込んで足を洗い出すと(キリエは一応チャレンジしようとして、やっぱり邪険にされた。今度は噛みつかれそうだったので被害を被る前にさっさと退散した)、男は気持ちよさそうに目を細めてから、また誰かを探すように首を回す。
「もう一人は? いつも二人の後ろに隠れている子も、来ているのか」
「いるわよ。いつも通り、あんたの側に」
今度はハノンに切り替わって答える。かと思ったら、キリエが瞬きした頃には彼女はすっと表情をなくし、なんとも言えない無気力な雰囲気をただよわせる。けれどいつもならただただ人形のように無反応な彼も、男を前にすると何かうずうずと期待する子どものように目をきらめかせた。
「……ここか?」
男が残った方の腕を、探るように宙にさまよわせる。その手に自分から頭をこすりつけて、彼はごろごろ喉を鳴らした。撫でられるのを堪能する主と入れ替わるようにバダンが男の身体を洗い始め、服を着替えさせる。
すっかり身体の世話が終わると、せわしなく三人で代わる代わる出てくる主は男に物を食べさせたがった。
甘いお菓子をいくつも押しつけようとする彼らに苦笑して、男は一つだけ小さな砂糖の粒を受けとって舌で転がし、堪能する。彼はいたって穏やかに三人の子ども達ととりとめもない日常の話を続けていたが、ふとその顔が鋭くなる。
「ところで、王は今、どうなっている」
ぴん、と空気が張り詰めたのはほんのわずか一瞬だった。
「いつもと変わりないわ」
「生きているよ、いつも通り」
ハノンとフォクスライは代わる代わる答えた。
さすがにキリエもここで横入をする気にはなれない。
男は彼らの答えに、空をじっとにらみつけてから深く脱力した。
「そうか……我慢比べはまだ続きそうだな」
キリエは主を盗み見たが、そのときの彼らはただただじっと、男の顔を何も読み取れない無表情で見守っているだけだった。




