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塩水3

 目が覚めると、半裸の美少女が胸に顔を埋めて熟睡していた。


 寝ぼけまなこのキリエは、状況を把握して思わず絶叫する。

 ――しかけたが、寸前ににゅっと細く白い手が首の辺りに伸びてきて大声を出すのを阻まれた。


「朝っぱらだぞ。やめろ、馬鹿め」


 小声で素早くたしなめられて、胸から口に飛び出しかけていた心臓も無事引っ込んだ。

 寝起きなのは向こうも同じらしい。いつもより大分重たそうなまぶたの下に堂の入った不機嫌が姿を現すのを見て、起き出してきた相手が誰なのかぴんとくる。


「……フォクスライ?」

「貴様もそろそろ我輩達に少しは慣れてきたようだな、愚民。様はどうした」

「……おはようございます、フォクスライ様」

「早すぎる、たわけ」


 ふわあ、とあくびをかみ殺そうとしている少年をまじまじと見てから、キリエは自分の状態に気がつき、さっと手で胸元を隠す。

 寝ている間はさすがに窮屈な男装をといているのだ、少し無防備な格好だった。


「あんたにそういう趣味があるとは、思ってなかった」

「誰が貴様のような中途半端な乳をむさぼりたがるものかたわけ、思い上がるなよただの従者が、色仕掛け希望ならもっと精進しろ、勘違いするな、我輩ではない。レィンだ、奴は乳離れができてない、若い女の柔肌には特に機会があればひっつきたがる。一応貴様も脱げば女だからな、だから昨晩も吸い寄せられた、それだけだ。わかったらその過剰すぎる自意識を庭の犬にでも食わせてきてしまえ、阿呆めが」


 嫌味を向けると、数倍の修飾のついた流暢な嫌味で返される。よくよく聞いてみれば言い訳でもあるのだが、まったくそう聞こえないのがこの人格のしゃべり方である。

 これは間違いなくフォクスライだ、そして奴があたしに不埒なことをするはずがない、と悟ったら、なんだか一気に頭が冷えたし、一瞬でも顔を赤らめちょっとそっちの想像を働かせかけた自分が激しい勘違い馬鹿にしか思えなくなった。不思議だ。


 ……いっつも男装で潰してるんだから精進のさせようがないじゃん。


 変な方に不満が行きかけた頭をこつんと軽く殴って、従者は正常化を試みる。


 ともかく、沈静されて回るようになった思考を回してみるに、おそらく昨晩倒れた後寝室に運び込まれて、そこでレィンの人格が出てきて、キリエと一緒に寝たいとでもねだったのだろう。今出てきたのはキリエの天敵の人格だったが、寝入る前の彼女には全く他意はなかったのだと自分を納得させようとする。


 レィン相手なら、抱き枕にされていても、母恋しい女の子なのだし、文句は言えないか……。


 いや、落ち着けキリエ。

 レィンは精神は少女でも身体はれっきとした男だ。イライアスやフォクスライと同一人物だ、血迷うな。


 一人で唸りながら頭をかきむしっているキリエに背を向けて二度寝に入ろうとしていたらしいフォクスだったが、うるさかったのだろう、寝転んだままこっちを向いてにらみつけてくる。キリエもまた仕方ないので寝転んだまま応じた。


「……ええと、ここがヤザン様の用意してくださったであろう、客人のための寝室だというのは理解したのですが」

「安心しろ、貴様の寝床に我輩が入り込んだのではない。我輩が貴様を寝室に連れ込んでやったのだ。ああ、心配することはない。そのときは邪心のないレィンの人格だったからな、起きないお前を心配してべたべたくっついている間に自分も落ちた。良かったな、ちょうどお前が気絶した直後にハノンも眠りについた。あいつだったらお前をそのまま寝かせておくようなつまらない真似はしないだろうからな」


 一体何を安心しろというのか、何の心配をしろと言うのか、ハノンだったら何がどうなっていたというのか、というかあたしこれもうどうしたらいいのかさっぱりわからないんだけど。

 すっかり白目に戻っているキリエの頬を、ぶにっと刺してくるものがある。

 フォクスライの白い指だった。


「貴様の母親は、このままヤザン達が適当に面倒を見るそうだ。放っておいてもそう長くはないだろうからな」


 何をするんだ、と主の細い手首をつかんだまま、キリエは硬直する。

 黒と銀の瞳が交錯した。


「本当ならもろもろ考慮してそこそこ酷い目に遭ってもらわなければ落とし前がつかんのだが、あの通り粒毒がしっかり頭まで回ってしまって自分の事すらもろくにわからず世話もできない。これ以上現世で痛めつけても何にもならんだろう、ならばあえて殺すことはないが、積極的な治療も一切しない。お前の母親はこのまま緩やかに幸せなボケのなかで死んで、どこぞの集団公営墓地にでも弔われる。いいな」

「……お墓を?」

「一応お前のたった一人の肉親なんだ、我輩達からヤザンに頼んだ。それで許せ」


 許せとは、主である彼らの事をだろうか、それとも母親のことをだろうか。

 言葉を失ったキリエの頬を指の腹でなぞって、猫の少年は耳を揺らす。


「安心しろ。親がとんでもなくても案外子どもは普通な事もある。逆に、親がどんなに大事に育ててもろくでもない子どもだっている。お前はもうあれのことはいいと、前を向いて顔を上げて歩くと決めたんだろう? だったらその通りに生きろ、悔いのないようにな」


 彼女の主人はそこで言葉を句切るとくるっと半回転し、背中を向けてしまう。


「我輩はまだ寝る。貴様にもそこを貸してやるから勝手にしろ」


 好きなことを言い捨てきってから、彼は間もなく無責任にすやすや規則正しい寝息を立て始めてしまった。


 取り残されたキリエは、置き去りにされた感情をもてあまし、口論でもしてやろうかと身体を起こして主ににじり寄りかけ――考え込んでから、結局ぽすんと音を立てて頭を柔らかな枕に戻した。


 じっと眺める先の、彼女の主の背中は小さかった。当たり前だ、彼女より年下なのだし。


 その背中に手を伸ばすべきか、それともここにいるべきか、はたまたそっと出て行くべきなのか。


 ――あたし、あんたがわからない。でもそれ以上にもっと、あたしのことがわからない……。


 結局彼女が悶々した気持ちをもてあましている間にレィンが起き出してきてしまって、従者は若干の寝不足を引きずったまま、ほとんどいつも通りに主の支度を手伝ったのだった。




 一晩たっぷりヤザンにもてなされたレィン――と、朝ご飯の間にするっと入れ替わったハノンはすっかり羽を伸ばせてご満悦な様子だった。

 ヤザンは人格が交代しても全く動じる様子を見せず、レィンの時はひたすら孫を可愛がるように、ハノンの時はお気に入りの愛人に尽くすような態度になった。


「いい男でしょ? モテんのよ、これで」


 キリエはハノンに話題を振られて返答に窮した。ヤザンが話の通じる相手だということはわかったが、同時に彼女の主にここまで自然体で接することのできる相手にあまり気を許すべきではないという、漠然とした抵抗感のようなものが消えない。

 従者の葛藤をよそに、豚の亜人は気前よく腹を揺すりながら言う。


「キリエたんも、何か困ったことがあったらうちにおいで。援助は惜しまないからさ」


 ヤザンからの言葉にも、キリエは引きつった笑みで曖昧に言葉を濁して返し、目をそらした。

 そのまま午前中をヤザンと遊んで、ハノンは屋敷を出た。

 豚の亜人は大げさに涙を見せて別れを惜しんだが、その後でちゃっかりバダンに今度は二つ見たことのある塊を押しつけていた辺り、やっぱりこの豚ただのブヒ男じゃないと従者は頭痛を覚える。


 今回の家出は濃かったな、と早くもやりきった感のあるキリエに、けれど主は晴れやかに言った。


「悪いんだけどさ。帰る前に、もう一カ所だけ寄ってくから。王宮に帰るのは夜よ」


 はあ、と妙に気の抜けた返事でキリエが返すと、ハノンは彼女をじっと見てからまた改めて笑う。


「いい? これはアタシ達の秘密だからね」


 ――もうここまで来たら最後までなるようになれだ。振り回されて、行くところまで行ってみよう。

 キリエははいはい、と軽く応じて、いつになく厳重にお忍びの格好に気合いを入れ、上機嫌に歩き出した主にくっついていく。




 くっついていって、もう今度こそはこれ以上驚かないぞ、と思っているのに、毎回それを上回ってくれる主の面倒事にぶち当たる才能に、もはや惚れ惚れしたくなってくる錯覚を覚えていた。


 王宮に、王墓に、どう見てもカタギじゃない人の豪邸、そして今度は――。


 重たい跳ね橋が降りてきて、衝撃で足下が震えた。この場所だけは、世間知らずで貧民街育ちのキリエでも名前を知っている。身分を問わず誰もが子どもの頃に悪さをすると連れて行かれると脅される場所だからだ。キリエの口悪い母も当然のごとく何度も口にした。実物を目にしたことがなくても、耳にたこができるほどその外観や特徴を語られていたから、一目で思い当たる。


 キリエは真顔である。真顔のまま、振り返りもせずに硬い言葉を主人に投げかける。


「御主人様」

「なあに?」

「本当に、ここに用があるんですか」

「大ありよぉ」

「……監獄に? まさか中の囚人に会うなんて、言いませんよね?」


 彼女たちが見上げるのは、かつて要塞として使用されていた建物だ。そして現在は、特に政治犯などを収容する監禁施設として有名である。周囲を深い堀で覆われ、跳ね橋一つしか外部と通じる道がない。そびえ立つ壁は垂直で、外部から上って侵入するのは困難そうだ。ちょうど空模様が曇天になったせいもあってか、その使用用途にふさわしい陰気で憂鬱な雰囲気をたっぷりとふりまいている。


 ハノンは顔を隠す布の下で――たぶん、がちごちに硬直しかけている従者を鼻で笑った。


 アタシ達の秘密だからね、と出発前に念押しされた理由を実際目的地に着いてから思い知る。


 入るのか、本当に入るのか、というか入れるのか、入ったとして出てこられるのか。

 耳をびょんと立てて緊張させている従者は、さっさと主と先輩従者が行ってしまいそうになるので慌てて半泣きでついていく。


「四十九番に」


 跳ね橋を渡りきったところにいる門番にバダンが書類のようなものを見せハノンが短く言うと、鎧で顔の見えない大柄な獣人がうなずいて一歩引き、敬礼する。

 最初の扉が開くと、中から明りをもった案内らしい年老いたフード姿の男が出迎えて、ぶっきらぼうな態度のまま、ついてこいという風に顎をしゃくってみせる。


 だから、どうしてもう、この人達は平気でこういうところに入っていくのかなあ!

 そしてどうして誰も彼も、普通に通しちゃうのかなあ! 顔パスか、これが顔パスって奴なのか!


 行き場のない思いを飲み込むしかない下っ端がなるべく周囲の光景や音を意識しないようにひたすら主達の背中を追いかけていくと、彼女たちはいくつもの門や人を越えて奥へ奥へと進んでいく。



 入り組んでいる階段をいくつも上った。時折どこかから、囚人のうめき声だろうか、奇妙な音が鳴り響いてキリエの背筋をぞわぞわと凍えさせる。


 ようやく、主人達が足を止めた。

 キリエが震えながらこっそりバダンの影から除くと、看守と何か小さくやりとりをかわし合ったハノンがバダンと共にいくつかものを抱えて鉄の扉の前に立つ。


「お久しぶりです。お元気でしたか」


 ――ハノンにしては妙にまっすぐ通るというか、珍しく媚びを含んでいない声音だった。

 首をかしげているキリエの耳に、鉄扉の向こうから鎖が鳴る音がした。


「また、来たのか」


 けして若くはない、男の声だった。

 ふっと主の身体がゆるんだのを見て、キリエは驚く。

 ――あの、ハノンが。交渉事担当で、何があっても余裕を絶やさないはずのハノンが、緊張している?


「もう来ないかと思ってた」

「申し訳ございません、なかなか監視の目をくぐるのが難しくて。もっと早く来たかったのだけど」


 ハノンの言葉には感情がありありと浮かんでいた。彼女は本心から、この人物に会いたがっていたように見える。この態度もまた珍しい。


「相変わらず、危ない橋を渡っているみたいだな」

「……中に入ってお世話をしても?」


 四十九番の独房に閉じ込められている男は、ハノンの控えめな問いに笑ったようだった。


「俺が止めて、君が止まった事が、一度でもあったか?」


 ハノンが無言で見つめると、横に控えていた看守が錠を取りだして鉄の扉を開ける。

 入っていった二人に連れられてキリエが見たのは、ベッドやトイレ、水道、それに机のようなものが最低限度備えられている小さな部屋だった。

 けして居心地の良いとは言えない日当たりの悪い場所に、男がつながれている。一言で言ってしまえばひどい有様だった。彼の白い髪もひげも伸び放題で、鎖の絡んだ足はおかしな風に歪み、拘束がなかったところで長い距離を逃げることはできないだろうと推測された。極めつけに彼は、片腕の肘から先がなかった。


 囚人四十九番はそんな有様にも関わらず、三人が入ってくるのを見ると朗らかに微笑んだ。


「ようこそ。……特にもてなすことは、できないがな」


 青い瞳がいかにも優しげに瞬くのを、キリエは主が動き出すまで唖然と眺めていた。

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