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浸食3

 日はすっかり上りきり、昼を挟んでから、うきうきした調子でレィンは言った。


「午後はお母様に会いに行くわ。お父様もいいって快く言ってくださったから」


(……あれで?)


 キリエは思わず思ったが、口には出さずに了承の意思を示す。

 レィンは再び自分のエリアを出ると、今度は父親の居た場所とまた違う場所に向かって進んでいく。

 こちらもこちらで、妙に静かだった。

 というか外宮が人の数相応に時には夜までずっと賑やかなのに対して、内宮はどこもかしこも全体的に大人しすぎる。


(さすがに、人が足りてないって事はないと思うけど……いや、あたしが採用されたぐらいだし、何があっても誰がいてももうおかしくないか)


 さあ蛇が出ても魔物が出ても覚悟はできているぞ、と意気込んだキリエは、目標が近づいてくると早速目が泳ぎ心がくじけそうになる気配を感じる。

 先輩従者に助けを求めようとしても、向こうがこっちを向いてくれないので徒労に終わる。


 建物の外から内側に進むに従って、幾重にも逃亡を防ぐためであろう格子がそびえ立っている。開いた瞬間にけたたましく鳴り響く鈴の音が耳に痛い。先代国王の私室も途中の元気がなくて閑散としていたが――なんだろう、こちらにはさらにその上を行く、いかんとも表現しがたい寒気がただよってくるし、実際にどんどん辺りの光景が暗くなっていく。


(なんだここは――冥府への入り口か?)


 王宮全体の息苦しさをさらに凝縮したような場所だった。よく見てみれば、見かけ上の装飾や係の者達の服装は他の場所より一層凝っている感じがあるのが、何故か更に不気味さを増す。

 光の乏しい道々を時折閉鎖する顔を隠した門番達は、王の私室の彼らと違ってこちらに一瞥をくれることすらない。本当に生きているのかすら、なんだか怪しい――自分の発想に鳥肌どころか冷や汗まで吹き出しそうになって、キリエは思わずバダンにひっついた。いつでも落ち着いたなりの牛男はちらりと後輩を見やっただけで、それ以上何かしてくれる様子もなく、突き放すでもなく、従順に主の後に続く。


 ぶるぶる震えているキリエがくっついていくと、やがて柔和な微笑みを浮かべる老いた一団がレィンを出迎えた。男も女もいる。皆同じような表情をしていた。まるでそういう仮面でも被っているかのように。


「姫様」

「姫様、お待ち申し上げておりました」

「奥様がお待ちです。ささ、どうぞ」


 その光景を見た瞬間の、最初の印象をなんと言ったらいいだろう。

 初めて、レィンを完全に肯定している場所を、そういう人達を見かけた。

 どんな悪意もニコニコ笑って受け流している彼女だが、老人達の偽りなき姫扱いに、心の底から安堵したような顔を浮かべているように見えるのははたして錯覚だろうか。

 ここでは彼女は間違いなく姫だった。王子ではなく、姫で、それを誰もが当たり前の様に認めている。


 ――だからこそ、なぜだろう?


 より一層、この場がひどく汚らわしいものであるように感じられてしまう。



 真っ青になったキリエが思わず口元を抑えて数歩後ろに下がると、一斉に老人達の視線がすっとこっちを向いた。途端に笑顔が消え失せる。


「誰じゃ、お前は」

「誰じゃ? お前は」

「姫様の新しい付き人か」

「皆、キリエはわたくしの新しい従者よ。お母様に紹介したいの。お父様にだってお許しをいただいてきたのよ」


 新参者にひやりと向いた敵意は、少女が一声上げると霧散し、彼らは掌を返すようにニコニコまた柔和な笑みを貼り付ける。


「おお、それは失礼を致しました」

「ささ、こちらに」


 ――頭痛が、ずっと消えなかった。あたしが間違っているのか?


 キリエはバダンの身体を半ば盾にするように歩いた。正直、ここで体調不良を訴えて倒れるか今すぐ回れ右したい気持ちで一杯だった。ぐらりと倒れそうになる身体を、バダンがとっさに支えてくれる。小さく礼を言いながら立ち直ろうとして、そこではっとした。


 ――同じ香りがする。

 王の寝室のものと同じ、あの甘ったるくて頭が痛くなる香りが、この部屋にも。


 思考が完全に停止し、つかの間意識が軽く飛んでいたキリエは、バダンが出迎えの老人達と共に立ち止まり、キリエとレィンのみがさらに室内への侵入を許されたことに気がつかなかった。

 ゆるく従者の手を引いて、年下の無邪気な主が奥まで導き、口を開く。


「お母様」

「おかえりなさい、レィン様」


 むせかえるような香の匂いの中、レィンは部屋の中の寝台に向かって声をかけた。

 同じような光景の繰り返しに、頭が鈍く痛みを発し、視界がちらつき耳鳴りがする。

 今度は確かに返答の言葉が聞こえるが、寝室の中心にあるそれの異様さと言ったらなかった。


 鳥かごだ。


 どこからどう見ても、寝台のあるであろう場所を取り囲む、紗幕の下りた円形の鉄格子はその中に人を閉じ込めるために作られたものだった。


 ――紗幕の柄まで、王の寝室にあったものと同じ。

 キリエは胸を押さえた。


「今日はね、新しい子を連れてきたの。キリエって言うの」


 自分は今何か、とても悪い夢でも見ているのではなかろうか?

 キリエはそのとき、奇妙な体験を味わった。

 自分の身体が勝手に従者のつとめを果たすのだ。彼女の心は呆然と立ち尽くしたままであるのに、彼女の身体は主の紹介を受けて一歩前に進み出ると、ならったとおりの礼をする。


「従者のキリエと申します。一月ほど前に採用していただきました。至らぬ点多々ございますでしょうが、誠心誠意陛下に仕えさせていただく所存であります」


 ふわふわしたもう一人のキリエが言うのを眺めていると、紗幕の向こうで人の影が揺れる。


「レィン様。ですが……この方は、陛下が、お怒りになられないでしょうか」

「キリエは女の子よ、お母様。お父様にもちゃんと確認してきたから。だから、大丈夫よ」


 薄明かりに照らされて、ぼんやりと獣の耳と尻尾が揺れるシルエットが見えている。


「……レィン様が、お世話になっております」


 控えめで落ち着いた大人の女性の声がした。その辺りでようやくキリエは自分と自分が重なって元に戻ってくるのを感じる。返事をしようと口を開けてはみたものの、そのまま口が閉じない上に言葉も出てこない。レィンと関わっていると、よくこういうことがあった。レィンの幸せそうな横顔を見ていると、すべての思考が止まり、言葉が喉の奥に引っ込んでいってしまうのだ。


 ――それでいいじゃないか、一体何の不都合がある?


 ――レィンは理想の中に生きている。そこでしか生きられない。


「お母様。キリエと会った時のお話しを今日はするわ……」


 紗幕を少しめくり上げて、鉄格子の隙間からほっそり小さな白い腕を子どもは差し入れた。

 ぼんやり、それに応じる優しい女性の影が見える。鳥かごを間に挟んでいなければ、理想的な母と子の姿に映らないわけでもない。


 娘が話をして、母親が穏やかに時折相づちを打つ。それが続けられている間中ずっと、従者はぼんやり眺めていた。

 紗幕の隙間からちらりと見えたその姿。ふっくらした身体のライン。色は金で鋭いけれど、慈愛に――哀れむ気持ちに満ちた、優しいその双眸を、じっと静かに網膜に焼き付けていた。


 ただ一点、彼女が彼を娘扱いすることにだけ、決定的な違和感を覚えながらも、そこに確かに一つの理想的な家族の絵があったことを、キリエは認めざるを得なかった。




 日もすっかり暮れきって、周囲に何度か促されてようやく、レィンはまだ大層未練を残した様子で立ち上がろうとする。


「奥様はずっとここにいらっしゃいます。いつでもお会いできますから」

「お母様とまだいたい――」


 口々に、あの奥方様とやらの世話係なのだろう、老人達が部屋の入り口から甘やかすような口調で言うと、鼻をすすってそれでも渋る様子を見せる。年相応の、いやそれよりさらにおさない子どものだだっ子そのものだ。


「また、いらしてくださいまし。あたくしはいつでもここにおりますから」


 最後に格子越しに軽く抱擁を交わし合ってから親子は別れる。

 ――いや、それでも若干ぐずる様子を見せたので、最終的に罪悪感を覚えつつもキリエが脇を抱えてずるずる引っ張り出すことになった。


(でも、父親の時よりは、大分ましか。少なくとも向こうが可愛がってくれて、いたたまれない気分にはならなかったし)


 どっと疲れ切った心と体の重みを感じながらのそのそ主の後ろをついていくと、今度は私室にたどり着いてすっかり寝支度まで整えたところで彼女はそっと従者に語りかけてきた。

 父の時より興奮の度合いが高かったようだから、道中は母との思い出を反芻するのに忙しかったのかもしれない。


「ね、キリエ。お母様はとても綺麗な人だったでしょう?」

「……ええ。それは」


 母親への愛情を惜しげもなく晒す彼女に、キリエは苦笑まじりの取り繕った笑みを向けた。

 確かに、美しい女性だったと思う。レィンと種類は違うけど、ふわりと揺れる白い耳に尻尾が印象に残っていた。そっと映像を頭に浮かべたまま、キリエは穏やかに続ける。


「レィン様は、お母様似なのですね」

「そう? あまり似ていないと思うわ。わたくしもあんな風に綺麗な髪をしていたらよかったのに。お父様とお母様はお揃いなのに、わたくしだけ色違いなの。おばあさま似だって言う方もいらっしゃるけど……」



 最初にキリエが、ただでさえこわばっている笑顔がさらにきつくなるのを感じたのはこの瞬間だった。


 問いただしたい一方で、何も聞きたくない思いがわき上がってくる。

 結局何もできず、髪を梳いている主を見守ったまま硬直していると、彼女は勝手に続きを話した。


「お父様ったら、過保護が過ぎるのよ。お母様はお身体も気も弱い方で、種族も違うからって、あそこまで閉じ込めてしまうことないのにね。お外に出られなくて可哀想。でもね、だからわたくし、お話をたくさんしてあげるの。ちょっとでも喜んでいただけたらいいなって……」

「確かに……その、亜人と人間ってだけじゃなく、種が違うだけでも、嫌がる方はいらっしゃいますものね。まあ今時そんなことを気にする人がいるとは思っていなかったですけれど……」


 鳥かごの中にいた亜人の耳と尻尾は白かったが、明らかにレィンのそれとは違う形をしていた。肉食動物系の――たぶん、犬の亜人の血筋だろうと思われる形だった。王家は代々猫型の亜人だ。だからレィンはそのこについて話しているのだろうと、当初キリエは思っていた。


 ところが主は、丸い目をさらにまんまるに見開いたかと思うと、箸が転げたように笑い出す。

 軽やかに、愛らしく、ひとしきり笑いきってから、レィンはこう言った。


「何を言っているの? おかしなキリエ。レィンのお母様は人間よ? あなた、お耳でも生えているように見えてしまったの?」


 今度こそ、彼女はしっかり言葉どころか息まで止まったし、ついでに心臓も止まるかと思った。

 きしむ首を動かして、助けを求めるようにバダンを見た。

 彼は少しの間だけ、あたしとしっかり目を合わせてから、そっと伏せる。


 ――だから、言っただろう? お前の傷になると。

 そんな風に彼の唇が動いたのが見えた錯覚を覚える。


 少女を見る。

 既に寝台の中に入って半ば夢見心地にまどろんでいる彼女は、無垢に無邪気に彼女の現実を語って聞かせた。


「レィンのお母様はね。黒髪で、黒目で、片方のお目々を昔なくしてしまったから眼帯をしているの。種族は人間。レィンとはあまり似ていない。でもね、わたくしお母様が大好きなの。お母様がいれば、他に何もいらないのよ……?」




 ――そのときのあたし?


 ああ、そうとも。月並みな表現で申し訳ないけど――心の底から、ぞっとしたよ。初めて御主人様の本当の恐ろしさを、レィンという人格が特別な理由を知った気がした。他のレィン達が、「でもお前もいつか、彼女の事を軽蔑し、離れていくだろう」って知ったような顔して口にしていたわけを、ようやくこのとき実感できた。どうして王宮の誰もが、あいつを手遅れの気狂いだと言うのか、知りたくなかったけど……こんなことされたら、わかっちまうだろうが、こんちくしょうめ。



 ……こうやって、思い出してみても不思議だね。それでも、なんで逃げ出さなかったんだろう。

 このときも、あたしはレィンの笑みに、全部苦い物を飲み込んで、気持ち悪い笑顔で応えて、彼女が眠るまで待つしかなかった。すっかり寝入ったのを見計らって抜け出して、外で壁を拳から血が出るまで殴りつけた。もう片方の拳を口の中に突っ込んで、こみ上げる叫び声を殺しながら。

 でも、その翌朝には、何事もなかったかのように、見て聞いてきた怖いことを全部いったん忘れたことにして、また従者としての生活を続けていたんだ。


 まず一晩、呆然としている間に、何か考える間もなく過ぎてしまったってのもあったかも。


 そしたらさ、朝、あたしがまだいるのを見て、一瞬だけなんだか安心したみたいにくしゃって笑ったのを見たら――他の事はどうでもよくて、とにかくこのまま見捨てることだけは、考えられなくなっちゃったんだ。


 このときも。その次も。そのまた次も。結局あたしはあいつの側にいたまんまだった。

 本当に、今思うとレィンは魔性の女そのもので、底なし沼みたいなところがある人だった。気がついたらずぶずぶにはまって、もう逃げられなくなってるんだ。

 ああ、あの沼は息ができなくて苦しいことだらけだったけど、不思議と温かくて、どこよりも居心地がよかった。ずっとそこに浸かっていてもよかったかもってぐらい。



 馬鹿だよね、あたし。

 なんで、今更、気がつくんだろう。もう全部終わった後に、こんな気持ちに気がつくんだろう……。

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