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卵3

「あんた、その……頭大丈夫か?」

「眠っていても貴様よりは回っている自覚があるぞ、愚民。大事な事だからもう一度言ってやる、ぐ・み・ん! 袖が触れ合うのも縁の始まり、我らが女神の慈悲をいただきたもうた幸運を評価してちょっと情けをかけてやろうかとも思ったが、いいか! 我輩は我慢なんかしないぞ、どこぞのおっとり馬鹿とは違うのだからな!」


 迷った末、ごくごく控えめに、できれば今のが蜃気楼や幻覚の類いであったことを望みながらキリエが切り出すと、被せ気味に再び豪雨のような罵詈雑言が返ってくる。

 男の声と言ったが改めて聞いてみるとかなり高い、男と言うより声変わり前の少年だ。口調があまりにも独特なのでつい雰囲気に飲まれて最初の頃は完全に男と錯覚していたらしい。

 高く凜と耳心地の良い声質だと、どんなに怒鳴りつけ強く声を張られたところで、貧民街育ちで悪態や怒声には散々揉まれて育ってきたキリエにはそこまで脅威にはならない。


 むしろ一方的にまくしたてられてカチンと怒るスイッチが入った。


「さっきから何言ってんだよ、わけわかんねえ! いきなり豹変しやがって、あんた役者か!?」

「役者? 馬鹿を言え、生まれたままの姿で生きる人間がどこにいる。そんなものは人間とは呼ばない。よくて未開人、悪くて野獣、健常者に言わせるなら頭がおかしい。人とはかくも高度な社会生物だ、多かれ少なかれ自分を偽って生きるものだぞ? 我々は個人にして集団、集団にして個人。大体君が我輩の何を知っていると言うのだね、偉そうな口を叩くな、愚民」

「ぐみんぐみんうるさいな、わんわんうなって頭痛になりそうだ! あんたのことなんか何も知らなくて当たり前だろ、でもさっきまで深窓のご令嬢ですって顔してた奴が、いきなり野郎の声で流暢にののしりだしたら、びっくりして喋れなくなったってなんもおかしくないじゃないか――!」

「おー、なかなかいい勝負してるじゃない。君、面白い子だねー」


 また声と口調が変わった。

 ざっ、と盛大に鳴ったのはキリエが一歩引いたせいで出た砂利の音だ。ついでに忘れかけていた荷車に腰をしこたま打ち付けて無言で悶絶する。

 ヴェールの下でふんぞり返っていた元美少女は、組んでいた腕を組み直し、威圧的なものから肘を抱え込む防衛的なものに――寒いときに自分を抱えるような種類のものに変える。


 最初の少女の時とも、先ほどの高圧的に罵声を浴びせてきたときともまったく雰囲気が違う。

 今度はなんだか奇妙に慣れた気配がした。鳥肌が立つのを覚えてから、キリエは理解する。

 ――娼婦だ。これは、大嫌いな娼婦の売る媚びの気配に似ている。

 なまめかしくしなを作り、手をひらひらゆらしながらややハスキーな声でヴェールの人物はしゃべる。


「ごめんごめん、いきなり早口で責められてびっくりしたよね? 最近色々鬱憤溜まってたみたいでさあ、ついカッとなったから出てきちゃったみたい。八つ当たりだからあんま気に病まなくていいわよ? いやー悪いことしたわね」


 最初はいかにも世間知らずで上品なご令嬢。その次は高圧的な役人みたいな男。そして今は娼婦――いや、雰囲気的に男娼の方が近いだろうか? 年下であることは背格好からして確かなのだと思うが、それすら怪しく思えてきた。めまぐるしく印象の変わる相手だ、本当にいっそ役者だと言ってもらえれば逆に納得するぐらい、立て続けに豹変をする。それもこの短い間に次々ころころと。

 キリエの混乱は悪化する一方だ。

 ……どうしよう。一難去ったと思ったらもっとヤバいのに当たったかもしれない。

 顔を引きつらせ、必死に退路を探して目をさまよわせたが、残念ながら位置取りが悪かった上に相手が動く方が早かった。

 元美少女、現謎の怪人であるヴェールの人物は、つかつかと歩み寄ってくると腹を押さえていない方のキリエの手をがしっとつかんでしまう。


「はあい、目をぐーるぐるさせんのも、アタシを質問責めにするのも、果ては景気よく気絶するのもいいけどさ、この場を乗り切ってからにしましょ? あんたの知り合い、しつこいみたいだから、一回ばーんと決着つけとこうね。だーいじょうぶ、アタシはさっきの奴よりは表向き穏便に済ませるからさ。よーし、れっつ、ごー!」


 驚きの連続すぎて一度完全に痛覚が飛んでいたが、下を見た拍子に赤のにじんでいる腹部が目に入ってしまうと鈍痛が再び訴えてくる。

 キリエは顔をしかめ、ヴェールの人物の手を振り払おうとしたが、彼女より小柄できゃしゃなぐらいの輪郭をしているのにびくともしない。


「何すんだ、離せ、離せよっ――!」

「自由にしてあげてもいいわよ。アタシから逃げられるんならね?」


 キリエがもがくとヴェールの人物は楽しそうにくっくと喉を鳴らした。

 ずるずる引きずられていく哀れな貧民の小娘と、迷いなく進んでいく主の後ろを、やはり黙ったまま牛の亜人が付き従う。


 やがてキリエの耳が異音を唱え、彼女はますます暴れようとする。

 けれど痛む腹のせいもあってか、つかまれた腕は何かの拘束具のようにかたくキリエを絡め取って離さない。


「いたぞ!」


 少し広めの道に出たところで、見覚えのある男衆がこっちを視認し駆けてくるのを見て、彼女のまなこはぎっとつり上がり、裏切り行為に嬉々として励もうとしているヴェールの人物に向けられる。


「引き渡して交渉金でもふんだくるってか? それとも掃きだめの規範に従うってか? 一瞬でも女神様がいらっしゃったと思ったアタシが馬鹿だった――」

「――女神なら、いる。そのために我々は存在するのだから」


 厳格な低い声がヴェールの下から漏れる。また、雰囲気が変わった。今度はやけに重苦しい空気だ。

 とっさにひるんだ彼女に向かって、ヴェールごしに顔が向けられる。


「信用ないなあ、アタシ、悪いようにはしないって言ってるのにさ」


 振り返ったときには、愛想の良い軽い調子の声に戻り、ぴんと一瞬だけ伸びた姿勢がしなやかに適度に崩れる。

 ぶわっと鳥肌が立ち、危険信号が頭の中で鳴っている。

 だが彼女が何かする前に、男衆達の向こうからにっくき知人が姿を現したかと思うとのしのしと大股でこちらに歩いてきた。


「やっぱり遠くまでは逃げてなかったね、こんの穀潰しが! 客蹴っ飛ばして逃げ出すなんて何考えてんだい、許さないよ!」


 でっぷり突き出た醜い腹を揺すりながら言う母に、キリエは今度こそ小柄な不審者から手を振り払って勢いよく突きつけた。もう片方の手では脇腹をおさえたまま。


「何考えてるはあんたに言いたいね、娘の初めてふっかけるならもちっとマシな相手にしやがれってんだ! 親としての能力なんざ今更期待しないけどさ、商売人としても失格だよ!」

「うるさいね、適性値段じゃないか、テメエにしちゃ高く売れた方だ! 大した器量でもない、特に褒められる取り柄もないくせにでかいこと言うんじゃねえ! さあ早く来るんだ、お客様がお待ちだよ!」

「いやだ! この傷見りゃわかるだろ、あいつあたしのお腹を刺そうとしたんだ! 首だって絞められた、戻ったら今度こそ殺される!」

「今までなんのためにお前の事育ててきたと思ってるんだ、元はきっちり取らせてもらうよ――」

「はーい、アタシのこと置いてきぼりにしないでよー、つれないわね」


 母子の口論に割って入ったのはヴェールの人物だ。無視されないためだろうか、二人の視線を遮る位置に陣取り、軽い調子の声を上げる。

 キリエは露骨に嫌な顔をしたが、母や周りの男衆もものすごくいぶかしげな表情になった。


「なんだいアンタ、これはあたしらの問題ですよ、部外者は邪魔しないでくれ――なんか雰囲気が変わりましたかねえ、お嬢さん?」


 読み切れない謎の人物の触りがたい雰囲気は皆感じ取っているのだろう。なるべくこの場から退散させたい思いがキリエの母にもあることは明らかだった。

 けれど小柄な闖入者はどうやら薄布の下で笑う。しかもキリエの聞き間違えでなければ鼻を鳴らす笑い方、いわゆる嘲笑に近いものだった。


「気のせいでしょう。それはともかくとして長くするとこじれそうだから単刀直入にうかがいますね。このおぼこちゃんの値段、いくらだったのです?」

「……は? おぼこちゃん!?」

「なんだい嬢ちゃん、何様のつもりだい」

「通りすがりの遊び人のおつもり、いささかお節介のすぎる。で、ご夫人。いくらだったの? こんな見るからに乳離れの済み切ってない芋女ですもの、さぞかし高くふっかけたんでしょう? 腹割っても文句言わせないってぐらいなんですからね」

「ちょっとさっきから――あのね、はっきりさせておきたいんだけど、あんたってあたしの味方なの、敵なの、それとも茶化して遊びたいだけなの!?」

「いい勘ね、でもお子ちゃまはお黙り。今は大人同士の時間よ」


(背格好的に見るからに年下のそっちに言われたくないよ、このおませ!)


 しゃなりしゃなりと身じろぎする生意気な部外者に拳を振り上げて叫ぼうとしたキリエだが、うっかり気合いを入れすぎたのだろう。ぴゅっと脇腹から元気の元がこぼれたついでにくらりと視界が揺れる。

 倒れそうになってたたらを踏んだ彼女を支えたのは牛男だった。黙々と狂人に付き従うだけのこっちにも色々言ってやりたいが、何しろ幾分血が足りない。頭を押さえて唸っている間に、ゲスとミステリアスの会話はとても弾んでいるようである。


「――なぁるほど、それならただの炉端女にしちゃ上出来、確かに高すぎるわ。まるで売れっ子が期待されてる高級娼婦見習いの待遇ね」

「あんたわかってるねえ、そうだよ気前よくばらまいてくれたんだよぉ」

「でもそれで腹かっさばく権利まで売り渡したってんなら、安すぎる気もするわね。というかはした金過ぎてあくびが出ちゃう」

「へえ、遊び人さんはそれ以上ぽんと出せるってかい? 玩具やお菓子につぎこむお小遣いどんぐらいもらってんのか知らないけどね」

「出せるわよー、一括で。何倍がいい? 二倍? 三倍? 飛んで五倍? いいわよ、そのぐらいは好きにあげるから。それこそお小遣いで」


 状況から総合して推測するに、結局はどこぞの全能感をこじらせたお貴族様の子どもが首を突っ込んでいるのだとキリエの母も考えたのだろう。男衆達と共にニヤニヤ下卑た笑いを浮かべる。


「ちびっこの遊び人さん。大人に憧れて火遊びするのは結構だがね、火をつける場所は選びな。あんたも言ったじゃないか、芋っこの小娘だよ? 大口ごっこは大概にして帰った帰った、これ以上冗談が過ぎるとママにも泣きつけないほど怖い目に遭わせるよ――」


 その瞬間。

 キリエは一際背筋がぞっと凍えるのを感じた。ヴェールの下からすさまじい冷気が一瞬漏れ出したような錯覚がする。


 ふう、とため息の音がした。ヴェールの人物はそれまでやや身体の向きを横に傾けていたが、そのときはじめて整備の効いていない泥の混じった砂利道を踏み、キリエの母に向かってまっすぐ向き直る。

 少しだけごそごそした後、間もなくヴェールの下から真白く細い手がにゅっと出たかと思うと、キリエの母に向かってものをいくつか投げつける。宝石がいくつもついた重たそうな耳飾りと首飾り、それから素早く外した指輪だった。その場の全員の目の色が変わったのを見届けてから、彼女は横の物言わぬ従者に何かをくれとでもいうように掌を向ける。


「バダン、あれ」


 するとキリエを片手で支えたまま、牛男はどこからともなく何か小さくて地味な塊を取り出し、恭しく主に差し出した。ふんぞり返ったままそれを受け取った貴人は、キリエの母の足下にすぐさま投げて寄こす。


「ひとまずそこの装飾品で前金は十分なはず。刺殺趣味の変態を黙らせるなり今日一日の遊興に使うなり好きにしなさい。もう片方はこの辺りの支配人にでも持っていけば便宜をはかってくれるはずよ、後はそのご自慢の頭と口でどうとでも交渉なさい、遊べる日にちが増えることでしょう」


 そこまで一気に言い放ってから、くるりと振り向き、頭を押さえたまま呆然と目を見開いているキリエを一瞥し、それから最後に牛男にむかって――たぶんヴェールの下でにっこりと微笑んだ。


「行きましょう、バダン。いい買い物と今後しばらく暇をつぶせそうな遊びができたわ。だから今日は満足してあげる」


 キリエは動けない。今起こった事を信じられないままに、牛男に優しい手つきで抱え直され、運ばれる。


 男衆の一人が、買い上げた商品を持って去りゆく遊び人を呼び止めようとし、キリエの母に叱咤されている音が聞こえる。


「馬鹿お前、こりゃ本物だよ、深入りするんじゃねえ! いいじゃないか、こっちの宝石だけでもしばらく遊んで暮らせるよ――」


 母の興奮を隠しきれないはしゃぎ声から逃れるように、キリエは目をぎゅっと閉じた。


 そしてそのまま、彼女は牛男の移動が止まるまでずっと、目を閉じ続けていた。

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