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卵2

「娼婦の足抜けだよ。茶色の毛、ウサギ型の亜人で体つきはそこそこ、顔は普通、脱げかけの服引きずって逃げてたはずさ。手負いのはずだがすばしっこくてねえ。おっと、見覚えがあるなら嘘はつかないことだ、あたしゃ人の事を見抜くのは得意なんだよ、余計な事したらあんたが何者だろうがただじゃ済まさないからね」


 母親の汚らしいだみ声は、ガアガアわめくカラスに本当にそっくりだ。ずるがしこいところや屍肉を意地汚く喰らうあたりなんかも似ているかもしれない。

 キリエが隠れたまま顔をしかめていると、今度は何かの楽器かと錯覚しそうになるほどの美声がかえってくる。


「バダン、それって悪いって意味なのかしら? わたくしにはなんだかよくわからない言葉みたい」

「ハン、お上品なお嬢さんには意味が通じんかね? まあ、ひとまずそういうことにしておいてさしあげましょ。何にせよ、お金を払わせといて逃げ出した――つまりは、約束を破ったのさ。それは悪いことだろう」


 キリエは一度おや、と思った。母は本当に逆らってはいけない相手には一転して媚びるが、基本的には誰に対しても上から目線で威圧的に喋る。いかにもきゃしゃでたおやかなかのご令嬢など、彼女が舐めてかかる方の人種で、さぞかし下品な罵声の連呼になるかと思ったのに……ちょっと予想より引くのが大分早いように思えたのだ。むしろ素早く媚び始めたようにすら聞こえる。


「その方は約束を守ってくださらなかったの?」

「おうともさ、それで逃げちまったんだ。さ、わかったら教えとくれ。女はどっちに行った。それともどっかに隠れてるのかね」


 彼女の小さなひっかかりは、すぐ直後に確信に変わった。


「どうかしら? わたくし、足が疲れちゃったからここでしばらく休んでいるのだけど、急いで逃げている悪い女の人なんてこの辺りで一度も会わなかったと思うわ。ああでもそういえば、先ほどあちらで物音がしたような気がする。そうそう、なんだか慌てて駆けていくような、ついでに物を壊すような感じだったかしら。騒乱の気配が確かにしたもの、こっちに来たら怖いわねって話をしていたの。ね、バダン?」


 少女はきっと、さっきみたいにぷらぷらと塀の上で足を揺らしながら無邪気に喋っているのだろう。

 キリエの姿を見なかったと言うことはないはずだ、何せ真正面で隠れたのだから。


 沈黙が立ちこめる。男衆を連れたキリエの母も、少女の言っていることをどう解釈したものか判じかねているのだろう。本当にとぼけているのか、それとも――。


「あんた、ひょっとして盲者かね」


 だみ声が、迷った挙げ句に聞いた。返答の言葉はない。隠れているキリエからは少女や母がどういう顔をしているかは見えない。


 ――そう、そもそも見えていない人間なら、たとえ頭がしっかりしていたとして目撃証言することは不可能だ。


 キリエは少女の言葉を思い出す。彼女はキリエの容貌を説明した母の言葉に反応しなかったし、一度も視覚に関する内容を喋っていなかったはず。ヴェールを被っているのはもしかすると目元を見られないようにしているのかもしれない。


「それで、そっちのお連れさんは唖ってところかい。そうやって熱心に話しかけてんだから耳は聞こえてるんだろうが――いや、それともあんたの一人遊びかね」


 無遠慮な母は彼女の従者の牛にも話しかけたようだ。沈黙、やはり返答はない。こちらは最初から喋ったところを見ていないから本当に喋れない人間なのかもしれない。


 ――キリエはうすらざむいものを覚える。目の見えない美少女と、言葉の喋れないたくましそうな男。二人とも身なりはいいのに、こんな掃きだめにたむろしている理由。

 深入りしてはいけない気配がある。キリエの母も二人のどこか怪しい雰囲気を感じ取っているのだろう。おそらくさっさと態度を控えめにしたのは、キリエより素早く彼らへの違和感に気がついたからに違いない。


「お話しするならわたくしは構わないけど、逃げている人を追いかけているのにここでゆっくりしていらして大丈夫なの? 手の届かない場所まで逃げられてしまったら困るのはあなた方なのではなくて? わたくし、嘘は言っていないはずよ。それともまだ何かあるの?」


 ぶわりと鳥肌が立つが、さするのはこらえた。ちょっとでも動いて物音を立てたらすべてが無駄になる。

 なんとなくだが、少女がヴェールの下で勝ち誇ったような微笑みを浮かべたような気がした。


「行くよ! あっちを探すんだ!」


 結局キリエの母は、少女の得体の知れない部分を気味悪く思ってそれ以上関わりたがらなかったのだろう。

 男衆を引き連れてドタバタと退散する音が遠ざかっていき、やがてまた静寂が戻ってきた。


 静かになると、衣擦れの音がする。何かが道を慣らす。それはキリエの隠れている荷馬車まで近づいてきて止まる。


「もう出ていらしても大丈夫ですよ。あの方達は行ったみたいだから」


 ――少女の人を夢見心地にさせる美声が、明らかにキリエに向かって投げかけられていた。


 なんだやっぱり見えていたんじゃないか、その上であのとぼけ方なんてとんだ大狸だと舌打ちしながら彼女は這い出る。積み上げた荷物を崩して少女に向き直ると、彼女は牛の獣人を従えたまま縦に尻尾をぱたぱたと揺らしている。

 腹を押さえ、キリエは大きく息を吸った。


「礼は言わないよ」

「え?」

「あんたが勝手にやったことだから、礼は言わない。借りてもたぶん返せないから。……でも助かったことは助かった。それだけは言っておく」


 キリエが素直に感謝の言葉を出せないのは、ここが貧民街であるのと、自分で言ったとおり借りを返せる当てがないからだった。少女があの面倒でごうつくばりな母をあっさり引かせてしまったことに不審感や恐怖心のようなものも覚えていたのかもしれない。とにかくこのときの彼女は命の恩人相手にも気が抜けず、警戒心の取れないままだった。


 早口に言うと、びっくりしたようにヴェールの少女は一度動きを止める。微動だにしない牛の従者に問うように振り返り、それからまたキリエの方を向いてかくりと首をかしげる。


「わたくし、あなたを困らせてしまったのかしら」

「……別に」

「では怒らせてしまったの?」

「怒ってないよ、あんたには」

「でも、なんだか気分が悪そうに見えるわ」

「腹から血を出して笑ってる奴がいたらそっちの方が問題だと思うね」


 のんびりおっとりした調子でイライラと答えるキリエに返した少女は、そこでようやくキリエが脇腹を押さえているのに気がついたようだった。


「まあ、いけない。とっても速く動いてらしたからあまりわからなかったけど、お怪我が酷いわ。すぐに手当てしないと」

「放っといてって言ってんだろ、さっきから」

「そんな、いけないわ。お医者様にお見せしないと」

「医者なんか金ふんだくるだけで何もしてくれないじゃないか。他人の施しはうけないよ、後で何をほしがられるかわかったもんじゃない。もういいんだよ、あんたもあっちにいってくれ。あんたは偶然あたしを見逃した、あたしは偶然あんたに見逃された。それ以上関わってもお互いに不幸なだけだ、そうだろ」


 言い捨ててキリエはふらふらと歩き出そうとする。

 少女の好意をはねつけて良いことがあるとは思えないが、せっかく助けてくれた彼女をこれ以上自分の不始末に巻き込んでしまうのははばかられたし、彼女本人に対するなんとなくのうさんくささもぬぐい切れていない。たとえ本物の馬鹿な善人だとしたら疑いをかけたこととろくな応答をしなかったこと、心底申し訳ないが、身体と足の速さに多少自信があるだけのキリエに少女が満足できるような恩返しができるとも思えない。


 いずれにせよ、彼女とはここでお別れ、二度と会うこともあるまい。

 そんな風に考えて、立ち去ろうとしたそのときだった。


「なるほど小娘、黙ってやっていれば自分の立場を棚に上げて言いたい放題だな。さすが何のしがらみもない最下級の民は塵芥のままに吹けば飛ぶ身の軽さで結構なことだ、無責任すぎて反吐が出るよ、この野生動物が!」


 キリエの背後から実に皮肉っぽい早口の男の声が投げつけられる。

 あまりに流暢で一瞬聞き逃しかけたが、耳の良い彼女には聞き間違いで流すことはできなかったし――後で思い返してみれば何より、その声にはどこか人を引き寄せて離さない奇妙な魅力が籠もっていたのだ。


「……は?」


 キリエは一体どこからこんなひどい空耳を聞きつけたのだろうと思わず足を止めて振り返った。

 何度見てもその場にはキリエ本人とヴェールの少女、筋肉隆々な牛男しかいない。

 塀の向こうから聞こえてきたのだろうか? それにしてはキリエ本人に向かって放たれた言葉にしか思えなかった。

 まさか、と牛を凝視すると、彼は困ったようにキリエからそっと視線を外して少女の方に投げかける。

 釣られるように少女に目を向けた瞬間、またあの声が聞こえてきた。


「要約するとこの阿呆がと言ったのだが、何か問題でもあったかね? 先ほどは浅学のありがたいご講釈を垂れてくださって実に感服いたしましたとも、お礼にこちらも僭越ながら心を込めて一つ申し上げよう。この場合貴様が言うべき言葉は『助けていただきありがとうございますお貴族様、どうぞこの卑しい乞食めにお慈悲を賜ってくださいませ、かわりになんでもしますから、さあ私の身体を好きにして!』だ。開脚しながら足の指でも舐めればさらに上等、少しは我輩もその気になるかもしれない。わかったらとっとと一言一句違わず繰り返さんか、時間は有限、資源も有限だ、このド阿呆が!」


 ざっ、と勢いよく音を立てて長い裾をめくり上げ、少女はサンダルを履いた美脚をキリエに向かって見せつけるように出した。彼女はあんぐりと口を開けた。開いた口がふさがらないとはこういうことだ。


 立て板に水を流すがごとくまくし立てられた毒舌は――どんなにキリエが信じたくない、これは何かの悪夢だと念じて自分の頬をつねっても、間違いなくヴェールの下から出てきているようなのであった。

 儚げな美少女の印象が一転し、同時に激しい混乱と困惑が押し寄せる。


 キリエは完全に放心した。

 未知との遭遇は、彼女の許容量を軽々と超えていた。

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