王
午後の空気はいつの季節もけだるい。
室内の快適な温度につられてうとうとしかけたロステム――イライアス一世は、考え込むような素振りをしてそっと手の下であくびをかみ殺す。
側で片時も王から目を離さない控えの者はともかく、周囲の臣下達の方は幸いまだ机上で口論を飛ばすのに忙しいらしい。
耳を澄ませると、意識を飛ばす前からあまり進展していないやりとりの様子が聞こえてきた。
もう少し成り行きを見守っておくか、と彼は頬杖をつく。
バスティトー二世が手離した外宮は、女王が恐怖でもって君臨した頃に比べ、よく言えばのほほんとしており、悪く言えばたるんでいる傾向にあった。
母親に比べ、イライアス一世は自分が臣下達に侮られていた自覚がある。
彼が若いせいもあるし、何かにつけてバスティトー二世より温厚、つまり生ぬるかったせいもある。
規範を望まれればそれらしく振る舞えるが、だからといって進んで改良しようとしない姿勢も、たぶん張り合いがないとかつかみどころがないとか陰で言われていたのだろう。
その通り、つかみどころがないというか、つかむところがそもそもない。
彼にはこうしたいという政の理想が特になかったのだから。
先代国王バスティトー二世は、やる気を出していた頃はそれこそ自分が好き勝手できるための政治に随分と忙しかったようだが、イライアス一世の方はそこまで執心を見せていなかった。
彼は母親やすぐ下の妹のような派手好きな性格でなく、どちらかというと部屋の中に引きこもって誰とも喋らなくても大丈夫なぐらいの性質だ。元は闘争を本能とする亜人の割に、争いごとを好まなかった。
だから、自分の王としての勤めは母のように先陣を切って引っ張っていくようなやり方でなく、皆の後ろからついていって適当な意見調整と最終的にうなずいておくことだろうと心得て、さほど自我を出そうとしなかった。
自分自身にこうしたいと強く思う事がなかったので、我を張る必要がなかったのだ。
――三年前までは、新国王はそのように無能な怠け者で、毒にも薬にもならないはずだった。
「それで? しばらく待ってみたところだが、結論は出してくれたのか。それとも出せないというのがそなたたちの結論なのか」
議論が一周し、主に喧嘩をしている辺りが沸騰しかけてきた頃合いを見計らって、王はのんびりと声を上げた。これ以上放っておいても空気が悪くなるだけだと判断したのだ。
母親譲りのよく通る声は、さほど張り上げなくても一瞬で会議場をしんと静まりかえらせる。
頬杖をついたままつまらなそうにしている彼の方に、先ほどまで息を荒げて白熱した議論を繰り広げていた二人が振り返る。いかにも武にたしなみがあるという風情の熊の亜人と、白い耳を揺らす兎の亜人だった。
「陛下。関係者は皆、厳罰に処すべきです。人間相手に何を配慮することがございましょう? 見せしめ結構、残虐すぎるぐらいで何がいけないのです。それでなくとも最近の奴らは道理をわきまえていない」
「武人はこれだから短慮でいけません。十年前、いえ二十年前ならそれで済みましたとも、ですが今は状況が違うのです。押すばかりではかえって反発を生みます。ここはあえて譲歩の姿勢を見せる時です」
「貴様、我らがおちぶれたとでも言うのか!」
「先代陛下の国策で昔より人間が国土に増え、要職についているのは事実です」
再び熱が入りそうになったやりとりは、王の深いため息の音で止まる。
イライアス一世は二人の、部屋中の視線を受けて重たい口を開いた。
「改めて、もう一度事件の概要を確認したい。セルトゥール、簡単でいい。復習させてくれ」
「は。霧の月十日未明、帰宅途中の金融商人メルカント氏が複数名の暴漢に襲われ、足の骨を折るなど全治三ヶ月の重傷を負いました。犯人は即日自首。交易商人フルムンド氏を初めとする複数名が私怨の報復であるとして名乗り出たため、身柄を拘束しました。現場検証及び目撃者の証言もあわせて、フルムンドらの犯行であることは明らかです」
側近が速やかに述べると、すかさず熊の亜人は鼻を鳴らす。
「ふん、なりあがりの商人、しかも人間の分際で、由緒あるメルカント家を標的にするなど言語道断。このような思い上がりを以後出さぬためにも、私情に流されず人間どもを極刑に処すべきです、陛下」
「私情まみれなのはどちらでしょうな、単細胞殿。相手に重傷を負わせている以上、彼らに落とし前として何らかの刑罰は必要ですが、そもそもこの犯行の発端としてメルカントの暴利な金融経営があったことは見過ごせません。さらにメルカント氏はフルムンドの娘に恐喝を行った疑いももたれている」
「娘本人が否定しているではないか、被害者が違うと言ってるんだからそんな事は起きていない。また臆病者の忌々しい人間びいきが始まったか?」
「都合の悪い事実から目をそらし、種族や家名に固執して不当な判決を下そうとしているあなたに言われたくはありませんが?」
「――にぎやかなおしゃべりは結構だが。私に何度同じ事をさせるつもりだ、臣よ」
三度険悪になりかけた空気に、ついに国王は不機嫌をにじませた声を上げた。
彼は眉間にしわを寄せたまま、ぐるりと室内を見回し、再び口を開ける。
「今回の暴行事件は、つまるところ商人同士のいさかいなのであろう。その上、被害者にはどうやらそれなりの非が認められるように思える。……ところで、喧嘩について同格は両成敗が基本だったな」
「陛下! 同格などと――」
「理の上では同格となっている。私ではない、先代女帝が決めた法律の問題だ。武芸に励むのは大いに推奨するところだが、そろそろ少しは文字も覚えてもらおうか」
抑えきれない失笑がどこかから忍び漏れ、熊は顔を真っ赤にする。
「とは言え、そのまま適用すればこのように騒ぎ立てる亜人が大勢出るだろう。私も亜人の端くれだ、人間ばかり贔屓されれば面白くない気持ちはよくわかる。感情だけに従うなら別にフルムンドを八つ裂きにしてやっても構わないぐらいだぞ」
今度は兎や部屋の中の人間達が顔色を変え、熊を中心とするいかにも硬派な亜人達数名がうんうんと大きく国王の言葉にうなずいた。
イライアス一世は冷めた目で彼らの様子を確認し、大きく息を吐き出してから続ける。
「どんな事情があったにせよ、安直に暴力に訴えて他市民の秩序と平和を脅かしたことは事実。罪人は同じく足を折って償うべきだろう。また、加えて主犯のフルムンドはきわめて計画的な犯行を敢行したのみならず、複数名の犯罪をそそのかし、助長したことに凶悪性が認められる。よって鞭打ちに処す」
「陛下、よくぞ! ですが少々足りぬ気も――」
「陛下! それではメルカントは――」
「メルカントは当然、被害者であるので療養するように。ただし、被害者扱いしてやるのはあくまで今回の暴行事件に限ったこと。叩いて埃が出るのなら掃除されても文句は言えまい、たとえ由緒正しい純血の亜人なのだろうとな。ああそう、だからフルムンドを鞭で殺すなよ。メルカントの別件の貴重な証人になるぞ、死なせたら刑官の怠慢とみなす」
一気に言い放ってから、彼は玉座に深く身を埋めた。
臣下達は口を半開きにして、呆然と国王を見つめている。
「……不満なら、それこそ先代の全盛期にならうか?」
王がからかうように言うと、周囲ははっと我を取り戻し、彼に従うむねを口々にする。
熊も兎も納得しきった顔ではないが、王の金色の瞳にじっと見られると押し黙る。
イライアス一世は先代女王のように感情的に声を荒げることはない。
ただ淡々と静かによどみなく言葉を流すだけだ。
だからこそ、彼が一度しゃべり出すと不気味で仕方ない――。
臣下達は密かに、こみ上げる寒気をこらえていた。
(今日も面倒ごとだらけでつかれた……)
ようやく午後の政務からも解放された王は、内宮に向かって歩く自分の足取りが先ほどまでの億劫そうな様子に比べて明らかに軽やかなのを自覚する。
籠の鳥を得てからもうすぐ一月になるだろうか。
リテリアの心は頑ななままだが、夫と子どもの安全がちらついている以上ロステムを拒みきることはできない。
今日はどうやって、あの反抗的な態度を崩してやろう。どんなことをしたら、彼女は自分を、自分だけを見てくれるだろう。
ロステムの暗い嗜虐心は燃え上がるばかりである。
我ながら現金なものだと笑いかけた彼の足取りが止まり、自然と微笑が浮かんでいた顔は一気に色をなくす。
王が視線を向けた先には人が集まっており、見慣れた侍従達がほとほと困り果てた様子でおろおろしている。外宮と内宮の今の主が帰還したのを見ると、助けが来たとばかりに一斉にくしゃっと顔をゆがめた。
彼らを困らせていたたった一人の人物は、くるりと振り返って優雅に一礼する。
「国王陛下におかれましてはご機嫌麗しゅう」
縞模様のある白い尻尾が揺れ、金と銀の瞳は怪しく光り輝き、白い耳がロステムの方にぴんと立っていた。
先代国王。現王太后。力と恵みを与える者であり、飽きっぽさとわがままの象徴。
バスティトー二世は、現役時代と少しも変わりない美貌に凄絶な笑みをたたえ、新米国王の前に立ちはだかっていた。




