ほころびた巣
きっかけは、翌日オディロンが寝過ごした事からだった。
「珍しいですね、いつもはずっと早くお目覚めになって、眠そうな奥様を起こしているのに。昨晩は遅くまで起きてらしたのですか?」
着替えや用意を手伝うお付きの者達が口々に言う中、老夫は昨日なかなか寝付けなかったせいかもしれないと苦笑する。
すると、彼の様子をじっと見ていた領主夫人が言う。
「旦那様、やはり念のため、お医者様に診ていただきませんか?」
周囲も言われた方も驚いたように目を見張る。
オディロンは間もなくいつも通りの柔和な微笑みを浮かべた。
「そんな大げさな」
「でも、最近何かにつけて頭が重いとおっしゃっていますし」
「大事ありません、これくらい」
「昨晩、ご様子がいつもと違ったのは確かです。それで今朝もとなると、私――」
「心配しすぎですよ、リテリア様。臣もあなたも、先日の祭りではしゃぎすぎたのが残っているのでしょう。いけませんね」
リテリアは言った後に、失言したかもしれないと思い至る。
昨晩の事を彼女が口にした瞬間、夫が目に見えて身体をこわばらせたからだ。
不快を感じたというよりは、どちらかというとばつの悪そうな表情を浮かべたと表すのが近いだろうが、彼にとって触れられなくない方に話を持って行ってしまったのは、明らかにこちらのミスだった。
これで話は終わりという態度を取られてしまうと、オディロン相手だとそれ以上は「でも」と言いにくい。
この老人が親切であっても頑固者でもあり、一度自分の中でこうと決めたらその場ではまず動かなくなるのは、五年も共に暮らしていれば領主夫人もすっかり心得ている。
リテリアは夫に求められれば自分の意見を通すが、逆に言えば求められないときは空気を読んで引いてしまうのだ。
アルトゥルース相手ならば押していけるところが、オディロン相手だと見えない壁に阻まれるようでその先に進めない。
自分も夫の何やら落ち着かない様子に釣られて浮き足立ってしまったのだろうか。なら、この嫌な予感も思い過ごしなのだといいけれど、どうにも心が落ち着かない。
幼妻は困ったような微笑みを浮かべながら、内心歯がゆく思っている。
周囲の気心知れた付き人達も、夫婦の微妙な気配を感じ取ったのだろう。
それ以上はその場で話題にしようとせず、後でリテリアにだけこっそり耳打ちしてくる。
「私たちも、今日は気をつけて見ておきますから。このところお疲れのご様子ですし、何かあったらすぐ対応いたします」
リテリアがお礼を言うと、夫と同じぐらいの年頃の従者は目を細める。
「奥様は本当に、旦那様のことをよく思ってくださってらっしゃる。お気持ちは十分伝わっておりましょうとも」
恐縮する彼女に、夫が優しくいってきますの言葉をかける。
彼女は見送り、自分の感じた漠然とした悪い予感を思い過ごしだとなだめようとする。
(そうよ、こんなの、きっとなんでもない。私が変に考えすぎているんだわ……)
けれど、残念ながら、人の予感というのは、悪いものに限って当たるものである。
オディロンはその日は無事政務をこなして帰ってきた。
しかし、戻ってきた付き人達が、熱でもあるのではないかと口々にリテリアに告げてくる。
「ですが、今日の旦那様は、私どもが何か言っても大事ない、これぐらいへっちゃらだ、の一点張りでして……奥様からおっしゃっても、同じになってしまうかもしれません。旦那様はお気を悪く為されるかもしれませんが、こっそりお医者様を呼んで見ていただくべきでは」
間の悪いことに、領主夫人と彼らが相談をしている間に、領主本人が部屋にやってきてしまう。
彼は会話内容こそ聞こえなかったものの、夫人の部屋に集まっていた顔ぶれと雰囲気から何を話しているのか察したらしい。
やっぱりどこか気まずそうな苦笑を浮かべた。
「そうですね……もしかしたら、軽く熱でもあるのかもしれません。今日は念のため、別々に寝ましょう。風邪で、あなたに移したりしたらいけないから」
そういう心配をしていただかなくてもいいのに、と思う妻の心は不器用な夫には届ききらないようだった。
領主の帰りが遅かったこともあって、その日は大分夜も更けていた。
今から医者を呼ぶのは、と渋る領主に、では明日は必ず、朝一番で見ていただいてくださいね、と口々に皆で言い合う。
「……臣は本当に恵まれている。幸せ者です」
ふと、寝所に帰る前に、ぐるりと周りを見回し、そんなことをオディロンが言う。
「オディロン様、そんな言い方をされると心細くなります」
妻が彼の袖をきゅっと握って言うと、愛おしそうなまなざしで亜人は彼女を見つめ、頭を、頬を撫でてからゆっくり抱きしめる。
周囲が見計らったようにさっと出て行ったので、部屋には夫婦のみ残される。
「どうなさいました、リテリア様」
「わかりません。でもなんだか、とても心細いの」
何かに怯えるような妻の様子に、夫は柔らかく目を細めた。
「……すぐ、治してまいりますから。また、あなた様の盾となりましょうとも」
何度も何度も落ち着いた調子の声音で語り聞かされると、リテリアも落ち着きを取り戻す。
それでもどうにも一抹の不安がぬぐいきれない。
「アルトゥルースが出かけているからでしょうか?」
彼女の様子をうかがっていた夫がふと口にする言葉は、そうだ、と答えを得たような思いと、何故今その話題を、といぶかしむ気持ちを生み出す。
領主子息は間の悪いことに、隣の領地に交流と勉強に出かけていてあと数日戻らない予定だった。
彼がいてくれたなら強引にでも医者を引っ張ってきてくれたろうし、独り寝がこんなに心細くなることもなかったかもしれない。
しかし何故今この時にその名前を出すのだろう、それが解せない、とリテリアは思い、困惑混じりの微笑みを浮かべている。
その様子は愛らしく、今の彼女はそれだけでなく、儚げな中に凜とした美しさがあった。
一方のオディロンは、どこかすべてを見通すようなまなざしで、それでも慈愛のあふれる、それでいて憂いの籠もる表情で幼妻を見守っている。
「あれにも、可哀想なことをしてしまっています。あの子の気持ちを知っていながら……ずるいことをしようとした。こんなことでは、きっとウレイスにも叱られてしまう」
「……オディロン様?」
「臣は果報者です……ですが、少々身の丈以上に受け取りすぎたような気もします。あなた様はきっと、本当は――」
「旦那様、やはりお熱があるのではないかしら。いつもは言わないようなことばかり。もうお休みになって。話は明日、お医者様に診ていただいて、安心してからゆっくりしましょう? そう、明日はどんなに嫌がられても絶対に診ていただきますから」
リテリアは直感が命じるまま、夫の言葉を遮った。
これ以上言わせてはいけない。これ以上聞いてはいけない。
彼女の中で鳴る警鐘は激しさを増すばかりだった。
オディロンは言葉を途切れさせると、ゆるゆる頭を振る。
そして一際穏やかな、優しい顔をする。
「リテリア様。もし、何かあったら、アルトゥルースに……」
「もう、嫌ですって何度も言っているのに、今夜は意地悪な旦那様」
「……これは、失礼をしました。お休みなさい。よい夢を、リテリア様」
「お休みなさいませ――あなたもよい夢を、オディロン様」
抱擁して、軽く頬に口づけを落として――そしてその夜、夫婦は別れた。
リテリアはこのときのことを語る度に自分を責める。
何が何でもお医者様を連れてくるべきだった、そうしたら間に合っていたかもしれない、何かが変わっていたかもしれない、と涙を流す。
老夫オディロンはその晩、重たそうな頭を押さえながら一人で寝所に入った。
どこか顔色を悪くしながらも、妻や部下が自分を何度も案じる様子に、臣は幸せ者だ、果報者だと執拗なほどに繰り返し、満ち足りた満足そうな微笑みを浮かべて目を閉じた。
そしてその後、二度とその目は開かれることがなかったのである。




