鳥2
ぼんやりと、弦を奏でながら空にうつろな目を向け、悩み事にふけるリテリアだったが、来訪者の音にぴくりと身体を震わせる。
「リテリア」
音もなく部屋に入ってきたロステムは、当たり前の様に控えの者達を追い払うと、リテリアのすぐ近くに腰を下ろす。
リテリアはほぼ反射的に彼から身を引きそうになったが、手を取られて引きつった微笑みを浮かべる。
「――お兄様、今日は、何を」
「結婚するって本当?」
ロステムは単刀直入に用件を伝えてきた。あまりに直球過ぎてリテリアの頭が一瞬混乱する。
「ネィメン卿と縁談が持ち上がったと。内宮でも外宮でも、ちょっとした騒ぎになっている」
瞬きもせずロステムは低い声で付け足す。
リテリアは視線を迷うようにさまよわせてからそらした。ぱちぱちと黒く長いまつげがまたたく。
「……お母様が、そうしなさいって」
「愛しているの?」
「えっ?」
「お前はネィメン卿を愛しているの?」
心なしか、兄が握る手に力を込めた気がする。兄の態度にも、言葉にも、妹には困惑しかもたらさない。
ゆっくり息を吸って自分を落ち着けてから、リテリアはぽそぽそ喋る。
「……会った事もない方なのよ? どうやって好きになれって言うの?」
「リテリアには好きな人はいないの?」
「だって、私が表に出て行けるのは年始の挨拶の時ぐらい。それだって顔を隠して奥側に引っ込んで、表に出るのはお母様。男の人と接する機会なんてないわ。使用人だって女の人ばかりだし」
「ふうん」
ロステムが細めていた目の眼力が和らぐ。
リテリアは目を伏せたまま、ゆっくり自分の手を引こうとする。
が、相変わらずそちらは離れない。
ロステムはまた目を細めた。今度はどこか機嫌よさげに、朗らかに。
「僕からお願いしようか?」
「えっ」
「陛下に。お前が嫌なら結婚を断ってあげよう」
「でも、結婚しないなら、神殿に巫女として送るって――」
「お前がここにずっといたいと言うのなら」
ロステムはリテリアが話す言葉を遮るように割って入る。
いつにない兄の強引さにリテリアはおろおろ困った顔を向けるだけで――それでも、明確に嫌ともやめろとも言わない。
「僕は、神に逆らってでも、お前の望みを叶えてあげる」
ロステムはどこか歌うような抑揚をつけてリテリアにささやく。
リテリアの目にはもはやすっかりおびえが浮かび、彼女は今や身体を固くし身をすくめている。
離れようとすれば、ますます引き寄せられる。
「お兄様、こんな……」
「リティ」
弦が調子の外れた音を立てた。
リテリアが手すさびに触っていたそれは、ロステムの片手で遠ざけられる。
リテリアの視界がぐるりと周り、彼女は自分がそっと押し倒されるのを感じる。
「――僕たちだけの、秘密だろ?」
そっと兄がリテリアの失われた左目を撫でる。
すると彼女の喉から出ていこうとしたすべての言葉引っ込んで消えていってしまった。
ロステムの顔がゆっくりと降りてくる。
リテリアの眼帯をめくりあげ、その下の醜い傷に口づける。
最初触れていたのは柔らかな唇だけだった。
すぐにそこにざらりとした生温かい感触が加わる。
潰された左目を舐め上げられて、リテリアは震えた――もちろん、悪寒に身体を震わせたのである。
無力な少女はいつの間にか祈るように両手を握りしめるとぎゅっと目を閉じて、早くこの時間が終わってくれますようにと必死に念じた。
ロステムがリテリアに「そういうこと」を始めたのは、彼女がお守りを――合い鍵を作ってくれと頼んだあの時の事が発端だった。
「もちろん、君の言うことならなんでも聞いてあげるよ。代わりに、僕のお願いも少し聞いてくれる?」
リテリアは一体何を頼まれるのだろうと少々不安に思いながらも、賢い兄ならそう無茶な要求はしてこないだろうと考えてうなずく。
もし、どうしても無理な要求をされるようだったら、そのときはお守りを作ってもらうことも諦めよう。
そんな風に思考をまとめてから兄に何を望んでいるのか聞くと、彼はリテリアの手を取った。
「…………?」
無言のままただ手を握られて疑問符を浮かべるリテリアを余所に、兄は何かに満足したようで、そのときはすぐ引き下がった。
リテリアは怪訝に思いながらも、そんなことだけで兄がお願いを聞いてくれるならと安易に喜んだりなぞしてしまったのだ。
次は、できあがったお守りを持ってこられたときのこと。
「リテリア。このお守りは皆には内緒の物なんだよね?」
野望への夢が一歩近づいて興奮を隠せないリテリアを前に、渡すほんの直前に鍵を取り上げてしまってロステムがふと聞いてくる。
内心焦れながらも妹が渋々うなずくと、兄は穏やかな微笑みを深めてみせた。
「なら、僕たちだけの秘密ってこと……そうだね?」
「え、ええ。そうなると思うけど……」
リテリアはどこか様子の怪しい兄に、差し出していた両手を引っ込めて不安な表情を浮かべる。
けれどそれ以上はロステムも意地悪をするつもりはないらしく、紐に通したお守りをリテリアの首にかけてやる。
「よく似合っているよ、リテリア」
彼はそう言って、お守りに、そしてついでのように妹のこめかみのあたりに口付けた。
少し驚いたリテリアだったが、兄が自分に過度なくらいの親愛の情を向けているのはわかっていること。
「もう、お兄様ったら」
笑顔を浮かべ、彼の悪戯をやんわり拒むように手でロステムの身体を押し戻した。
そのときも、それだけで済んだ。
リテリアは「そういうこと」があるたびに、内心首をかしげつつも、くすぐったそうに笑って兄の手から逃れた。
小さな違和感は押し殺して、微笑みでやんわり対応した。
ところが「そういうこと」はリテリアの思った以上に何度も繰り返されて続き、しかも回数を重ねるごとに彼女の笑みをこわばらせるものに変わっていく。
片目を抉られてから、兄の行為は収まるどころかさらに激化した。
当初は妹思いの兄が――彼女の自業自得とは言え――悲運に深く嘆いているだけなのだと自分をなんとか納得させていたリテリアも、服の隙間から手が潜り込んでくるようになるとさすがに違和感に気がつく。
何かがおかしい。これはきっといけないことだ。
すると、眉をひそめて唇を開こうとした妹を見透かすように目を細め、ロステムは心得顔で彼女の耳元にささやくのである。
「――リティ。君がいいって言ったんだよ? 二人の約束、二人の秘密。もう、忘れてしまったのかい?」
そうされると、彼女は途端に何も言えなくなる。
兄の好意を利用して己の欲望を叶えたこと、兄に自分の片棒をかつがせたこと、それを兄に隠していること――後ろ暗い感情ならいくらでもあった。
誤算があるとしたら、優しくて妹の言うことならなんでもはいはい聞いてくれるようだった兄が、こんなことをしてくること。
「リテリア、怖がる必要はないんだよ? 僕は君を可愛がっているだけなんだから」
不安を覚えると、そのたびにロステムは妹の肌を撫で回しながらなだめるように優しく言い聞かせる。
リテリアは黙って従うほかない。
――別に、だって、確かにお兄様の手つきはちょっと過激かもしれないけど――所詮、触れられているだけなのだし。
そんな風に、自分をだまして不満を押し殺す。
鍵はもうない。母に取り上げられたから。
けれど兄に型を渡したあの瞬間から、彼女は知らないうちに自分に鍵をかけられてしまったような気が今はしていた。
ひんやりとしたものが胸に広がっていくのを感じながら、リテリアはうっすらと目を開ける。
(……物知らずで、愚かな私にも、一つだけわかることがある)
押し倒したリテリアの首元に顔を埋めて歯を立てていた兄が、身を起こしてちろりと唇を舐め上げた。
(私は、宮殿にこのまま居続けてはいけない。お兄様とこのまま一緒にいてはいけない――)
リテリアが母に縁談のことを了承すると伝えたのは、その半日後のことだった。




