13、頼れる兄
リオネル様との再会の、翌日。
「はぁ……」
私は重くてどんよりした心を隠しきれずに、深いため息をついていた。
精霊学の先生が、壇上で講義をしている。身の丈ほどもある長い杖が、彼の語りに合わせてひょこひょこと揺れ動くのを、ただぼんやりと眺めていた。
講義の内容はちっとも頭に入ってこなくて、私の頭を右から左へと滑っていく。
思い悩んでいるのはもちろん、リオネル様のことだった。
再会できたこと自体が奇跡のようなものなのだ、喜ばなきゃいけないとわかっているのに――現実の距離感を思うと、その奇跡を無邪気に喜ぶことはできなかった。
彼の花嫁から、他人へ。
死に戻りによる立場の落差が大きすぎる……。
机の上、開かれたノートは白紙だ。羽ペンはインクすらつけられることはなく、暇をもて余している。
そんな私に、教室の中でひとりだけ、心配そうな視線を向けている人がいる。隣の席の、ブレディだった。
*
「リア、大丈夫? ……じゃ、なさそうだね」
授業が終わってから、ブレディは私の顔を覗き込んで眉根を寄せた。きっと今、私は相当酷い顔をしているんだろう。鏡を見なくてもわかる。
「メモ取ってないけど、課題のことは大丈夫?」
私の心が荒れている理由は、聞かれなかった。正直にすべてを答えることは、いくら兄のような相手でもできる訳がない。
肩の力が抜けて、私はほっと息をつく。
(……ん? 課題?)
聞き逃しそうになった単語が意識の端に引っ掛かった。
「ブレディ……課題って?」
恐る恐る、ブレディを上目遣いで見る。
「あ、やっぱり聞いてなかった? 来週の授業が期限なんだけど」
ブレディは苦笑いしている。彼の語る内容に、ひとつも聞き覚えがない。全身に寒気が走り、私は自分の席に座ったまま、身を小さくした。
「全然聞いてなかった……ごめん、教えてもらってもいい?」
「リアはしっかりしてるように見えて、案外抜けてるとこあるよね」
その言い分にむ、と唇を尖らせかける。けど、ブレディがとびきり優しい兄の顔を浮かべていたから、不満はどこかに吹き飛んでしまった。
ブレディは私の方に椅子と体を近付けて、自分のノートを見やすいように私の前に置いてくれた。
「ここに書いてある、『精霊が多い場所を調査して、属性の分布と好む環境を考察する』ってやつ」
「ありがとう……!」
「そそっかしい妹のフォローをするのも、兄の役目だからね」
またからかわれてしまった……。
ちょっと意地悪な幼なじみが見せてくれたそれを、自分のノートにさっと書き写した。
精霊たちは、私たちの祈りに呼応して魔法を使う力を貸してくれている。通常目に見えないし声も聞けないから、そもそも精霊が多い場所を割り出すのが大変そうだけど――
「リア、悩みごとはね、誰かに話せば楽になることもあるよ」
ブレディがぽつりと呟いた言葉に、課題に引き寄せられていた思考が止まる。
「ブレディ……」
決して、無理に聞き出そうとする語り口ではなかった。
塞ぎ込んでいる私にそっと寄り添って、支えてくれようとする気持ちが伝わってきて、心の奥が揺さぶられる。
(甘えても、いいのかな)
さすがに死に戻りや結婚生活のことまでは言えない。ただ、リオネル様との関係に悩んでいることくらいは、打ち明けてもいいのかも――
そこまで思考してから、私はふと一度目のことを思い出した。リオネル様との結婚生活では、こんな風に思わなかった。
(……リオネル様には、甘えられなかったな)
心に穴が開いてしまったように、冷たい風が吹き込んでくる。
あの人はいつ見ても忙しそうだった。仕事に追われてろくに眠る時間すらないようにも見えて、ただでさえお荷物だった私は、素直な言葉を忘れてしまっていた。
リオネル様は誠実だから、私が話せばきっと聞いてくれただろう。話を拒否されたことは一度だってない。ただ、私が遠慮して言わなかっただけ。家族だったのに。
誰かに甘えることは、とても難しい。
「……あのね、ちょっと悩んでることがあるの」
でも、ブレディ相手にはするりと言葉が出せた。幼なじみで、本当の兄のような存在だから――迷惑をかけたり、負担をかけてしまっても、きっと温かく私を見守ってくれるから。
今も、ブレディは嫌な顔ひとつせず、私の言葉を待ってくれている。それがどれだけ嬉しいことか、目の前の人はわかっているだろうか。
「仲良くなりたい人がいるんだ。でもね、その人は私と話すことを望んでいないかもしれなくて」
再会した私たちは、他人同然だった。あの距離感を、思い出すたびに胸が痛む。
たどたどしい私の言葉を、ブレディは相槌を打ちながら黙って聞いていてくれる。それだけで、不思議と全身の力が抜けていく気がした。
「どうやって、仲良くなったらいいかな」
他人同然に巻き戻ってしまったから、またゼロから積み直して話せるようになりたい。そう願うけど、それで好感度がゼロからマイナスになってしまうことが何よりも怖い。リオネル様の瞳が、本当に氷のようになってしまったら、私はきっと耐えられない。
もしもかつての私にも、こんな風に手を差しのべてくれる人がいたら――あの結婚生活は、どう変わっていただろうか。そんな、今さらどうしようもないことを考える。
「そうだなぁ」
ブレディはじっくりと考えているのか、視線が上を向いていた。
「そいつが誰なのかわからないから、一般的なことしか言えないけどさ、まずは様子を見てみればいいんじゃないかな」
「様子を見る?」
「うん。人間誰しも機嫌が良い時も、その逆もあるからね。機嫌が良さそうな時に無難な話を振ってみて、盛り上がる話題を探す。逆に機嫌が悪そうな時は、玉砕しそうだから話しかけないようにするとか」
目から鱗だった。私は「もう一度会いたい」と直線的にばかり物事を考えていて、普通に関係性を深める努力を怠っていた。そんな怠慢を、目の前に突きつけられた心地になる。
「リアはちょっと、難しく考えすぎなのかもね」
ブレディがぽんぽんと頭に触れてくる。妹にするようなスキンシップだとわかってはいるけど、リオネル様もよくこうやって私に触れていたな、と思い出して切なくなる。
私は少しだけ身を離す。
その時ちょうど、魔法の予鈴が鳴った。
「あ」
私は青ざめて椅子から立ち上がる。いつの間にか、教室には私とブレディしかいない。
「次、移動教室じゃない!?」
「知ってる。急ごっか」
幼なじみは余裕そうにへらりと笑って、鞄を持つ。
「走るよ」
ブレディと連れ立って、私は教室を飛び出した。先ほどの授業中より、少しだけ心が軽い。心の中で、寄り添ってくれた幼なじみに感謝する。
(次に、リオネル様と会えたら)
走りながら思案する。
他人として接された怖さが、なくなった訳ではないけれど――
(自分から、話しかけてみようかな)
ゼロから関係をやり直すために行動することを、私は決意した。




