第四十九話『破壊の名』
カサンドラとエレクとの距離はおおよそ馬三頭分。一息の距離だった。エレクが両手をゆるりと構え瞳を見開く。筋肉と血管に染みわたる魔力はじりじりとした痛みすら伴い、熱が湧きたっているようだった。
それを見ながらカサンドラは胸中で、笑みすら浮かべていた。それはエレクを侮っているわけではない。
――結局、王は勝利の為に手段を選ばない人間のままだったと安堵したのだ。カサンドラが知るままの王の姿。
シヴィリィの身体は応急処置がされただけのものであり、特に魔力機構は大きく損傷している。恐らくはすでに一度、本来放出する為の『破壊』を、付与という形で扱ったのだろう。エレクが共にいるのならば十分に考えられる事だった。
そんな状態で再び同じ事をしでかすのは、エレクがあの村娘を慮っていないのと同じではないか。
カサンドラは頬に笑みを湛えながら腕を広げる。『万物零落』の展開を自分の周囲にのみ留めた。もはやこれから、エレクが何をしてくるかは明瞭だ。彼が最も得意だった事。
詰まり魔力戦ではなく、接近戦での破壊戦闘。魔力の差を幾度も覆した彼の秘奥だ。
「我慢比べですわね、陛下。どちらかが、どちらかに敗北するのよ。勝ち目がある勝負を陛下となんて、心が躍るわ」
「ああ、決着をつけようカサンドラ」
名前を呼ばれ、思わず瞳が緩む。かつて自分を呼んでいた音色とは違ったが、それでも懐かしさを感じてしまった。五百年前、彼のすぐ傍にいた頃。
エレクは言って、即座に足元を強く踏み抜いた。大理石が完全に砕き散らされ、巻き起こった砂煙が静謐な空間を汚していく。視界全てが、薄白いものに染まった。カサンドラは片手を上げて、魔力を手の平に集中させる。
――瞬間、砂煙を斬り裂いて、宙を滑空しながらエレクが飛び込んでくる。
彼は読まれていたからと言って攻め方を変える程弱気ではない。そのまま飛び込んでくるだろう。
カサンドラは亡霊を周囲に纏わりつかせて待ち構えながら、エレクと視線を合わせた。彼は楽し気に静かな笑みを浮かべていた。
エレクの魔力を纏った足が勢いよく亡霊をかみ砕き、破壊していく。次には黒く変色した両腕が、空間そのものを斬り裂いていた。
「――――ッ」
カサンドラが息を飲みながら、声一つなく間合いに入ったエレクを見つめる。彼は足を地面に叩きつけ、膝と腰とを駆動させ左腕を振るった。
展開先を限定し、濃度を増した『万物零落』は本来人の血肉すらも零落させる。武具を、肉を、魂を、魔力をより低位に貶める。
けれど、一瞬で全てを無くしてしまえるわけではない。五重に付与された『破壊』をただ一息の魔導行使で消失させるのは不可能だ。
勢いよく振り回される剛腕が、カサンドラの魔力を次々に破壊していく。
本来であれば、『万物零落』が敵の攻撃を押しとどめる。もし今回のように止められぬものであったとしても、貶められた攻撃はカサンドラの結界を抜けられない。
けれど。エレクがぐるりと音を唸らせて、腕をしならせる。
「不甲斐ないが二対一だ。文句は死んだ後に聞こう」
結界に触れた瞬間、彼の手がそのまま結界を取り払ってしまった。一度だけでは信じがたかったが、二度目でもやはり驚愕する。
何が起こっているのか。崩壊と言っていいのかすら分からない。まるでさも、最初からそこに無かったかのように結界が打ち消されてしまう。
『解錠』というには異常で、しかし『破壊』と呼ぶには静かすぎる。余りにカサンドラとの相性が悪い。その上それを用いるのが――。
「――わたくしが陛下に苦言を呈するとでも?」
黒の閃光が勢いよく滑り落ちる。エレクの左腕が、真っすぐに自らの右肩から入り込み臓腑や骨を破壊していく。黒血が踊るように飛び出して行った。
それが華々しくエレクに降りかかる。カサンドラは目元を細めたまま、展開した『万物零落』に意識を集中させる。
『堕ちろ』
表情を変えないまま、口元から血を流して言った。体躯はもう再生を始めている。まだこの程度で死にはしない。循環する生命と死は、永遠が崩れる事はない。問題なのは死に続ける事だけ。殺され続け、循環に用いる魔力すら断ち切られてしまう事だけだ。
エレクが一瞬瞳を歪め動きを止めるのを見て、カサンドラは唇を上げる。やはり、付与された『破壊』の上からでも『万物零落』の効果はある。今はただ周囲を破壊し続ける付与魔導の効果によって、凌いでいるだけ。
それも最初の邂逅と今の奇襲で、すでに二枚削った。残り三枚。もはやこれ以上の魔力のストックはあるまい。自らの右瞳が弾け飛ぶのを感じながらカサンドラは口を開く。
『良いではないですか。堕落の何が悪いのです。陛下にも救いは必要なのですよ』
魔導を弄しながら、至近距離で亡霊を展開する。カサンドラとエレクの両者を囲み、両者の手足に絡みつくようにさせたそれは、本来であれば肉と魂とを凍り付かせてしまうための御業。地上で数多の兵と民とを呑み込んだ脅威。
けれど所詮、それらも彼の前では時間稼ぎでしかない。彼が右腕を振り上げ拳を握れば、亡霊たちはそのまま霧散させられた。だがこれで三つ。残りは二つ。
カサンドラは冷静に相手の戦力を測りながら、それでも尚目を固め感情を震わせる。
その周囲全てを破壊し尽くす在り方に、あの頃を思い出してしまった。今の姿は、五百年前の姿そのもの。
あの頃の彼は生きる民ではなく、指導者ではなく、英雄でもなくただ王という名の大剣だった。
自身や女神の教えに救いを求める事は無かった。騎士達の忠誠に縋る事も無かった。
嘆き悲しむ感情も憤激する感情も失って、恋や愛なんてものはなく、全てを圧倒する個であった王。
それこそがエレク=レイ=エルピスの姿。
どうして生き返った彼が、あんな性格をしているのかは分からない。記憶を失った事が影響しているのだろうか。
けれど、だからこそ。つけ入る隙はあるはずだ。
カサンドラは指先を動かして再びエレクとの間に結界を展開する。効果がないのは分かっているが、今度は使い方が違うのだ。
エレクは躊躇する事なく一歩を踏み出してきた。瞬間、唇を動かす。
「――『爆散』」
結界を爆散させた。攻撃手段が無かった自分に、彼が教えてくれた魔導だ。それも忘れてしまっているのだろう。直撃をしてくれた。
『終わりにしましょう、陛下。今の陛下ではわたくしに届かない』
だから、諦めろと。そう告げる前にそれは来た。結界の爆散は彼の魂すらに痛烈な衝撃を与えているはずなのに、一歩も引かぬまま彼は立っている。
攻撃が、来る。――来てしまう。
黒の閃光が、雷のように迸って見えた。紅蓮の瞳が炯々と輝き、カサンドラを睨みつけていた。もはやそれは、破壊そのもので、カサンドラにとっては死そのもの。
しかし恐怖は無かった。むしろ、それよりも他の感情が強かった。
――エレクの右腕が、空気を裂く轟音と共にカサンドラの心臓を抉りぬく。黒い血液が勢いよく口から吐き出される。
これで、四枚。まだ死なない、まだ。後一度壊される程度なら、耐えられる。そうすれば後は、相手が終わるのだ。後一言。
そう思い、カサンドラが歯噛みしながら魔力を全身に漲らせた瞬間だった。
エレクがカサンドラと視線を合わせたまま、身体を抱きしめるようにしながら言った。
「魔導転換――秘奥『破壊』」
同時、付与の為に使用されていたはずの魔導が、カサンドラの体内に注ぎ込まれる。
衝撃が走る。しまったとカサンドラは瞠目した。最初から、彼の狙いはこれか。
殺し続けてみせるような真似を『魔弾』を使用して見せておきながら、本当は直接『破壊』を流し込んで魔力の根幹を破壊するのが目的だった。
莫大な魔力が逆流するように悶えている。
「ァ、ガ――ッ!?」
カサンドラが嗚咽を漏らす。だが声を響かせる事すら出来ない。コントロールも何もできない破壊が全身を暴れ回っている。物質を破壊するのが目的ではない、純然たる破壊が体内に注ぎ込まれ続けているのだ。
黒血と体内の魔力が激しく脈動し、カサンドラの頭を揺さぶった。彼女の魔力の大元にあるもの、彼女を五百年前から生還させている存在そのものが崩れていく。
カサンドラの体から、力が抜けた。足元がふらつき、思わずエレクの身体にもたれかかる形になってしまった。
そこで、思わずカサンドラは目を見開く。
魔力はかつての彼のものだ。魂もその色合いも。しかし身体は、誰でもない。――どこの馬の骨とも分からない村娘のものではないか。
こんな、訳の分からない女のために。
「終わりだ、カサンドラ。もう何も言うな」
歯噛みする。彼の声が、もう暴力性を失っているのが分かった。
これで終わりだと、真から思っているのだ。こちらがもう何もできないと確信しているのだ。そんな村娘の力を借りた程度で。
呼吸が乱れる。目元を細めながら言った。
「いい、え。…終わりなのは、陛下、です」
息絶え絶えになりながら、カサンドラは唇だけを動かす。体内の魔力機構を破壊され、もはやまともに『万物零落』を展開すら出来ない。
けれど、それでも終われない。終われないからこそ、理想なぞを追っているのだ。何故五百年もの間、屈辱に塗れながら生き続けてきたのか。
声に魔力を乗せて、エレクに縋りつくようにしながら口を開き。
『――ッ、ァ』
けれど、まるでその意志の根幹が打ち砕かれるように。
黒い血を口元から吐き出しながら、カサンドラはその場に膝をついた。




