第百六話『目を見開く時』
――ロマニアが俺の指を絡め取ったまま、浮遊城より地上を見下ろす。
その瞳にはもはや憐憫はなく、憤激と憎悪に塗れていた。それは彼女から知性の輝きが完全に消え去り、感情に突き動かされている事を意味している。
思わず、かつての彼女はこんな風では無かったのにな、とぼぉっとした頭でそう思っていた。
聡明で、誰よりも感情を管理する事に長けていた。感情などあるのかと思っていたほどだ。
むしろ俺や他の連中が頭を熱くした時に、冷静さを取り戻してくれるのがロマニアの役割であったと思う。
その彼女がこうも、感情的になるとは。何が要因なのだろう。
彼女はやや俺への忠誠が厚すぎる点があったから、その関連かと考えるのは思い上がりが過ぎるだろうか。
そう、不意に考えた瞬間。
俺は自分自身の意識がようやく明瞭になり始めたのを感じた。目の端を、黒い亀裂が走っていく。
『破壊』の波動、シヴィリィか。その亀裂が、俺の意識にあった靄をゆっくりと晴らしていく。
目の前には俺の指を握りしめるロマニア、周囲にあるのは多くのエルフ兵。視界に映る光景を見るに、恐らくここは浮遊城の外壁か。
果て、何故ここにいるんだったか。
俺の思考を置き去りに、ロマニアがゆっくりとした口調で言った。
「今日、アレらを全て殺してしまうよ。許してくれるね、君」
「…………」
何を言ってるんだこいつ。
アレらとは、眼下に集っている探索者連中の事か。それを全て殺すと?
周囲を見渡し、ロマニアの一言を聞いて、ようやく事態が呑み込めてきた。頭に妙な鈍い痛みが走る。吐息が荒くなりそうだった。
ここに至って、思い出す。そういえばロマニアの最も得意としたものは、魔力の変化だ。他者の魔力を自分の魔力へと変化させて吸収し、他者の魔力を狂わせて変調を来す。
どうにも意識や思考がおかしいと思ったら、ロマニアの奴、俺の意識を弄ったな。それで今の今まで頭が回らなかったわけだ。
よくもまぁ堂々とこんな事をやってのけてくれる。
「――? どうした、君。気分でも悪いのかい」
「……いや、そうじゃない」
一瞬、逡巡を挟みながらも簡潔に答える。
本来ならば問いただしてやりたい所だったが、一度俺を鎖で拘束した奴だ。今下手に口を滑らせればまた何をされるか分かったものじゃあない。
上手く調子を合わせながら、眼下へと視線をやった。随分と遠く離れているが、魔力の質で分かる。
大勢の探索者の中に、シヴィリィを初めとして、ノーラやリカルダ、ココノツといった他の連中もいるな。人一倍大きな魔力は大騎士か。
これだけの戦力を集めているのは、まず間違いなくこの浮遊城を陥落させようという試みなのだろう。
しかし、
「……どうせ、彼らでは落とせない」
「そうとも。君の浮遊城は無敵だ。絶対に陥落などしない。してはならない。だが、彼らは哀れだろう。無駄な足掻きは、所詮無駄だという事を教えてあげるべきだ」
ロマニアは俺の両手を離さずに続ける。
彼女の言う事は事実だった。全員が魔導を扱える探索者とはいえ、高々数百人程度の兵隊で落とせるほど浮遊城は惰弱ではない。そこにヴィクトリアのような大騎士がいたとして、何が替わるものか。
もし本当に彼らがこの浮遊城に攻城戦を仕掛けて来るつもりなら、ロマニアが何かをする必要もなく全滅する。それは不味い。シヴィリィが死ねば、俺も終わりだ。何か策を打たなければ。
というか、ロマニアは何時まで俺の手を取っているつもりなんだ。
「…………まぁ、良い」
「グリアボルトとゲイルにも指示は出している。今日の内に、彼らは終わる。君は何もしなくて良い」
敢えて口数を少なくして、ロマニアに頷く。
少なくとも今彼女に逆らったり、正気を取り戻した所を見せれば再び魔力を弄られてしまうだけだ。
しかし本当に彼女はどうしてしまったのだろうか。思い出した記憶によれば、少なくとも以前は、俺や周囲の連中の魔力を弄って意識を奪い取るなんて事は絶対にしない奴だったのだが。
まぁ、俺のような相手には嫌気でもさしてしまったのかも知れない。
自分の状態を知る為、まずは指先の感覚を確かめる。肉体が戻ったかのような感触だが、そうではなく魔力で実体化をしているだけか。しかしそれでも十分。出来る事は幾らでもある。
探索者達が、シヴィリィがここに攻め込んでくるのは明らかな無謀だ。勇敢さではない。
ならどうすべきか。思わず、ロマニアには気づかれないようにため息を口内で漏らした。
――まさか自分の城を落とす為の手引きをしてやらないといけないとは、昔の俺が聞いたら目を剥くだろうな。
城の構造を思考の内に思い浮かべていた頃合いだ。相変わらず俺の手に指を絡めたまま、ロマニアが言った。
「どうだろう、君。必要な魔力は幾分か集まった。君の肉体の復活に魔力は欠かせない。今から、魔力を供給しよう」
「――ん?」
ちょっと待ってくれ。考えている内容が吹き飛んでしまった。
魔力の供給と言えば、血を媒介にしたものや、直接肉体に魔力を注ぎ込むなんていう荒業もあるが。そんなものは正気のものは行わない。普通は、肉体的な接触を伴うものだろう。
思わず、反射的に一歩後ずさる。
「おや。もしかすると意識が少し残っているのかな。大丈夫だ、必要な事をするだけさ」
何も大丈夫ではない。
おかしいぞロマニア。まだ朧気な記憶だけだが、お前はこんな事をする奴ではなかった。むしろ異常なほど堅物で、融通が利かない所が最高にエルフらしい女だったはず。
やめろ。指を絡ませるな。女は好きだが、昔の仲間とそんな関係になる趣味はない。
周囲のエルフ兵共、変に離れていくんじゃない。
思わずもう一歩、後ずさろうとした瞬間だ。
「ッ! ロマニア!」
「――先ほどよりも、魔力を込めて来たか」
黒の亀裂が、眼前の空を走っていた。
シヴィリィの魔導。しかし馬鹿な。彼女にこれほどの魔導を展開するほどの力はなかったはず。それにこう言ってはなんだが、一人ではパンを吹き飛ばす程度の魔導しか扱えなかった。
だが目の前に現れたのは、紛れもなく『破壊』の神髄が一端。敵を空間ごと破壊し尽くす大鎌の如き挙動。彼女一人の魔力量で成し得るものではない。
俺が彼女から離れている間に、何があった。
思わず視線を強めながら、足裏で地面を押す。
しかし俺が反応するよりも早く、ロマニアが呼気を吐く。
「不埒者め。――器の分際で無暗に動くものだ。だから己は、五百年前にも反対したのだ。このような事態になると分かっていたからな」
ロマニアはシヴィリィを指して、俺の器とそう呼んだ。
周囲に展開した緑色の魔力を収束しながら、ロマニアが言う。
「――『不断の鎖』」
瞬間、ロマニアの両腕から次々と魔の鉄鎖が放たれる。一度俺を拘束していた鎖だろう。
それは勢いよく何本も放たれ、『破壊』が生み出した魔力を束縛する。
無論、『破壊』自体は全ての魔を破壊する為の魔導。例えロマニアが魔力を練り上げた鎖と言えど、破壊する事は容易い。
しかし、ロマニアの『不断の鎖』の怖さは、ただ相手を束縛するという事だけではなかった。
――ロマニアの魔鎖が、絡みついたまま『破壊』が発した魔力を呑み込んでいく。
束縛した相手の抵抗を許さず、吸い付き、全てを飲み干す。
魔矢や自然と共感する魔導を好むエルフの中では、余りに異端。彼女がかつて忌み嫌われ、そうして恐れ敬われるようになったのは、この魔導の影響が大きい。
『破壊』と『不断の鎖』の、一瞬の邂逅。だが瞬きの間に、勝敗はついた。
『不断の鎖』が魔力を吸い付くし、そのままロマニアの腕へと戻っていく。そうしてまるで彼女と一体化するように、姿を消した。
有象無象を吸い付くし、呑み込み。そうして産み落とす。
大淫婦ロマニア=バイロン。俺のかつての戦友の、あるがままの姿がそこにあった。
「どうだ、見ていてくれたか君。己は随分と強くなっただろう」
彼女は俺に誇らしく見せるように、笑みを浮かべた。




