黒と灰 ―オウル―
シュテンが死んだ。
土砂の中で息を潜めて体を回復させていたオウルはシュテンが光となって消えていく様子をただ見ているしかなかった。
「あぁ、ああ、ぁあああアアア!」
見ていることしか、できなかった。
こうならないために、努力をしてきたはずなのに。折れた翼で地面をかき、オウルはもがいた。
胸が痛い。
粉々に砕けた全身よりも、胸の奥が張り裂けそうに痛む。
シュテンは物言わぬ怪物だ。オウルように人間から怪物になったのではない。正真正銘、生まれながらの異形。
だからこそ、純真だった。
オウルが初めてシュテンと出会ったのは、オウルが煉瓦の塔の監督者によって殺されかけた時だった。
煉瓦の塔の中にいれば珍しい話ではない。研究成果や武機を奪い合い、内部で殺し合いが起きる。
オウルはその諍いの中で命を狙われた。
彼女は孤高の研究者だった。人間を嫌い、関わりを嫌い、常に一人で研究に没頭していた。当然、戦闘系の監督者を相手にしては、勝ち目はない。
必死に逃げて、簡単に捕まった。
これまで開発してきた多くの武機も、魔法も、全て簡単に対応された。おそらく情報が漏れていたのだろう。タネが分かっていれば、オウルの使う武機など豆鉄砲に等しい。
そんな最悪の殺し屋は、瞬きの間に二つに分かれた。
血飛沫が生暖かく顔にかかる。倒れる二つの体の向こうから、巨大な影が現れた。
『イノリヲ』
青い光を纏うのは、怪物だった。
しかしその瞬間、オウルにはそれがヒーローに見えた。
この怪物が自分を殺したとしても、自分は恨まないだろう。
そこには自分や監督者のような欲がなかった。
混じり気のない、まっさらな殺意。
純粋な悪は、美しかった。
オウルは人間が嫌いだ。淀んだ色で、雑味に塗れ、混沌としている。悲しいのに笑って、好きなことを隠して、誰しも誰かの顔色を伺って生きている。
汚い。自分も、誰も彼も。
もっとまっさらで、真っ直ぐに行きたい。何かに打ち込んで、それ以外の何もかもを打ち捨てて、そう
やって生きたかった。
目の前に、そういう存在が現れたのだ。
目を奪われて、離せなかった。
『これは幼気な迷い子のようだ。其方はどうするか。このまま石造りの迷宮を歩き続けるか、我らの手を取って泥の道を行くか』
怪物の隣に、突如として襤褸切を被った何かが現れた。
それが何を言っているのか、自分の身に何が起きようとしているのか、オウルにとってはどうでもいいことだ。
この怪物と共にいられるのなら、どんな茨の道でもいいのだから。
それからオウルは『ハーミット』となり、怪物──シュテンと名付けた者と行動を共にするようになった。
二人で生活をするようになって、オウルの心にはある想いが芽生えていた。
──シュテンを、汚してみたい。
人間として生まれた業。
このまっさらな存在を、人間の欲で汚したくなった。
怪物の気配と姿を消す武機を作り、オウルはシュテンを街に連れ出すようになった。
美味しいものを食べたら、あなたはどんな反応をするのだろう。美しい光景を見たら、心動かされるのだろう。独創的な芸術に触れたら、疑問を持つのだろう。
ああ、見たい。
ただ人を殺すだけではない。
いろんなあなたを見てみたい。
ありとあらゆる私の色で、染めてみたい。
それが独占欲であり、恋と呼ばれる感情であることを、オウルは最後まで気づかなかった。
ハーミットにならなければ、あるいは気付く瞬間もあったのかもしれない。
人としての未練だけを残し、人としての学びを失ったオウルは、もはや自分が本能のまま動く獣に近いことを、認識できなかった。
その結果が、これだ。
シュテンは変わらなかった。
最期の瞬間まで己が信仰に殉じ、まっさらな黒のまま、光となって消えていった。
「ぁぁ、ぁあああ──」
もはや何もかもがどうでも良くなった。
それでもあいつらだけは、シュテンを殺した者たちだけは、なんとしてもあの世に引き摺り込む。
「ああああアアアアア‼︎」
折れた翼で大地を打ち、オウルは空へと飛び上がった。
取り出すのは手に入れたばかりの木箱だ。
あれほど恐れたそれを鉤爪で握り潰す。
「これが──」
中から現れたのは、黒い柄と鞘を持つ、短刀だった。
飾り気はなく。
ただ鉤爪を通して得体の知れない鼓動を感じる。
これが何かは分からない。
なんでもいいのだ。奴らを殺せるものであれば。
「ぁぐっ‼」
オウルは柄を牙で噛み、鞘から引き抜いた。刀身は思ったものとは違っていた。
金属の輝きではない、象牙のような白色の刃がぬらりと現れたのだ。
刹那、魔力が刃に吸い込まれていく感覚があった。
これは恐らく武機に近い性質を持つ刀だ。
敵は四人。最も警戒すべき日向椿は血だまりに倒れ伏し、護も紡もまともに動けない状態だ。最後の一人はおそらくエンジニアだろう、戦う人間の気配ではなかった。
この状態ならば、十分殺せる。
「――‼」
オウルは翼を羽ばたかせ、口に短刀をくわえたまま護へと突っ込んだ。
魔法でも、鉤爪でも、オウルには護を殺す手段がいくらでもあった。それでも得体の知れない宝に縋ったのは、シュテンを倒した護の力に恐怖があったからだ。
その判断が、彼女を終わりへと追い込んだ。
ボロリと右の翼が崩れた。
「――ぁ?」
制御を失い、きりもみ回転しながらオウルは落下した。
立ち上がろうとして、脚も崩れた。
見ると、両脚が灰のようになり、地面に散らばっていた。
そこで思い出した。
『絶対に、使ってはいけない』
その言葉の意味を身をもって理解したオウルは、残った左腕を伸ばした。
羽が落ち、そこから現れた人の手は、地面に唯一残されたシュテンの角へと触れようとし。
「シュテ、ン――」
何も掴むことなく、灰となって崩れた。




