蜘蛛の糸
俺はぐるぐるとめぐる光景の中を振り回されていた。
何かが紡へと駆け寄ってくる時、無我夢中で走り込んだ。掴んだランク2を盾に突っ込み、そこからの記憶がない。
気付いた時、俺はぶっ壊れたメリーゴーランドのような座席に座らされていた。
次々に切り替わる光景は、見覚えのないものばかりだった。
空から見下ろす雄大な大地。
遥か遠き緑の稜線。
人間。
空。
冷たい感触。
温かな感触。
街。
部屋。
白。
めぐるのは景色ばかりではなかった。
感情なのだろうか。パステルカラーの感情が全部を塗りつぶし、次の瞬間には別の色に変っている。
追いつけない。
思考の渦に、身体が飲み込まれる。
その中で明確に焦点の合う光景が見えた。
瞬間、視線がアンカーのように突き刺さり、光景が固定化される。
――なんで。
視界の中、中心を堂々と占めるのは一人の男だった。
どこにでもいる中年の男。少なくとも俺の目にはそう見えてきた。
しかしそこに立つ姿のなんと威風堂々たるものか。
まるで巨木のように、どっしりと地面に足の根を下ろし、拳を構えている。
俺はその男を知っていた。知らないはずもない。
真堂盾。俺の親父だ。
親父は拳を構え、悲しそうに俺を見つめている。
親父――。
見たことのない、守衛魔法師としての姿。そこに満ちるのは静かな覇気だった。
俺は親父に近付いていく。
距離はどんどん短くなり、ついに手が届く距離になった。
刹那、親父が動いた。
踏み込みは撃鉄となり、拳が俺の顔面へと放たれた。
鬼灯先生の技とはまた違う。荒々しい野生の中に光る、確かな技巧。
拳ってのはこう撃つのだと、全身に刻まれていく。
どれ程打たれただろうか。
視界は砕けてバラバラの黒に染まっていく。
そうして何もかもが見えなくなって、感じなくなって、消えていく。
その中で、ピンと糸が張った。
俺の胸から一本だけ、光の糸が暗闇の中を伸びていく。
ああ、なんだっけな。
そう、蜘蛛の糸みたいだ。
釈迦は罪深き男に救済を与えた。しかし掴んだ糸に我も我もと罪人が押し寄せ、最後には切れてしまう。
なんて残酷な物語なんだろう。
救われなかったことじゃない。悪は悪のままであるという諦観でもない。
ただ目の前に希望があれば、それがどれだけか細くとも掴んでしまう性が、残酷だと思う。
『護は寂しがり屋ですね。でも仕方ありません。このホムラがいつでも寂しい護の相手をしてあげましょう』
俺は糸を掴んだ。
生きて生きて生きて、生き抜いた先に救いがある保証はない。
それでも死ねない。
掴んだ瞬間、糸が凄まじい力で俺の身体を引っ張り上げた。
「――護!」
目を開けると、つむちゃんが泣いていた。
なんだ、またか。
「今度は、どう‥‥した‥‥」
何か大切な物を落としてしまったのか。それとも男子に馬鹿にされたのか。
大丈夫だ。
俺が何とかしてやる。だって、親父ならそうしろって言うはずだから。
何故か右手が動かないので、左手で涙を拭う。
するとそこにいたのは、幼いつむちゃんではなくなっていた。
紡が俺を見下ろして泣き笑いの表情を浮かべていた。
「馬鹿‥‥大馬鹿」
「ごめん」
理由は分からないが、女が泣いていたら謝る。これは真堂家における鉄則である。
「いいから、集中して」
紡は涙を拭うと、魔法を発動した。
糸が俺の身体を覆う。
彼女が何をしようとしているのか、少し遅れて気付いた。
「‥‥ありがとうな」
『火焔』を発動し、紡の糸を燃やす。
今の俺は多分、ヤバい。相当危険な状態なんだろう。
何せ痛みを感じてないし、『火焔』の発動も止まっていた。
驚異的な再生能力を誇る『火焔』だが、発動されていなければ意味はない。
本当に瀕死の状態だ。
この命を繋いでくれたのが誰かなんて、考えるまでもない。
「‥‥」
糸を通して紡の熱が伝わってくる。鼓動が身体を揺らす。
俺は今、彼女の命を燃やして生きている。
動かなかった右腕に、力が伝わり始めた。一体どんな状態だったのか、痺れてまともに動きもしないが、血が巡るのが分かる。
瞼の裏に蘇るのは、死の淵で見た数多の光景たち。
親父の技。
何故あんな光景を見たのかは分からない。見たことのないはずの景色、親父の姿。
今はその理由を考える時じゃない。
回復してきた耳に、激戦の音が聞こえた。まだ誰かが戦っている。こんなところで寝ている場合じゃない。
さあ、蜘蛛の糸を掴んで生き延びたんだ。
精一杯、絶望と向き合おうじゃないか。




