繋ぐ命 ―紡―
紡ははじめ、何が起こったのか分からなかった。
今まさにオウルを射抜こうとした時、背後から得体の知れない気配を感じた。
振り返ることさえもはばかられる根源的恐怖。
見たら、死ぬ。
その直感が脳裏にはりついて、紡は動けなかったのだ。
だから、紡がそこから移動できたのは、彼女自身の意志ではない。
凄まじい衝撃が地面を揺らし、それに弾かれるようにして紡は跳んだ。
がむしゃらに、ただその場から逃げだすためだけに糸を伸ばし、遠くへと跳んだ。
「っはぁ、はぁ!」
地面を転がり、荒い呼吸を繰り返す。
生きることを思い出した心臓が荒々しく鼓動し、酸素を求めた。
――何、が。
振り返ろうとした時、ボトッと隣に何かが落ちてきた。重くて水っぽいそれは、何度か地面を転がり、紡の手に赤い飛沫を散らした。
「――」
それは腕だった。
黒いグローブを付けた右腕が転がってきたのだ。
「――――え」
さびついた歯車のように首を回し、後ろを見る。
そこに広がっていたのは地獄だった。
木々の生い茂っていた山は荒れ果てた大地に変わり、めくれ上がった地面が土砂の塊となって緑を飲み込んでいた。
まるで巨人が花壇をシャベルで掘り起こした後のようだ。
混沌とした光景の中で、紡の目に入ったのは赤い色だった。
「―――‼」
声にならない声を喉から迸らせ、紡は跳んだ。
「護‼」
駆け寄った先にいたのは、半身が土砂に埋まった護だった。
周囲には剣の怪物のパーツも埋まっている。
恐らく何かが到着した瞬間、護が怪物を盾に突っ込んだのだろう。
自分を守ろうとした結果がこれだ。
「っ、邪魔!」
糸で土砂や倒木を排除し、埋もれていた身体を丁寧にすくいあげる。
全身に赤黒い傷が刻まれ、右腕は肘から先が無くなっている。
まるで適性試験で化蜘蛛に殺されかけた時のようだ。
しかしあの時と決定的に違う点があった。
――炎が、消えている。
これまでどんな危機的状況であっても、決して消えることのなかった火が、ない。
胸に耳を当てると、鼓動が聞こえない。
死――。
その言葉が脳裏を過った瞬間、紡はそれを否定した。
違う。
違う違う違う。
そんなことない。
そんなことあっていいはずがない。
ようやく再会できたんだ。
あの時止まってしまった時計の針が、ようやく動き始めたのに。
「ッ――!」
唇を噛み切り、紡は目を開いた。
この現実から目を逸らすな。
護が桜花魔法学園に現れた時から、こうなる可能性はずっと頭の片隅にあった。
だって護は優しくて、誰かのためなら自分の危険なんていとわないから。
魔法で強化されていない生身の肉体なら、糸は通る。
「念動糸‼」
指先を揃えて護の胸に当て、魔法を発動する。
護の身体に直接糸を潜り込ませ、心臓を握る。
優しく、丁寧に。
念動糸による直接の心臓マッサージ。
ずっと考えていた。護が命を懸けて戦い続けるというのなら、彼を殺させないために自分に何が出来るのか。
魔法の鍛錬を続けながら、解剖学や医学の勉強も重ねてきた。心臓マッサージだけではない、その気になれば傷の簡易的な縫合すら可能だ。
護。
護。
「護‼」
私が、繋ぎ止める。
絶対に死なせない。
「ニンゲン」
紡の上に長い影が落ちた。ひび割れた言葉が耳に響く。
紡は見なかった。
たとえ頭を砕かれようと身体を吹き飛ばされようと、この糸は離さない。
「イノリヲ」
影が揺れ、腕が何かを持ち上げた。
死というのものに形や重さがあるのなら、紡の頭上にあるものがそれだ。
それでも紡は心臓マッサージを止めなかった。
次の瞬間にはひき肉になるとしても、護を生かす。
振り上げられた影は下ろされなかった。
ただ静かに声が響いた。
「イノラナイ」
ひび割れの声は問いかけてくるようだった。声を聞くだけで心臓が止まりかけ、喉が閉まる。
それでも紡はか細い声で答えた。
「‥‥祈っても、目の前の現実は変わらない」
「ワカラナイ」
「当然。私たちは人間で、お前は違う」
「ワカラナイ」
影は続けた。
「ワレワレ、カミノコ」
予想外の言葉に紡は思わず顔を上げた。
長い影が重く分厚い影に塗り潰される。
金風に押し流された曇天が空を、地面を覆う。
薄闇の中に黒々としたシルエットが立っていた。
仁王像を彷彿とさせる巨躯に、天を突き上げる片角。
右胸には青い稲妻が走る。
威風堂々と描かれたるは――――『3』。
歴史上、日本で観測された数はたった三体。
過去A級守衛魔法師を何十人と葬ってきた、最強の怪物だ。
生き残る道はなかった。
たとえここで護を蘇生できたとしても、逃がすことは不可能。
ランク3は歩く災害だ。
過去東京で二度、大阪で一度出現した際には、それぞれ千を超える犠牲者を出している。
どうすることもできない。
絶望の帳が世界を覆っていくのを感じながら、それでも紡は指先から伝わる熱を、血の脈動を手放さなかった。
最後の瞬間まで、紡はそうしただろう。
そう、その時が来たのであれば。
「なーにツッちゃん泣かしてんの?」
黒々とした影が、紡と怪物の間に落下してきた。
銀が薄闇の中でも自ら光を放つように輝く。
来るは日向椿。
桜花魔法学園が誇る最強と、ランク3の最強。
重い曇天の下、両者は互いに視線を逸らすことなく、魔力を纏った。




