張り詰める弦 ―紡―
◇ ◇ ◇
護とオウルが出会う前。
護が空に跳びあがった瞬間、いや、突然顔色が変わった瞬間、紡は言いようのない恐怖を感じた。
それは護自身を怖いと思ったのではない。
護が自分の知らない何かになってしまったような恐怖だ。
「行かなきゃ」
「あ、待ってください!」
「音無さんは椿先輩への連絡を優先して」
律花の方を見ることも無くそう言うと、紡は『念動糸』を建物に伸ばした。
壁を糸で捉えると、身体を引っ張って一気に飛び上がる。
「うぉっ!」
「なになに、撮影⁉」
「すげー」
建物から建物へ、糸を伸ばして紡は空を飛ぶ。椿のような自由な飛行は出来ないが、紡も建物が多ければ立体機動を行うことができる。
魔法の中でも空を飛べる魔法は貴重で、使い手も少ないため、どうしても人々の視線を集める。紡が普段使わない理由の一つだ。
(明らかに普段の護と違った。一人にしちゃ駄目だ)
周囲の視線を無視し、紡は最短距離で街を突っ切った。
護の目が頭にこべりついている。
燃えるように揺れる光の中に、紡の知る彼は消えてしまっていた。
転校した後、紡は護が来てくれるのをずっと待っていた。子供の頃の約束だからもう忘れているだろう、という現実的な考えで予防線を張りながら、心の片隅で諦めきれなかった。
それくらい転校した先での生活は紡にとって辛いものだった。
私塾に通い、『念動糸』の訓練を続けながら、様々な研究施設で検査を受けた。
『固有』は発現数が少なく、所有者は様々な優遇を受けられる代わりに、研究の協力を要請されるのだ。
固有を持った者の進路は社会の圧によって限定される。
力ある者には、それに相応しい責任が付きまとう。
たとえそれが望んだ力ではなかったとしても。
だから高校で護に会えた時、嬉しかったのだ。約束を忘れられていたのは辛かったけれど、千歩、一万歩譲ってそれを許せるくらいには。
しかし護の話を聞いて、後悔した。
憧れだった父を失い、友達になった妖精を失い、望まぬ力に押されるように桜花魔法学園へと訪れたのだ。
どうして自分はその近くにいられなかったのか。
何故待つばかりだったのか。
自分が近くにいてあげられたら、一人になんてしなかった。魔法を使わなくたって、守衛魔法師の夢を失ったっていい。
ただ隣にいてくれるのなら、紡は幸せでいられるのだから。
『いや、何か声が聞こえた気がして』
行っちゃ駄目だ。
誰が呼んでいるのかは分からない。友達だった妖精か、それとも別の何かなのか。
なんであれ、護にあんな目をさせる声がまともであるはずがない。
もう二度と、あなたを一人にしない。
何が起きたって、私の糸があなたを掴み続ける。
街を抜け、山を駆ける。木々の密集した山の中であっても、幅跳びを繰り返すように糸で加速を続ける。精密かつ強力な糸の操作は、紡が長い間鍛錬を続けてきた証拠だ。
「――あれは」
駆け抜けながら、紡はある音を聞いた。先行させている糸が、先の音を拾ったのだ。
明らかな戦闘音。
間違いない、護が何かと戦っている。
「『イーグルアイ』」
紡は片目だけ魔法を発動させた。視力を強化させるこの魔法は、高速移動中に発動すると、事故を起こす可能性が高まる。カーレース中に双眼鏡を覗き込むようなものだ。
だから片目だけ。
目の開け閉めを繰り返し、移動と観測を両立させる。
――見えた。
木々の隙間から炎の光と、青い光が見えた。
護と怪物だ。それも複数の怪物によって攻撃を受けている。
紡は木の枝に着地すると、念動糸で身体を固定化する。
同時に背中にかけていた鞄を開いて、中にしまわれていた物を取り出した。
それは優美な曲線と武骨なエッジが組み合わさった漆黒の弓。
紡の専用武機、『弦月』。
しかしこの弦月には、弓には必須の弦が存在しなかった。
紡は鞄から取り出した矢を番え、『念動糸』を発動する。
魔力の光が収束し、弦となった。
この『弦月』は、紡のために国の研究機関が制作した特別な武機である。
両端に滑車をつけたコンパウンドボウと呼ばれる代物で、通常より軽い力で重い弓を引くことができる。
しかしこの『弦月』は、弦があったとしても通常の人間では絶対に引けない。あるいは『エナジーメイル』を発動した守衛魔法師でさえ、引くのは難しいだろう。
それほどまでの強弓を、紡は難なく引き絞った。
当然それを可能にしたのは、弦として張った『念動糸』だ。
弦月の内側には念動糸を通せる機構が存在し、糸を束ねて通し、引いたのだ。
紡は大きく息を吐き、深く吸った。
イメージするのは、水面。そこにゆっくりと入り込む。
――集中。
思考の一切を水の中に沈め、身体に叩き込んだ感覚だけを呼び起こす。
回転する怪物が地面を削り、護へと突撃しようとしていた。
「――」
どんな危機的状況であれ、どんな不安定な体勢であれ、何万回と繰り返した動作は揺らがない。
自然と脳内に矢の軌道が描かれた。
視界と頭の中に思い浮かべた射線が一致した瞬間、紡は溜めに溜めた力を解き放つ。
ゾンッ‼ と矢は命を脅かす音を立てて飛んだ。
この矢も怪物の素材で作られた特注品であり、『クリエイトアロー』の効果を最大限に高める。
笹川八知は矢に魔法の容量を振っていたが、紡は逆。念動糸を最大限生かし、弓の力を限界まで高めた。
結果、矢は音速を超えて山を切り裂き、今まさに護へと突撃しようとしていた怪物を射抜いた。
斧の怪物は何回転もしながら宙を舞う。
それを見届けながら紡は護へと伸ばした糸を使って声を届けた。
「さっさと構えなさい護。後ろから援護する」
相手はランク2の怪物が今のを除いて三体。
驚くべきことに、どの個体も紡の知る怪物とは姿が違っていた。
ベースが明らかに人間である。
おそらく一番奥で空を飛んでいるのが探していた少女だろう。
その個体も含め、全ての怪物が人間の名残を残しているのだ。
護といい、怪物といい、明らかな異常事態。
それを目前にしながら、紡は静かに深呼吸をしただけで心を鎮めた。
たとえ敵が人間に類するものであったとしても、その眉間を射抜くことに一切躊躇いはない。
何故なら、
『ありがとう紡』
糸を通して聞こえる声は、紡のよく知る護だった。
――良かった、元に戻ってる。
これなら、ぶれない。
護の敵は全て自分が排除する。
「次は後ろの奴。剣を抑えて」
護に指示を出しながら矢を番える。狙うのは銃を構えた怪物だ。
あちらも紡を認識している。その銃口は確実に自分を捉えていた。
『了解』
飛び出した護が剣の怪物と衝突した。
炎と斬撃が交錯し、視界が一気に悪くなった。
「‥‥」
それでも紡は揺るがない。
引き絞った矢を保持しながら、微塵の揺れもなく矢じりの切っ先を炎に向け続けた。
互いの一撃は、護と剣が離れた瞬間に放たれた。
白と黒の光がぶつかり合い、刹那の均衡を破って黒の矢が光を穿った。
「ぁああ⁉」
銃となっていた左腕が弾け、怪物はボールのように地面を転がった。
――二体目。
今回のミッションのために用意できた矢は五本のみ。一本一本に怪物の素材を使うこの矢は、そうそう用意できるものではない。
三本目を番えた瞬間、それは来た。
「固有持ち――!」
オウルが大気を打ち、紡へと突っ込んできたのである。




